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番外 秋の例大祭

 あちこちの神社で秋の例大祭が催される季節。わたしも行ってきた。靖国神社へ。

 この神社はいわくつきで語られることが多く、「お詣りする」「行ってきた」と口に出すのはちょっと、というかかなり勇気がいる。靖國に抵抗感、拒否感を感じる人がいる理由も理解している。一方、ふつうに神社詣りする感覚で来ている人も意外に多い。

 いずれ父親について書く中で触れるつもりなのでここでは簡単に述べるが、父は戦時中、学業半ばで志願して陸軍航空隊に入り整備兵を務めた。父は外地から復員でき、もちろんその延長にわたしがいる。

 父が見送ったであろう戦友たちも靖國に祀られている。わたしがこの神社を好きな理由は、10数年前に亡くなった父もときどき戦友たちに会いに来ているだろうと、身近に感じるから。そして、国家、というと身構える人が多いと思うのでひらたく書くと、家族などの大切な人々、大切なふるさとのために戦った(ひろい意味での)先達の皆さんを偲びたいから。これは、イデオロギーや政治と関係ない、普遍的な感覚だと思うがどうだろう。

 もちろん思想信条としてこの神社の成り立ちから受け入れられない人もいるだろう。その意味では、わたしはそれを受け入れている一人かもしれない。

 さて、例大祭では短時間だが神殿で参拝できる。コロナ禍、例大祭は参列者を絞って挙行されていたので、一般の参列者の参加は久しぶりだ。そのせいか参列者が多く、拝殿の外の玉砂利の上にも臨時にテントが張られ、折り畳み椅子が並んでいた。

 参列と言っても、ほとんど用意された椅子に座っているだけで、祝詞奏上などのとき起立、低頭するぐらいだ。あとは、大きな垂れ幕が張られた神殿の中でどんな神事が進んでいるのか「想像」したり、境内の樹々が揺れ、鳥が飛ぶ様を眺めたりしつつ、式典の進行を見守る。ときどき、もとは生身の人間で、いまはここにおわす(であろう)神々の来し方や、この先日本や世界はどうなっていくのだろう、ということなども考える。自分は何ができるかも、ちょっとだけ。

 式典の途中には、國學院大學の学生さんたちによる演奏や合唱が入る。つきぬけるような秋空の下、季節外れの温かい風に吹かれ、樹々の緑を見上げながらそれらを聴いていると、自然に厳かで、ありがたい気持ちになる。

 ありがたさの正体をありていに言えば、数多の「犠牲」によって国と名付けられている共同体が護られたことへの感謝であり、その延長に自分を含む多くの命が繋がっていることへの感謝かもしれないが、もっと深いもの。自分は何ものかに囲まれている、守られている感覚がある。犠牲が「」つきなのは、その表現が必ずしも妥当と思えない、と言いたいのだ。

 多くの神社の境内には樹々が繁り、そこにたゆたう空気に人間を超えるものの存在を感じるのは、わたしばかりではないだろう。靖國の場合、さまざまな戦団や地方の戦友会が戦友を悼んで献木した数多の樹木が広い境内に高く枝を広げ、独特の雰囲気がある。

 そういった気配を感じつつ、自分の存在に繋がるもの、これから繋げていくものについて考える時間が、あってもいいだろう。それは戦争や軍国主義の美化とは別の、人の根源に関わることのようにも思う。


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