見出し画像

Last Stage〜2024 風の時代・春 From The Beginning

デビュー50周年の春ツアー。4月には坂崎さんと高見沢さんの古希のお祝いをし。え?たかみーが幸ちゃんのもとへ嫁いだ? はたまた舞い降りた妖精さんの美しさに驚愕したり。ロックばん公式Instaの#ブラリタカミーは始まるわ、歌朱印集めに奔走したり。倉敷での祝!2900本。毎回楽しみだった各地のご当地スタンプメリーアン音頭を踊るとか!!チケットの落し主捜索をしてくださった上野東照宮さんの神対応まで。実にいろいろなことがありました。

聞きたかったあの曲に大好きなあの曲、久しぶりのナンバーも。そんな中で何が一番?と聞かれたら、迷わず。本編ラストで歌われたLast Stage。これに尽きます。

この歌をこんな気持ちで聞ける日が来るとは思わなかった。

こんなにもあたたかい…光に満ちたLast Stageを…聞けるとは。穏やかで優しい気持ちで聞けるとは思ってもみなかった。それは何にもまさる素敵なおくりものでした。

1987年に発表されたライブ盤『ONE NIGHT DREAMS』に収録されたこの曲。もちろんアルバムを聞いて知ってはいました。なかなか厳しい歌詞だな、ツライな…という印象だったこの曲を。
初めて生で聞いたのが90年の秋。『Revolution II』の名古屋市民会館3Daysでした。アンコール大ラス。槍でグサーーーッ!と後ろの壁に串刺しにされた気分でした。胸をえぐられるような痛み。たまらなかった。これが高見沢さんの心の叫びか…

この歌詞における "俺" は、どこまでリアルな高見沢俊彦なのか。創作か本心か。いずれにしても当時高校生だった私には、重く苦しい歌詞でした。

戸惑い、苦悩、憂い、疲弊に苛立ち。
それでも前に進まなければならない。
必死の想いで何とか持ち堪えている。
当時の私にはそんなふうに聞こえていました。

時間の経過とともに、私自身の経験値が上がったことで言葉の解釈も広がっていき、毎度押しつぶされそうになっていた心境にも少し変化が。3人が変わらずステージに立ち続けてくれている尊さを抱きしめるように、噛み締めて聞く歌になっていきました。高見沢さんの歌声にも自らを奮い立たせる意志…のようなものを、感じていました。

2000年代に入ると私立高見沢高校、Berlin Callingなどを手始めに、Kaleidoscopeからは本格的にソロ活動を始めた高見沢さん。“For THE ALFEE” を掲げ、刺激を求めて外へ出る。それをALFEEに還元する。そう公言されていました。
そんなこともあって、私はその歌声に強い意志をみていたのかもしれません。

長谷川さんがドラムを叩く最後のステージだった大阪城ファイナルでのLast Stage。35周年の大阪城ファイナルでのLast Stageにも。

どうかこの道がこの先も続いていきますように。
心臓握られたまま祈らずにはいられなかった。

さて。そんな中。
新しい歌詞がお披露目されたのは2014年の大阪城ファイナルでした。このヴァージョンが翌年2015年の夏イベでも歌われ、マニア会報の夏イベレポートによって「もうひとつのLast Stage」というタイトルを知ることになります。この時は、今の自分に合わない気がして書き直したとおっしゃってますね。そして2019年の大阪城ファイナルもこの形で。

大阪城ホールでの記録は残っておらず一言一句を確認することはできないので、15年の夏イベ映像で歌詞を拾うと…

作詞・作曲:高見沢俊彦/編曲:ALFEE

随分、表現がまろやかになっていると思いませんか?

2014年はデビュー40周年、2019年はデビュー45周年という節目の年。
「ここからもっと前に進むために」「約束しよう俺はいつまでも君の前で声の限り愛と夢を歌っていこう」という歌詞から、まだまだ行くぜ!という気概が感じられて嬉しくなったのを覚えています。

しかしファンとは勝手なもので。
元の歌詞が耳に馴染み過ぎていて、どうにも不自然さが拭えない。原曲の痛みをひしひしと感じてきただけに…ツラかった歌詞と自分なりに向き合ってきただけに違和感…というか何というか…。Musicianに新たな歌詞が加わったのとはワケが違うのだ。
嬉しかった!うれしかったの!でも…

それが。

この春ツアーでは歌詞が元に戻っていました。

元の歌詞ということは。
心臓つかまれるあの歌詞。

なのに。なんだろう?この不思議な感じは。

同じ歌詞を歌っているのに、あの頃とは見える世界がまるで違う。
受け取るこちら側の問題なのか?いーやそんなレベルじゃない。

アレンジは変わっていない(はず。印象として変わってないです)変わったのは高見沢さんの歌。歌声。声の印象。

どうして?なぜ今この歌詞で?
そんなふうに歌うことができるの?

何だかよくわからないまま、それでも心にぽっと火が灯ったような、じわっとあたたかい気持ちで本編を終えていました。

春ツアーは進んでいき…ロックばんの放送の中に、ヒントを見つけました。その後のライブMCでも口にしていた「古希を迎えて自由になれた」という発言。還暦の時はこれからがんばろう!と意志を持ったけれど、この50周年ではすごく自由になれた感じがした、と。ブラリタカミーで渋谷のスクランブル交差点や銀座のホコ天を歩けちゃったりしたのもそのひとつ。そして、いろんな所に行っていろんな発見があった、という趣旨のことを話しておられました。

あぁー…高見沢さんは苦しみもがいた何かから解き放たれたのかもしれない。窮屈さが一気に消えてなくなるわけではないのだろうけど。でも。デビュー50周年、ご自身も古希を迎え「THE ALFEEの高見沢俊彦」として手に入れた自由。軽やかさでもあるのかな。

ファイナルでの歌声はひと際、しなやかに力強く。不安や苦しみの要素はどこにもなかった。ただただあたたかく。
”いーか。みんな、ここからだからな。ちゃんと見ててくれよ" そう言って笑ってくれたように思えた。

言葉選びという点でもうひとつ。ツアー中盤で気づき、序盤からそうだったのか不明…ではあるのですが。
高見沢さんは「休むことも許されず俺は」を「休むことも許されず俺たちは」と歌い、最後の最後だけ「ラスト・ステージきっといつか 君にもう一度会える 必ず会える ラスト・ステージその時まで君の唄は歌わない」と、もうひとつの〜ver.で歌いました。ここに今の高見沢さんのリアルがあるのかな? 3人で歩んできた道の確かさ、自信、そして変わらずライブがすべてであり、そのステージはこの先も続いていくと信じきれる。だからまたここで再会しよう、と。そんなふうに考えてみたのですが。高見沢さんの真意は…どうなんでしょうね?

歌詞をまとめていたら久しぶりに『蜂の王様』を思い出して。パラパラめくってみました。はい。フィクションですよ。主人公の名前は高見沢俊彦だけれど。……高見沢さんの痛みをほんの欠片だけでも理解したいと願って読んでいたあの頃(遠い目…w)
ここにもリアルが見え隠れ?するんですよね。フフフ。

最後にツアーセトリです。曲が入れ替わった部分は or 表記に。その中で個人的に一度も遭遇できなかった曲をカッコにしてあります。同じタイトルが上にも下にもあるのは、演奏された位置(曲順)の違いによるものです。

やはり全曲制覇は難しい〜。ま、そうそうできるとも思ってないからいいんですけどね

さ!次はKアリーナですよ。今年の夏は!メリーアン音頭、ご一緒に〜。あソーレ♪


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?