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武士道

息子が武士道を読み始めました。
喜ぶ母です。 

とても説明がしやすくなりました。
お手伝いに手抜かりがあれば、「誠の心でやったと言える?」「全うしたの?自分に偽ってない?」と言うと丁寧にやり直しする。
不貞腐れているときに「礼に欠けていませんか?」と言うと態度を改める。

やりやすい。

礼の説明の時に「私はお母さんだからあなたが優しくて真面目な感謝の気持ちを持つ子だということを知っているけど、初めて会った人にどうやって気持ちを説明するの?仁が表に出てきたのが礼です。礼を守って下さい。挨拶をして、お世話になった方に礼を表現して下さい。そうしたら可愛がってもらえるよ。礼がなくて人の恨みを買うのはただ自分が損なだけですよ」と話しました。
忠の時は、主君への忠義って今の世の中には無いようだけど。私は個人的に所属する団体のことを(息子なら)スポーツ少年団や、学校、お家のことを外で悪く言わないという事だと思うよと伝えました。自分のいる集団が悪く思われるのは、回り回って自分の損にもなるのだから、愚痴を言うのではなく、他人には良い面を伝えるようにしましょう、と。もちろん愚痴が出ることもあるかもだけど、基本的なスタンスとしてはそういう事だと。


武士道が全てだと私は思ってはいないんだけど、好きなのです。好きって大事だと思う、尊敬とか。私の中ではこの二つはとても近い意味です。

そういえば長男の時は仏教を使って説明しました。長男は子ども用の仏教に興味を持っていたからです。仏教も好き。尊敬しています。

人それぞれに、正しい考え方があると思うし、世界には正解は無いかもだけど。こうやって先人の知恵に助けてもらえることは私は凄くありがたい事だと思います。その教えを大切に思える事、教えを好きで尊重したい、守りたいと思う自分の事が好きで、気分が良いです。

ただ、私はどこかの宗教とか思想集団とかに所属はしないと思う。
それは、仏教でいうところの自灯明法灯明、だからです。自らの気持ちと、先人達の知恵のみを拠り所としたいからです。

自分の正解は自分の感情にあって、自分の役割(視点、立ち位置)を教えてくれる、それが自らを頼むという事だと思う。でも、その指針となる方法は独りよがりでいるよりも多くの人の教えてくれた言葉に残されているものを受け取る方が良いと思うからです。誰か他者に依存するのではないけれど、その言葉は知恵として有り難く参考にする。違いが分かりますか?自分で決めるということです。

新渡戸稲造の言葉に「義に過ぎれば固くなる、仁に過ぎれば弱くなる」とあります。他人に対してのものと思いがちですが。わたしは、むしろ自分自身に対してこそ、そうだと思う。つまり、向上心のみで自らの課したルールに縛られ過ぎ自分を責めるのも(百点満点症候群)も、自分に甘くするばかりで挑戦を求める本心に「別にやりたくなかった」「これでも良いや」と嘘を付くのも良くないと思うのです。

何事も、その中庸(リラックスして心地が良い事)が宜しいのでしょう。そして、その中庸は己の心のみが知っているのです。

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