時の瞬間

過去は夢

ターンとリターン  繰り返し

ターン、 ターンに ターン で リターン

先は闇


ターン、 ターン

もうひと回り、  また回る

はっきりして 輝くのは今

夢の中では いつも踊るの




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今という時のリアリティと

過去という時のファンタジー

未来という時の空白   について考えた。

考えたときの私は、雨の日の夜、外の不穏な空気と雨音を感じつつ

寝苦しく感じながら、

悪天、そして眠るべき時間帯の中でこそ冴えわたる意識を感じていた。

(私は穏やかな天候の中では温い心持になり、

暑すぎる天候の中では不安な心持になり、

寒い悪天候の中では張り詰めた、妙に意志に満ちた心持になる人間だ)

今(その夜)の私にとって、過去の私の現実は、物語のようだった。

無知で、無邪気に、色んな景色を見ようと

一定範囲の中を動き回っていたみたいに思えた

それは、過去が今の私の視線、意識の包囲を免れない限りにおいて必然かもしれない。

リアリティとは、リアリティのある現前とは

意識の外界との境界に自分の心や身体がある状態のこと?

そこで外界にあるものは、「新しさ」である必要はなく

だから、デパートに行けばリアリティが必ず得られるということでもなく

今の私の様に惰性がある今だと、今なのにどこかファンタジックに感じていたりする。

何十年と過ごした居間でも、使い古した湯呑みをそれとして、対象化するなら、リアリティを感じられるということ

リアリスティックに感じるのは

自らと心的距離のあるもの、事態なのだろうか


冒頭の短い詩風のことばは

「今」この時に、過去の自分の舞を眺めて、

未来の空虚な様を一瞬でも認めることができた

そういう充実感のあるまどろみの中で呟きながら寝入ったもの

時間は、いつ考えても面白い。

「ターン」という言葉を使ったのも好きなイメージがあるからなんだけれど

それはまた別の機会に…


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