「情報を疑え」という文脈

入試シーズンまっただ中なので超多忙です。ですが、忙しいのは嫌いじゃない。むしろ忙しいほうが生産性が向上したり、やる気も上昇したり、時間の活用も上手にできたりするタイプです。

先日、近所のお寺の前を通ったら、毎月更新される和尚手書きの「格言」のようなものが新しくなっていました。見てみると「情報を疑え!」と書いてあります。そのお寺の格言はは、スティーブ・ジョブズの名言を引いて「byスティーブン・ジョブス」としたり、字が子供並みに下手だったりと、毎度かなり苦笑いをもって眺めていたのですが、さすがに今回はギョッとしました。

「情報を疑え!」の文字の横に、情報が溢れかえる社会の中、だまされちゃいかん、というようなことが書いてありました。この言葉自体とくに目新しさもなければ「ふーん」という程度にしか感じないのですが、「お寺」にこの言葉が堂々と掲げられて(しかも門前)いたので少々度肝を抜かれました。

ブログなんかでもこの手の啓発はしばしば行われています。「○○というサービスは実は△△というウラがあって、消費者は利用されているだけだ!」みたいな。

それって結局のところ、「損をしたくない!」という気持ちを煽っているだけなきがします。

情報社会ですから、情報が溢れかえっているのは言うまでもないし、もちろん嘘の情報も、情報による操作もたくさんはびこっているのでしょう。ですが、「情報のウラをとる」ためや「情報の信憑性を確認する」ため、あるいは「『真に』正しい情報を得る」ために、たくさんの情報にアクセスするのは、それこそ愚の骨頂だと思います。

なぜなら、それでいくら「正しい」情報にたどり着けたからといって、その情報が「真に」有用であることは稀であるだろうし、そのプロセスにおいて失った時間は、「得た情報」では相殺できないほど貴重だと思うからです。

「実は」の文法で他人の興味を引こうとするのって、すごくセコいというか、ダサいというか、淋しい手法であるように思える。

そもそも、情報社会を生き延びるために必要なスキルは、情報の真否を見定める力でも、嘘の情報にだまされないようにする力でもなく、「嘘の情報を信じたとしても行きてゆける力」なんじゃないかと思っています。いいかえれば「人との信頼関係」であったり、「体力精神力」であったり「忍耐力」であったり、そして何より「外部からの情報に頼りきりにならない自我」なんじゃないでしょうか。


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