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未来を描けなくっても

未来のことを考えるのが苦手だ。

noteに好きなコトを書こうと思い立ったものの、あれこれ考えると、どうもわたしの気持ちは「過去」か「今」にしかいかない。

昔あんなことあったなという、ほろ苦い、だけど、どこか甘さを伴う思い出を頭の中でコロコロ転がすのも好きだし、今この瞬間や状況を楽しむ、というのも至福の時間だ。

しかし「これからやりたいこと」「こうなっていきたい自分」を描くのが、昔からどうにも苦手なのである。

以前ある人にそれを指摘されたことがある。 たしかに3か月後の自分でさえ想像できない。手帳にあれやこれや書くのさえ苦手だ。

どうやって、そんな先の自分を想像する?
幸せでありたいとは願うが、夢や野望を描けない。計画性もない。

会社でプロジェクト計画は作れるのに、自分自身の計画は作れない。何か脳内に致命的な欠陥があるのかもしれない。

思えばこれでずっとやらかしてきた。

「今がお幸せで充実しているからですね」と言われそうだが、本人にとっては真面目な大問題である。



小さい時の願望で達成したことは1つだけある。「家族と離れて一人になる」ということだ。

上京してこれが達成された途端、わたしにはやりたいことはなくなった。合格通知を受け取ったときに、人生の目標を失った。大げさではない。あれ以上、全身全霊を傾けて打ち込める夢など、ついぞ目の前に現れたことがない。

大学は多様な分野が選べる学科に進んだ。しかし最終的に何かは専門にしなければいけない。何を聞いてもだいたい面白い。でもこれでなくちゃダメだということは見つからない。成績だけは良かったが、教授は誰も私を覚えていないであろう。そっと教室の隅に座り要領だけいい人間。それが20歳前後のわたしだ。

何もしたいことがない人間は就職活動も失敗する。なにせやりたいことが何もないのだから。熱意も誠意もない人間を企業は冷たく見抜く。

なんとか小さい会社に就職したが、これまた何もしたいことがない。小さな嘘と思い込みで、「開発がやりたい」と異動したら、そっちもまあまあな地獄であった。

人と話すのは面白い。でもプログラミングしていたら何時間もいつの間にかたっていたとか、お風呂に入るときもどうすれば実現できるか考えてしまうとか、そういう境地に憧れたがさっぱりだ。20年以上たつが、カケラも予兆が現れない。

家に帰ったらキレイサッパリ、仕事を忘れる。いやむしろ忘れ去りたい。こんな扱いを受けている仕事は、わたしにとって好きなことじゃないんじゃないか?と思う。

結婚願望もなかった。うっすらあっても、相手がその気にならないなら仕方がない。おかげで結婚はかなり遅くなった。

子供を欲しいと思ったこともほとんどない。そのせいで今も夫婦2人暮らしである。家族から離れて1人になりたかったわたしは、好きな男性以外の「誰か」と暮らすことが想像できなかったのである。

そもそも相手と相性と運ありきの家庭生活を「夢」と思うなんて、望むことがなぜできる?



「将来、何になりたいの?」

小さい子供にも、若者にも、人はみんな聞く。

20歳のとき、アメリカで1カ月過ごしたとき、何度も何度も同じ質問をされた。もう、うんざりである。どうして「何かにならない」といけないのだ。

そういえばと思い出す。
アメリカで答えに窮し、"I wanna be a writer."と答えたっけ。

何かを書きたいとは、いつも思っていたのであろう。本が出せたら最高だとも思った。でも書きたいことは見つからなかった。

書きたいことを見つける努力も、書いてみる努力もしなかった。

本を出すような人物になるのがそもそも無理だと思っていた。大学で教鞭をとっていた祖父に著書が何冊かあるのを思い出し、研究者になれば、物書きになれるのではないかと考えた。就職せずに大学院に行きたいと言ったこともある。しかし研究したい事柄もないのだから、説得力がない。熱がない。家族の「これ以上のお金は出せない」で一蹴された。

就職した後、かなり名の通った翻訳家を紹介され、「翻訳をしたい」と、その人にのたもうたことがある。翻訳すれば何か書けると思ったからだ。下心満載である。親切なその人は何者か不明な小娘に課題を与えてくれた。でも英語を自然な日本語に変えるテクニックどころか、十分な英語力もないのである。課題は達成できなかった。

いつか、そんな自分のささやかな願望は忘れていた。

どうして人は夢を語れるのだろう?

わたしは今を生きるので精いっぱいだ。でも昔からそうだったから、仕方がないと思っている。美味しいごはんを食べ、夫の顔を見て、ケーブルテレビで「名探偵ポアロ」でも見れば幸せなのだから、安上がりなものである。

熱がない。優等生なのにやたら怒られた。熱意がない生徒を昭和の先生は嫌いだったのだ。

そしてまた思い出す。いつからこんな風になったのだろう。

子供の頃。10歳ぐらいになる前のわたしは、友達らしい友達もおらず、四六時中いじめられていた。いじめられていることを親にも言えなかった。わたしは1人の世界にこもりがちだった。

1人でお話を書いたり、お話を読んだり、誰も興味を持たないようなことがらを調べたりする時間は、できるとかできないとか考えず、資格があるとかないとか考えず、ただひたすら、あんなに楽しかったのに。

だが、粉雪のように残った「何かを書きたい」という気持ちは、10歳になるかならないかの前にに発生した気持ちは、数十年をへて、あっさり、こうやって達成されつつある。専門があろうがなかろうが、技術が富んでいようがそうでなかろうが、誰でも何かを表現できる時代。IT革命万歳だ。

夢がある人はまぶしい。でも夢や野心なんてなくたっていい。いつかあっさり叶うことさえある。人生はそれでいいのだ。

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