そっか、相手を理解できなくてもいいんだ。嫌いになってもいいんだ。

ずっと握りしめていた理想を手放したら、人間関係への感じ方が変わって、楽になった。

その理想というのが「みんなが互いに理解し合って、みんなが仲良く平和に過ごすこと。」

う〜ん、実際は理想みたいな柔らかい感じじゃなく、もっと凝り固まった頑固な感じで考えてた。
「みんな相手のことを理解しようとすべき
みんな仲良くできるように思いやりをもつべき
そうすれば平和になるのに。それこそ愛だと思う。」
みたいな感じで思ってた。

でも家族との会話中に気づいた。
相手に私のことをちゃんと理解させようと躍起になって、イライラしている自分に。
そして、相手のことを理解できず、ついついバカにしたような、呆れたような口調で話してしまい、あとで自分を責めて自己嫌悪に陥っている自分に。

相手のことを理解しようと努力しない人にイライラするし、自分が相手を理解できなかったり、思いやりを示せないと罪悪感を抱く。

私が握りしめていた理想からくる、相手への期待や自分に対して課す義務によって苦しんでいることに気づいていなかった。
自分がその理想を握りしめているから苦しんでいるのに、苦しみの原因を相手のせいにしたり、自分の至らなさのせいにして苦しみ続けていた。

平和になるどころか、私の心の中は荒々しく、いつも誰かや自分と戦争していた。

相手を理解しようと努力すること、相手を嫌わず仲良くすることが愛だと思ってた。だから理解しようと努力しないことを裁いたり、嫌うことを悪い事だと思ってた。
でも本当の愛というのは無条件。無償の愛。自分を含む全ての存在をただありのままに認めること。
理解できるできないとか、好きか嫌いかとか関係なく、ただそれが存在していることを知り、存在することを認めること。

理解できなくてもいいし、理解しようとしなくてもいいし、好きでも嫌いでもいい。ただ存在を知り、存在を認める。それが愛。

そのことに気づいたら、握りしめていた理想を簡単に手放せた。むしろ心が軽くなって、嬉しくなって、喜んで手放した。
だってそれを手放せばもう、睨みをきかせて、自分や他人が相手を理解しようと努力しているかいないかを取り締まるポリスマンの仕事から解放されて、そこに使っていたエネルギーをもっと楽しいこと、幸せを感じることに使えるし、理解できないことや嫌ってしまうことで自分を裁き、罪悪感を抱いたり、自己嫌悪に陥る必要もなくなるんだから。

もう相手を理解しなきゃと必死にならなくていい、相手から理解されなくてもいい、嫌ってもいい、嫌われてもいい、ただ多様性を楽しめばいいんだ♪多様性からくる豊かさをおもいきり味わっていればいいんだ♪そう思うとすごく心も身体も軽くなった♪
人と関わることへの恐れが和らいだ♪

私は、相手を理解できないかもしれないという恐れ、理解してもらえないかもしれないという恐れ、相手を嫌いになってしまうかもしれないという恐れ、嫌われてしまうかもしれないという恐れから、長い間 家族以外の人との人間関係をほとんど断ち切っていた。
だから、ほとんど誰からも連絡や誘いはこなくなっていた。

でもこの大きな気づきが起こる日の前日、珍しく昔の友人から今度会いたいという連絡がきていた。
あまりにも人と関わっていないから、友人と会う日のことを考えると不安になっていたけれど、この気づきのおかげでむしろ少し楽しみに思えるようになった。

うまく話せなくてもいい、理解しようと必死にならなくてもいい、リラックスして、友人との時間をただ楽しんでみよう。

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