医師による袴田事件血痕「赤み」矛盾点と原判決の要約
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まず、最大の争点、カラー写真の「赤み」=血液の新鮮さという点の考察をして、その後に、静岡地裁での原判決「袴田事件 第 1 審 静岡地裁判決文 被告人 袴田巌に対する住居侵入・強盗殺人・放火事件判決」 静岡地方裁判所(昭和 43 年 9 月 11 日言渡)を要約解説します。
TVやYouTubeを見ればこぞって警察の捏造だと騒ぎ立てる報道ばかり、しかも不当な切り取りや偏向報道が酷く、恐ろしくなります。魔女狩りの熱狂と言うか。私は率直に言えば、日頃の国民の警察や検察への不満の吐口となる、警察の捏造、でっちあげだと言う狂乱的な「捏造」だと言う印象を持ちます。真実を追求したい人は最後まで読んでみて下さい。
1966年の新聞記事では袴田さんが犯人とまくし立てました。 そして2024年には警察の捏造だとまくし立ててます。 民衆は鵜呑みにして右へ左へ。 袴田さんが犯人と報道されれば違う可能性、警察の捏造と報道されれば違う可能性、を自分で調べて考えないと簡単に操作される国民になってしまうと思います。
事件と今回のやり直し裁判の概要
2024年9月26日、最大の争点となった血痕のついた衣類に関して、警察による捏造であると断言する、凄い判決が下りました。
驚いたのは、最大の争点が検察側が開示したカラー写真の「赤み」=血液の新鮮さ、だと言う曖昧で感覚的な争点だったことです。血痕は赤っぽかったから、衣類は味噌に1年以上浸かっていたものでは無く、警察が捏造した(味噌に埋めてすぐ掘り返したのだろう)新しいものだったという静岡地裁の判断です。
皆さん、下記の衣類の血痕は赤みがあると感じますか?
赤いですよね?新しい血液っぽく見えますよね?これは支援者側が用意した写真です。
では下記の写真ではどうでしょうか?赤みは少なく、黒っぽい、茶色に見えませんか?こちらは多分検察側の写真だと思います。
実はこれ、同じ写真なのです。
何が言いたいかと言うと、写真なんて印刷や加工具合で何とでも変わるし、実物の色を忠実に反映している証拠とは言えず、その古い写真の「赤み」を感覚的に争うのは非科学的ではないかという事です。
当時の吉村主任検事:「元が白かった半袖シャツやステテコでは、これらの写真のようにべったりと血痕が付いているのが一見してわかりましたが(中略)写真で見るよりも、もう少し黒褐色っぽい色合いに見えた覚えです。」
記憶なんて曖昧です。実物の赤みに関しては何の客観性も残っていないと言うべきでしょう。
裁判で認められたのは支援者側の味噌漬け実験です。味噌に1年2カ月漬けたら、血痕は赤っぽく見えないという主張です。
でも、下記のように実験では白い生地も味噌に染まって茶色くなってますよね?
一方で事件の写真は生地は比較的白いままです。味噌に1年漬けると、生地全体が茶色くなること(当たりまえ)は実験で示されたと思いますが、事件の写真を全体的に茶色く着色したら、もともと茶色の血痕部分は濃い茶色になって黒っぽく見えるのは当たりまえだと思いませんか?
本当は、生地はあまり茶色くならないけど、血痕だけは黒くなるという実験結果でないと、味噌に対する血痕の特異的な経時的色彩変化は示したことにはならないはずです。茶色い染料で単に全体を染めたのと同じじゃないかと思うのです。
同実験で、衣服によっては味噌の液が染みなかったもの(シャツ)があります。つまり、包み方などによって染みにくい状況もあると言う証拠です。
可能性としては、事件の実際の血痕付き衣服は、あまり味噌浸出液で染まるくるまれ方でなかった可能性はあります。
つまり本当は、下記の長袖スポーツシャツは白にして、血痕も付けて、味噌浸出液が染みなくても血痕だけ赤みが消えて黒っぽくなるという実験結果を示さないといけないのです。あるいは薄い色の味噌を実験に使って、味噌の色が単に血痕に重なって黒っぽくなったのではなく、味噌成分との化学的変化で血痕のヘモグロビン色素が赤み成分のある茶色でなく、黒くなるのだという結果を示さないと証拠にはなりません。ちなみに味噌浸出液は味噌のたまり液と言いますが、基本的には味噌の上部(上澄み)に発生するものらしいです。だからわざわざ味噌たまり液をペットボトルに持ってきて浸した弁護団の実験があるのですが、それば違うのではないかと思います。
ちなみに私は6年前に少数民族(クラビット族、プナン族)のガイドでボルネオのジャングルを歩き回った時、ヒルで血まみれになった時のTシャツをいまだに着ています。そして、血痕は経時的にどうなるか見てます。血痕の色はヘモグロビンで、鉄が含まれており、酸化すると錆の様に茶色になります。また、洗濯してもなかなか落ちません。つまり、血痕と言うものは、多少弱酸性だろうが、何だろうが、時間が経てばヘモグロビンの鉄分が酸化して「茶色」になるというのが真実です。赤でもなく黒でもありません、茶色でその濃淡があるだけです。あとは写真の写り方等で赤っぽくも黒っぽくもなります。
茶色は濃くなれば黒っぽくなりますし(味噌の茶色が重なれば)、薄くなれば黒と言うより茶色になります。茶色の写真の印刷方法や劣化によっては赤茶っぽく見える(赤みがある)という場合もあるでしょう。茶色と言う色自体、赤の要素はあるわけですから。
以上最大の争点であった血痕の「赤み」に関する考察でした。この「赤み」の程度の判断で警察の捏造を断言するのはちょっと乱暴なのではないかな?という意見です。
味噌樽を捜査員がチェックして何も無かったのが7/4
味噌が詰められたのが7/20
袴田氏が初めて任意出頭を求められたのが8/18
衣類埋めることが可能な期間は拘留前です。誰が味噌を詰めたのかの情報が無い。これは重要では?)
味噌が入ってから底に埋めるのは不可能なほど巨大なタンクなのに、警察が味噌会社の協力も無しに大量の味噌の詰まったタンクの底近くに埋めるのはほぼ不可能です(衣類を発見したのは1年後に味噌を出荷する時に他の従業員が見つけたのです)
袴田事件は1966年6月 袴田巌氏がズボンの装着実験を行ったのは、5年半後の、1971年11月です。 ①太った ②縮んだ ③別の犯人が工場職員に居る ④捜査かく乱のため混入させた が考えられると思います
弁護団も指摘している事ですが、ズボン表面にはあまり血液が、確認されないのです(ステテコには大量に認められるのに)この点が不自然であることを弁護団は主張しています。 私の個人的な推理ですが、屋根を上ったり、専務宅に侵入する時にズボンは履いてなかったのではないかと思います。足が自由に動かないし、寒くも無い6月なので、自由に動くステテコ姿で犯行がおこなわれたのではないかと思います。そうでなければステテコに直接かかったかのような血痕はつきにくいのでは?と。静岡地裁の最初の判決でも、ステテコ(89)とパンツ(93)で犯行が行われたと推定しており、
その後工場の風呂に入ってパジャマに着替えて油を持ち出し放火しに行くまでにどうしてズボンを履く必要があったのか疑問です。もしかしたら、刺した帰り道に脱いでおいてあって、工場に入る前に履いたかも知れませんが。あるいは、このズボンは実家から送られてきた20代の頃の現役ボクサー選手時代には履けたが、犯行時(30歳)にはすでにきつかった可能性もあります。犯行時点でかく乱のために既にきつくなっていたズボンを一瞬履いて、又は全く履かずに他の衣類の血液を少しなすりつけて、衣類と一緒にした可能性もあると思います。(私が犯人なら、もしキツくなったズボンを所有していたらかく乱のために味噌に埋める前に混ぜるますね。そしてその後なるべく太るか(しかし刑務所の食事では難しい?)、スクワットして太ももだけを太くするように努めると思います)事件5年半後に履けなかったからといって決定的な否定理由にまではならないと個人的には思います。
当時(昭和43年)の判決文の解説と考察
まず前代未聞の警察の大捏造事件とされた袴田事件に関しては死刑判決が下った原判決を読むことをしてみるべきでないでしょうか。この郷原信郎元検事によるヤフー記事は読むべきかと思います→ https://archive.md/txPb7
判決文自体はこちら
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4人の遺体衣類から特殊な潤滑油様の「混合油」が検出され、同成分の「混合油」が味噌会社の倉庫にあり、不自然に減っていた事実。
事件は昭和四一年六月三〇日午前一時五〇分頃(木造一軒家火災)
こがね味噌専務取締役 橋本藤雄=死亡当時(A型42歳)妻、ちえ子(B型39歳)次女、扶示子(O型17歳)長男、雅一郎(AB型14歳)が死亡。血液型のソースは以下。
全員胸頸部に複数の刺し傷が集中。全員の残留衣類から特殊な潤滑油様の「混合油」が検出、個々に「混合油」がかけられて放火されたと推定。藤雄専務取締役以外の家族は生体反応(煙を吸った形跡等か)があった為、放火時には生存していたと推定。
「混合油」は、出光石油系赤アポロガソリンと、同系アポロバイクルプ潤滑油と の混合油であることが判明。清水市興津本町XXX石油、同市小河内YY Y石油、同市入江浜田ZZZ石油で販売している混合油およびみそ工場倉庫内の混合油と同種と認めるのが妥当とされた。
六月二三日、XXX石油から混合油一 八リットル入の石油缶二個が配達され、そのうちの一個は六月二六日に 従業員AAAAらが釣船に積んで使用し、残りの一個は開けないまま、こがね味噌 第一工場(以下「工場」と略称)の通称三角部屋の前に置いていたこと、こがね味噌工場では混合油は釣船用にだ けしか使用していなかったこと、AAAAが右未使用の筈の缶の中の混合油を使用した従業員の存否を調べたところ、同工場の従業員の中には 誰も居なかったこと、BBBBが六月三〇日午後に石油缶〈7〉を見たと きは一二リットル位しか混合油が残っていなかった、等の諸事実が認められる。石油缶には人血が付着していた。
妻、扶示子のの死体の足元附近から全長一七・二センチメートル、刃長一二 センチメートル、刃巾二・二センチメートルの、柄も鞘もついていない 焼けた「繰(くり)小刀」が発見された(柄は焼失と推定)
専務取締役方中庭の東 北寄り(勉強部屋寄り)土間から、「水田」のネーム入りの焼けた雨合羽の上衣が発見され、その右ポケットにくり小刀の鞘が入っていた。合羽は、五月頃にこがね味噌で 従業員のDDDに支給されたもので、寮の下の脱衣室の壁にかけたか、あるいは三角部屋の机の上に置い たかの何れかであった。なお、専務取締役は事件前日の六月二九日の夕方、工場から帰宅する際には雨合羽は着用していなかったことが認められる。
くり小刀には「安来鋼」「玉菊」の銘が打たれて居り、こ れは、兵庫県小野市の井上熊吉製作所が、兵庫県三木市の寺口小刀製作 所に中身の刃体を製造させ銘を打たせたうえ、岐阜県関市の木鞘製作所 に刃体に合わせて一本づつ鞘を作らせていたこと、及びくり小刀と鞘とが一致することが認められる。
みそ工場内の三ケ所に人血が付着していた。
、工場入口のくぐり戸附 近、三角部屋奥の下水溝の横の板壁、風呂場の腰板等にA型及びA型ら しいと思われる血痕の付着が認められた(専務取締役の血液型と一致する)。
事件から1年2か月後の昭和四二年八月三一日午後三時四〇分 頃、工場一号タンクより、こがね味噌従業員GGGが味噌の搬出作業中に麻袋を発見した。中には血痕様なものがついた下記着衣が入っていた。
白ステテコはA型血液が検出。
白半袖下着はA型血液、右肩部はB型血液が検出。
ねずみ色スポーツシャツからはA型とAB型血液が検出。
鉄紺色ズボンからはA型血液が検出。
緑色パンツからはA型とB型血液が検出。
着衣の何れに も、石鹸性油脂のほかには油が付着していなかった(「混合油」は付着していなかった)
本事件直前には、一号タンクに は少量の味噌しか残って居なかったこと、こがね味噌では七月二〇日に タンクに新しく味噌の原科をタンク一杯に仕込んだこと、新しく仕込んだ のちは、着衣の入った麻袋を一号タンク の底から二〇センチメートル位の深さまでに埋めることは殆ど不可能で あること、捜査官は七月四日に令状に基いて工場内の捜索を行なった が、その際は一号タンク内の捜索はしなかった等の事実が認められる から、着衣の入った麻袋は、昭地四一年七月二〇 日以前に前記一号タンクに入れられたものと認められる。
七月四日午前九時五分 頃三角部屋奥西側の境にある巾五八センチメートル、深さ二九センチメ ートルの排水溝の中から手拭一本が発見されたが、それには「こが ね味噌」のネームが入って居り、その中央部に棒状にAB型らしい血液が付着していたことが認められる。手拭には油は付着していないことが認めら れる。
袴田さんのパジャマからA型とAB型の人血と「混合油」が検出
七月四日午前九時三〇分頃、 寮の被告人の部屋の左側の夜具入下段からバジャマが発見されたこと、被告人のものであることが認められる。パジャマの上衣の左胸ポケットの 部分、下衣の右膝の部分に最も、その他上衣の左前下側等にも人 血が付着し、そのうち、上衣の左胸ポケットの人血は、AB型、左前下 側の人血は血液型不明、下衣の石膝の人血はA型、その他の部分の血液型は不明であることが認められる。パジャマには、出光石油系赤アポロガソリンと 同系アポロバイクルブ潤滑油との混合油と認められる油が付着してお り、前掲石油缶中の混合 油と同種であることが認められる。
本事件直前には専務取締役方寝室八畳間の夜具入戸棚の中には集金用 手提袋(通称じんきち袋)が9個あったが、3個なくなっていた。(イ、ロ、ハ、の三個)
六月三〇日午前五時三〇分 頃、専務取締役方裏出入口東側杭の外側コンクリート部からイの金袋 が、また同日午後二時頃、専務取締役方の裏出入口と線路の間附近からロの金袋がそれぞれ発見されたことが認められる。 イの金袋に人血が付着していた(血液型判定不能)。ハの金袋(現金8万2325円及び小切手二枚(額面合計1万6900円) 在中の布製金袋)は消失していた。
九月一三日午後二時四〇分ころ、清水市相生 町清水郵便局事故郵便物係において、清水警察署長宛の差出人名の書い てない封筒一枚が発見され、その中には、次のものが同封されて いたことが認められる。
5万700円分の様々な紙幣(全て半分焼けている)。「ミソコウバノボクノカバンノナカニシラズニア ツタツミトウナ」と片仮名で鉛筆のようなもので書かれている、便箋一枚。
千円札のうちの二枚には、それぞれ「イワオ」と片仮名で鉛筆 のようなもので書かれている。
百円札一枚には、人血の付着が認められだが、その血液型は血液微量のため判定 不能であったことが認められる。
上記の事実を総合すると、犯人は、専務取締役方寝室八畳間の夜具入戸棚の中の金袋のう ち、イ、ロ、ハ、の三個を、窃取又は強取し、その後イ、ロ、の金袋を(3)の各場 所にそれぞれ落し、ハ、の金袋だけを持って逃げたこと(従って犯人が 実際に取得したと思われる現金は、約八万二、三千円位である)、清水警察署長宛の差出人名の書い てない封筒の現金は、盗まれたハ、の金袋に在中していた八 二、三二五円の一部であって、何らかの事情によって、右現金を手に入 れた者が、同時に犯人が「イワオ」といか名前の者であるか、少くとも 犯人が「イワオ」という名前の者と重要な関係がある者だということを 知って、そのことを知らせようとして、札の一部及び、便箋に、自ら前 記のような文字を書いて清水警察署長宛に投函したものであることが推 認される。
二重封筒、便箋、焼けた千円紙幣に記載された片仮名 文字の筆跡鑑定
二重封筒、便箋の筆跡、千円紙幣に記載された「イ、ワ、オ、」の文字とMMM子の筆跡は符合するとの鑑定結果。
被告人とMMM子は、と もにこがね味噌の従業員として働いていた頃親しく交際していたもので あり、また五月頃には被告人が実母のともに、MMM子を、結婚を希望 している相手として紹介したこともあったことが認められる。、八月七日頃の夜被告人がKKKK子の留守 中、同人宅をMMM子を探す目的で訪れてきたこと、被告人が本件で逮 捕された日(八月一八日)の二、三日後に、MMM子がKKKK子宅を 訪ねて、同人に対して、「刑事が何回も来ていやになる」とか袴田との 関係で「もしわたしが話したりするとわたしを犯人に仕立てあげるから 喋らない」「云ってしまって後で仕返しされると困る」などという趣旨 のことを言っていたこと、同人がMMM子に、「被告人が、MMM子を訪ねてきたことがある」旨告げたところ、驚いていたこと等が認めら れる。MMM子は被告人から現金を預か ったか否等について当公判廷で証人として質間された際、殆ど、「忘れ た」、「知らない」の答えに終始しているが、当公判廷に於ける供述の 態度には極めて作為的なものが認められるのでその供述は信用できな い。住吉親は九月一五日から九月二七日まで の間、松下を取調べたのであるが、これに対して、MMM子はは、「証拠隠滅 の罪は重いのか」、「本当のことを話すと、自白したことになって皆さ んに顔向けできない」、「私が言ったことについて絶対罪にしないと約 束してくれれば、話をしてもいい」、「メモだけなら話をしてもいい」 等という趣旨のことを言ったことが認められる。、森下哲雄は九月一五日から一七日までの 間に、松下文子を取調べたのであるが、その際「罪証隠滅の罪は重いか」「被告人から受取ったことにするから検事さんにうまくとりなして もらいたい」、「受取ったことは受取ったんだけれども、直接ではな く、第三者を通じてだ」という趣旨のことを言ったことが認められる。 森田政司は、九月一九日から九月二六日まで の間、松下文子を取調べたが、その際「共犯にならないなら話をしても いい」、「ただ預っただけなら罪にならんという検事の証明書をもらってくれれば安心して話でき る」という趣旨のことを言ったことが認められる。 以上の事実を総合すると、松下文子が千円紙幣のう ちの二枚に「イワオ」と書き、二重封筒にも前記のような 文章 および文字を書いて現金を同封して発送したこと、松下文子は何らかの 方法で右現金を被告人から預かったこと、及び松下文子は、右現金は被 告人が本件犯行に関与して取得したものであることを知っていたことが 認められる。
鉄紺色ズボン端布の存在
、昭和四二年九月一二日午前八時五〇分頃、被告人の実家である浜北市中瀬三一八〇番地袴田茂 治方で端布が発見されたことが認められる。右端布は、九月二七日頃、こがね味噌 から右被告人の実家に送り返された荷物(寮にあった被告人の衣類等一 切をまとめたもの)の中に入っていたことが認められる。この両者は、生地が同一種類であり生地の 染色も似て居り、さらに、ズボンには、端布の切断面に一 致する切断面が存することが認められる。ズボンは名古屋市西区山田町深井縫 製の深井和江の店で、縫製されたものであり、端布は右ズボンの 右裾を切断したとも布であることが認められる。 ハズボンのウエストの直し方、および裾 の縫い方が富士市富士本町日の丸洋服店のそれと特徴がよく似て居り、 この方法は、同店独自のものであること、ならびに、同店では裾を直した場合必ずとも布はズボンのポケットに入れて客に渡すことにしてい た、事案が認められる。さらに右富士市日の丸洋服店は、本店が同市 本町三〇番地に、駅前店が同市同町二丁目一九番地にあり、被告人が昭 和三六年一〇月頃から同三七年七月頃まで居住していた同市同町一丁目一三番地のHHHH方とは、本店 から徒歩五分位、支店から徒歩二分位の距離であったこと及び、被告人 の実姉IIII子の居住する同市中里町一丁目二四九番地から、国鉄冨 士駅に至るバスの沿線に右日の丸洋服店の各店が存在していたことが認 められる。 上記事実を総合すると、端布は鉄紺色ズボンのとも布であって、右ズボンは被告人のものであることが認めら れる。
被告人の同僚でありこがね味噌従業員である GGG三ら九名は、本件以前被告人が緑色のバンツを穿いていたことを 見ており、又同人らはこがね味噌の従業員のうちで緑色系統のパンツを 穿いている者は被告人以外には見たことがないと述べている。、被告人の実母ともが、少なくとも本 件発生以前に一度、浜北市中瀬の清水屋洋品店から白色ブリーフ一枚と 緑色フリーフ一枚を買って、こがね味噌の寮の被告人宛に送ったことが 認められる。
袴田さんの傷について
被告人には、九月八日当時、右上腕部 前面に横に走る長さ一・五センチメートル、巾〇・五センチメートルの 紫褐色の化膿の痕が存在していたこと、また被告人に は八月一八日当時、右上腕の外側上三分の一の部分に一・五センチメートル、巾○・五センチメート ルの、肉芽組織が存在していたことが認められる。 この右肩の傷と、の右肩の損傷は、完全に一致する訳ではな いが、肩部は被告の血液型と一致するB型血液が検出された白半袖下着を着用したままで、充分生成の可能な傷であることが認め られる。
被告人の左手中指の傷について、、六月三〇日の午前三時ころ、被告人が、 左 手の第二、第三、第四指の何れかを手拭でまいていたこと、七月四日水野庄次郎の勧めによって、医師山田昌徳に左手 中指の傷の診察に赴いた際、被告人は同医節に対し、右の傷は、藤雄方 の火災の除、消火活動に徒事中、屋根のトタンで切った旨説明したこ と、、同人が診察したところ、左手中指の末節に傷口の跡があり、腫れて 化膿しかかっていた。同医師は、この傷は鋭い刃物で出 来たものと判断した。
被告人に本件当夜アリバイがないこと
寮二階の一〇畳間には当夜被告人と佐藤文雄が寝ることになっていた が、当夜佐藤文雄は橋本藤作方に留守番として泊るために午後八時半 頃、右部屋を出たこと、従業員井上利喜雄が所用で工場に来て午後一〇 時半頃、右被告人の部屋に立寄った時には、被告人が一人で右部屋にい たこと等が認められる。また本件の全証拠によっても、右井上が被告人 の部屋を出てのち本件火災の鎮火に近い頃被告人が火災現場に姿を見せるまでの間に被告 人の姿を何処かで見たという者も認められない。
自白調書の内容と以上事実との関係
(※長時間にわたる拷問まがいの取り調べで強要された自白とされたものですね。正当な取り調べをしないから警察が自分の首を絞めた形ですね)
当裁判所が証拠として採用した被告人の検察官に対する昭和四一年 九月九日付供述調書によると、被告人は検察官に対して、検察官が主張 する事実にほぼ合致する供述をなしていることが認められる。そこで、 供述の信憑性について検討する。
1. パジャマ〈1〉に関する供述について
被告人は、藤雄ほか三名を刺した際は、パジャマ〈1〉を着用して いた旨供述しているが、これが虚偽の自白であることは、前記第一、 (二)、(三)で指摘した事実に照らして明らかである。これは、右供述の 当時(九月九日)、末だ前期〈89〉ないし〈93〉の着衣類が発見され ず、パジャマだけであったため、まず検察官、が、被告人は犯行(殺 傷)の際にパジャマを着用していたものだという推測のもとに、被告人 に対してパジャマの血液等についての説明を求めたため、被告人は、前 記〈89〉ないし〈93〉の着衣が未だ発見されて居ないのを幸いに、検察 官の推測に便乗したような形で、右のような供述をするに至ったものと 認められる。
2. 犯行の動機に関する供述について
被告人は、本件犯行の動機に関して、母と子供と三人一緒に住むた めの、アパートの敷金・権利金にする金が欲しかった、月末になると、 集金した金を袋に入れて専務が家に持って行き、仏壇の前の辺りにおい てあるのを見たことがあるので、これを窃ろうという気になった旨述べ ている。昭和四一年三月から五月頃 にかけて、被告人、同人の実姉、母等との間で、アパートヘでも移って 被告人ら親子三人で生活をしてはという話が交されたこと、〈127〉によ ると、本件以前に被告人が水田義高に対して、集金用の袋に入っている 金の額を尋ねたことがあること、〈143〉によると、被告人が、当時相当 小遣銭にも窮していたことが窺われること、等が認められるので、被告 人の右の供述は、首肯することができる。
3. 兇器の購入に関する供述について
被告人は、昭籾四一年の三月末頃か四月初頃の日曜日に沼津に遊び に行ったとき刃物等を売っている店から買ってきたナイフを携えて侵入 し、本件犯行に及んだ旨供述しているが、これは、沼津市菊光刃物店の高橋みどりが、被告人が本件について自白する以前 の七月頃、捜査官から、こがね味噌従業員二〇名余の写真を見せられた 際、被告人の写真について、二・三ヶ月前頃同店で見た顔である旨のべ た事実および、同店では、〈4〉と同様のくり小刀は一本五百円で販売し ていた事実と矛盾しない。
4. 被告人の左手中指の傷に関する供述について
被告人は左手中指の傷は、藤雄と格闘中ナイフを取られようとした ので、これを取られまいとして、左手をナイフの下の方にかけたとこ ろ、左手中指がちかっと感じたと述べている。これによると、右の傷 は、くり小刀〈4〉によって生じた可能性が極めて強いのであるが、これ は、前記第一、二(六)で述べたことにも符合する。
5. 現金約五万円の行方に関する供述について
被告人は、強取した現金のうち約五万円を、七月一一日か一二日 頃、松下文子宅に持って行って同人に預けたこと、及びその後半月か二 〇日位たって取りに行ったが、同人がいなかったのであづけたままにな っている旨述べている。これは、前記第一、二、(二)で認められた事実 とほほ符合する。しかも、右の供述は九月九日になされているのに対して、前期第一、一、(三)、2、(5)のごとく 焼けた札等が清水郵便局で発見された(従って捜査官にも明らかになっ た)のが九月一二日であるので、この点の供述はかなり信用性が高いも のと認められる。
6. 工場風呂場に付皿した血液に関する供述について
被告人は、藤雄らを刺したあと、第一工場の、くぐり戸から工場内 に入り、三角部屋およびその附近、風呂場等を歩いた旨供述している が、右供述は前記第一、一、(三)、1、(3)で陽性反応の認められたと ころのうち三ヶ所には、何れも被害者藤雄の血液型と同型のA型および A型らしい血液が付着していたという事実と符合する。
7. 手拭〈3〉に関する供述について
被告人は、本件犯行後、消火作葉中工場の二階の事務室に行き階段 横に置いてあった新しい手拭で左手中指の血を拭いたあと、三角部屋の 入口の下の下水の中に手拭を葉てた旨自供しているが、前記一、(三)、 1、(5)で明らかなように、手拭〈3〉の発見された場所手拭の状況、そ して被害者雅一郎(14歳)と同型のAB型らしい(被告人の血液型はB型である から少なくとも、B型の血液だけでないことだけは確実である)血液が 付着していることなどの事実と、ほぼ符合する。
8. 布製金袋三個に関する供述について
被告人は、ナイフで長男雅一郎(14歳)が倒れる少し前頃、妻、ちえ子が寝室の奥か ら床の間の前辺りまで出て来て、〝これ持って行って〟と言って三個位 の金袋を投げてよこしたので、長男、雅一郎と妻、ちえ子を刺したあとそれを捨っ て逃げた旨供述している。(※随分セリフまで具体的だと感じます。警察が創作した?袴田さんが創作させられた?というのでしょうか)
この供述は、三個の金袋だけが紛失していたという事実の理由の説明としては、一 応首肯しうるものということかできる。
9. 侵入した場所に関する供述について
被告人は、藤雄方に侵入した場所について、裏口の右手の方に屋根 に接して木が立っていたので、鉄道の防護柵を乗り越えて隣家の庭に降 りその木に登って藤雄方の屋根に移って、中庭に面した土蔵の屋根に移 り、そこから土蔵の屋根のひさしのところの水道の鉄管を伝って中庭に 降り、中庭に面した勉強部屋の右端の五寸位開いていたガラス戸を開け て勉強部屋に入った、と供述している。 〈171〉〈390〉によると、被告人が供述している物が、供述どおりの 場所に存在していたことが認められ、また〈171〉〈391〉によると、捜 査官が、右被告人の供述のとおりの方法で侵入の可否を実験してみたと ころ、侵入が可能であった(とくに、水道の鉄管を伝って降りることの 可否も、水道の鉄管がくらくらしたが決して降りることができないよう な状態ではなかった)ことが認められる。しかも、右被告人供述が、な されたのは九月九日であるのに、前記〈171〉の実況見分がなされたの が、九月一二日であることに照らすと、右被告人の供述はかなり信用性 が高いものといわねばならない。
10. 脱出した場所に関する供述について
被告人は、藤雄らを刺したのち、裏口に至り、裏口の戸の下の方に ついていた、がちゃんと引っかけるようになっている鍵を開けて戸を引 張ったところ、上の方は開かなかったが、下の方が体が出入できる位開 いたので、そこから外へ出て、その後石油缶の混合液をもって再び、そ こから侵入し、放火ののち、同所から脱出した旨供述している。裏口の扉は、上のかけがね は、いわゆるかけたままの状態で、内側の通路に、扉から二メートル位 のところに落ちて居り、下のかけがねは、いわゆるオスの部分だけが扉 についていたこと等が認められるが、これは下のかけがねだけはずし、 上のかけがねははずさなかったという供述と合致する。 次に、本件火災発生当時、右裏口の扉が開いてたか否かについての目 撃者の供述を検討する。 〈124〉によると、右扉は普段は、藤雄の妻ちえ子が閉めて居りかんぬ きをかけ、合わせ目の上下のかけかねをかけ、さらに、合わせ目の下に 漬物石位の大きさの石を一個置くのが常であったことが認められる。そこで、火災発生直後の目撃者の証言をみると、(以下省略、判決文参照)
11. 強取した現金をC温醸室の床暗樽の下に隠したか否かに関する供述 について
被告人は、強取した現金を一旦C温醸室の味噌樽の下に隠し、その 後七月二日に一五、〇〇〇円、七月八日頃、一〇、〇〇〇円位、七月一 一日か一二日頃残り全部約五〇、〇〇〇円位を味噌樽の下から取り出し た旨供述している。総合すると、被告人が、七月一〇日以 後、中沢千恵子方で使用した百円紙幣のうち、〈63〉には、一般に流通 している百円紙幣に付着している水溶性ニヒドリン陽性物とは異ったも の及び味噌の成分に類似のものが付いていること、さらに、〈63〉に は、C温醸室の味噌樽の下から採取した泥土〈460〉の成分と類似のもの が付いていることが認められるのでこの点の供述も不合理ではない.
(※これも具体的ですが警察の創作なのでしょうか?創作だとしたら何の目的か)
12. ポリ樽に関する供述について
被告人は〈7〉石油缶から、混合油を運ぶ際、工場の通路横に積ん であった味噌を入れる八キログラム入れのポリ樽に、混合油を入れて行 ったと述べている.〈451〉〈452〉によると、〈61〉と同様のポリ樽 〔八キログラム入れ)が、工場の通路横に置いてあったことは認められ るが、その数の増減は確認できず、また本件についての捜査の結果、混 合油を入れた形跡の認められる八キログラム入れのポリ樽のかけら等は 発見されなかったことが証拠上明らかである。しかし〈154〉によると、 ポリ樽は、火災の際の高温によって消失することが認められるので、本 件の場合も、どこかに棄てられていたのが、火災のために消失してしま ったという可能性も充分に考えられるので、この点の供述も不合理とは いえない.
(※これも具体的ですが警察の創作なのでしょうか?創作だとしたら何の目的か)
13. マッチに関する供述について
被告人は、放火に際してマッチを使ったと述べ、そのマッチが仏 壇間の仏壇の横の畳の上にあった旨供述している.〈449〉〈450〉によ ると、〈59〉〈60〉のマッチニ個が、仏壇の間に存在していたことが、 認められ、また右〈59〉〈60〉以外にマッチがその附近に存在していた としても、火災によって消失してしまったであろうことが充分推認され るので、この点の供述も不合理とはいえない。
(※これも具体的ですが警察の創作なのでしょうか?創作だとしたら何の目的か)
判決結論
当裁判所で取調べた全証拠を検酎して みても、被告人が本件とは関係がないのではないかとの疑いを抱かせるような事実の存在も認められないことをもあわせて考慮した結 果、 当裁判所は、検察官が主張する事実のうち、次の事実については、証 明が尽された、との結論に達した。
即ち、 「被告人袴田巌は、 1.昭和四一年六月三〇日年前一時すぎ頃、金員窃取、しかも若し家 人に発見された場合には、家人を刃物で脅かしてでも金員を奪取しよう との意図をもって、くり小刀〈4〉を所持して、藤雄方に侵入した 2.侵入の際の服装は、〈89〉ないし〈93〉の衣類を身につけたうえ に、工場の三角部屋か脱衣室においてあった雨合羽〈5〉を着ていた 3.侵入する際、藤雄方裏口の右手の方の屋根に接して立っている木 に、鉄道の防護柵を乗り越えて登り、藤雄方の屋根に移り、中庭に面し た土蔵の屋根に移り、そこから水道の鉄管を伝って中庭に降りて藤雄方 に侵入した
4.侵入後、くり小刀〈4〉を鞘〈6〉から抜いて、鞘〈6〉を雨合羽 〈5〉の、右ポケットに入れて、その後雨合羽を脱ぎ棄て、くり小刀 〈4〉を手に持った 5.その後、金員物色中藤雄に発見されて金員強取の決意をし、同人 と格闘の末、結局同人をくり小刀〈4〉で刺し殺した 6.藤雄と格闘中に、くり小刀〈4〉で、自己の左手中指を傷つけた
7.その後、ちえ子、雅一郎、扶示子をくり小刀〈4〉で刺し(但し 三名とも即死ではなかった)、くり小刀〈4〉を扶示子の近くに落した
8.その後、金袋三個を強取した 9.その後、一旦裏口の扉から脱出した 10.裏口を出る途中で、8.の三個の金袋のうち二個を落とした 11.その後、工場入口のくぐり戸から工場内に入った 12.工場内で、〈89〉ないし〈93〉の衣類を脱いでパジャマ〈1〉を 着た
13.ついで三角部屋横においてあった石油缶〈7〉から混合油を持ち だし、再ぴ9.の裏口から藤雄方に入り、藤雄、ちえ子、雅一郎、扶示子 の体にそれぞれ混合油をふりかけて、マッチで点火して火を放った 14.そのあと、七月一〇日頃、強取した現金のうち五万円位を、松下 文子に預けた
15.また、時聞的には、右1.ないし13.の段階の何れの時期かは確定 できないが、少くとも、11.以降〈89〉ないし〈93〉の衣類を着たまま か、若しくは脱いで手に持つかして、工場内の風呂場に行った 16.少くとも11.以降に手拭〈3〉で左手中指の血をふき、その後12. 以降に〈89〉ないし〈93〉の衣類を麻袋〈95〉に入れて、一号タンクに 入れた」
という事実である.
(中略。判決文参照)
以上を一罪として最も重いと認める橋本藤雄に対 する強盗殺人罪の刑で処断することになる。従って被告人に対しては、 刑法第二四〇条後段所定の死刑又は無期懲役刑の何れかを科すべきこと になるが、右の何れを選択すべきかについて以下本件において取調をし た証拠に基づき本件の情状を検討する。
(※情状酌量の検討って何なんでしょうね)
1. 被告人の経歴等について
被告人は、静岡県浜名郡磁踏町字布見八、九一九番地で父袴田庄 市、妻ともの三男として生まれ両親のもとで養育され小学校三年のころ 家族と共に同県浜北市赤佐引移り、同地の小、中学校を卒業した後同市 内の織物会社の工員として三年位稼働し、その後同県浜松市の北川自動 車会社の工員として働いているうち、同市内のボデイビルデング協会に 通ってボクシングを習うようになり、昭和三二年には国体にボクシング の選手として出場し三位を獲得するほどに上達したが、その頃被告人の 通っていたボデイビルデング協会の教師をしていた中島邦雄の内妻と深 い仲になったため同協会をやめて同女と二人で同棲するに至った。 その後北川自動車をやめ、中島の内妻とも別れてプロボクサーになる ため昭和三三年ころから川崎市新丸子にある不二拳斗クラブに入り練習 に励むうち、偶々試合で清水市に赴いた際同市内のバーでホステスをし ていた赤穂レエ子と知合い、間もなく東京都内で同女と同棲し始めた が、体の調子が悪くなりボクサーを続けていくことが出来なくなったの で、昭和三七年ころ不二拳斗クラブをやめて清水市に戻り同市内のキャ バレー「太陽」のボーイになり、レエ子も同店のホステスとして半年程働いた後、同キャバレーに出入りしていた 酒屋三枝修司の世話で富士市に行き、昼は三枝酒店の店員をやり夜はレ エ子と共に同市内のバー「ボン」で働いていたが、給料が安かったので 再び清水市に戻って前記「太陽」で働くようになった。 そのうち間もなく「太陽」に出入りしていた酒屋西宮日出男の世話で 同人から資本金を出して貰い昭和三八年一一月から同市仲町でバー「暖 流」を開業し、レエ子と共同でその経営に当るうち、経営不振に加えて 被告人が競輪やマージャンにこったため同四〇年一月ころ西宮に対し約 五〇万円位の借金を残したまま店は潰れてしまったが、再び同人の世話 で同市旭町で「万花」というバーを開業し、レエ子が主としてその経営 に当り、被告人は同年一月ころから同市横砂のこがね味噌合資会社橋本 藤作商店(当時の商号)の工員として働くようになった。 この間昭和三八年一二月には正式にレエ子との婚姻届を済ませ、同 三九年一〇月一五日には同女との間に長男旭が生まれたが、右「万花」 も開業後僅か三ヶ月でやはり経営不振のため潰れてしまい、そのうえレエ子が店に来ていた男の客と仲良くなったことに嫉妬して屡々同女に乱 暴するようになり、被告人の仕打ちに愛想を尽かした同女は、被告人と 旭を残したまま同年五月ころ家出してしまったので、被告人は旭を松北 市の実家に預け、自分は単身こがね味噌工場の寮に住込んで稼働するに 至ったものである。
2. 動機について
本件犯行は、被告人の放縦な生活態度から妻とも離別することとな り、夫婦間の子供を引取らざるを得なくなり、昭和四二年末これを実母 の許に預け、毎月養育費を同人に送金することとしていたがそのため母 と嫂?とがとかく円満を欠くようになり、母と姉から一戸を借受けて子供を引取るようすすめられたものの、もともとふしだらな 生活を続けていたため、家を借りるための敷金などはもとより小使銭も 十分でなく、同年六月中旬勤め先の会社から一万円前借する始末であっ たので、金銭に窮した末、纏った金ほしさに企てたことによるものであ って、その動機において些かも同情すべき点はない。
3. 犯行の態様及び被告人の性格について
(判決文参照)
4. 被害者感情と社会的影響について
(判決文参照)
(※遠山の金さんの様な文学的人情噺を死刑判決に書く感覚が日本の裁判制度にあるだなあと)
6. 結論
叙上の如き諸般の情状を考慮すれば、今や死刑廃止制をとる国はふ え、これを存置する国においても死刑は例外的、象徴的な刑罰となりつ つある世界のすう勢を考慮の上被告人が道路交通法違反のほか前科のな い身であることなど記録に顕れたすべての有利な事情を斟酌してもなお 本件においては正義の観念が最後の手段として要求するものは極刑以外にないものとの結論に達し所定刑中死刑を選択す る。 よって、被告人を死刑に処する。
弁護団の主張の考察
何をもって弁護団は袴田さんが犯人で無いという、強い意志を持つに至ったのか知りたいと思い、弁護団のHPを拝見してみました。すみません、今回は弁護団の主張に主に反論しまうことになります。あくまで個人の意見です。袴田さんが犯人で無いという、決定的根拠に欠ける気がするんですよね。何故袴田さんが犯人で無いという確信と情熱を持てるのか知りたいです。
「刃渡り約13cmのくり小刀1本だけで被害者4人に大小あわせて40箇所以上もの傷を負わせて殺害したことにされたのです。また、到底刃渡り約13cmくり小刀ではできないと思われる肋骨の切断・貫通など、「ものすごい力が必要な傷」(横山鑑定)が多数ある」
➡被害者の傷が頸部と胸部だけに多数集中しているという特異性(非力でスピードの無い犯罪者なら、的が大きい腹部とか一発で狙いがちでは?細い頸部は相手が動いてると難しいですよ?)は、これ、個人の印象ですけど、普段頭部近くを殴るボクサーなら頸部周辺にジャブの様に繰り出せる気もする、一発づつのパワーは大きいと想像されるという個人的印象で、刃渡り約13cmのくり小刀でも殴るほどのパワーなら貫通力は大きい可能性は否定できないと思います。否定できないと言うだけですが。
「4人の人間が刺し殺されたら凶器に重大な跡を残すということがわかります。」
➡文化包丁なら曲がるでしょう。でも逆に細くて短い刃物なら大きく曲がったりしない可能性もあると思うのですが。文化包丁の鉄材は曲がりやすいようにも思います。
「胸椎左側までの距離は平均14.7cm、刃体部の長さ約13cmしかないくり小刀では二女の傷が決してできないことが裏付けられました。」
➡いやー1センチや2センチなんて解剖でも誤差出るだろうし、決して、というほどの根拠にはならないと思います。もし刃の長さが8センチとかならまあ言えるとは思いますけど。
「さらに、二女の胸の傷口の大きさから見ると、くり小刀では刃体の幅が広すぎることも明らかになりました。二女の胸の傷口の幅は1.38cmと推定されています。」
➡つまり、もっと細くて長い刃物だったと主張されるのでしょうか?具体的にどんな製品があるでしょう。ちょっと思いつかないです。アイスピックでもなく、刃物であって、1.38cmと細くて、強度があって、長い刃物ってありますかね。それを同じ刺入方向で短時間に多数刺すって難しくないでしょうか?
血痕の「赤み」に関しては前述のとおりです。
https://hakamada-jiken.com/overview/overview_02/
「現場や死体の状況などから、会社の内情に詳しい者による犯行との疑いを強め」➡そりゃそうですよね?袴田さん以外ならだれが怪しいと言う主張なのでしょうか?ちなみに当日一緒に泊まってなかった被害者長女を犯人じゃないかとと言う連中がSNSにいるようですが、袴田さんじゃないが会社関係者ということでそういう事を言い出す連中が居るという事です。やはり真実は可能な限り追求すべきです。
「決め手となるような証拠はなかったのですが、従業員は袴田さんを除いてみな地元の出身、彼はよそ者でした。また、元プロボクサーであったことから「ボクサーくずれ」とレッテル張りされました。つまり、村社会の偏見から、犯人に仕立て上げられたと言わざるを得ない状況でした。
」
➡いや、でも寮から押収された袴田さんのパジャマから微量の本人以外の血液型?の血液と特殊な混合油が検出されたことは大きかったんじゃないでしょうか?だってパジャマにはガソリン含む油は普通つきませんよね?普通パジャマで工場に行くとは思えないし。決定的証拠ではないにしても疑う根拠としては十分かとは思うんです。
①遺体に焼却目的でかけられた特殊な「混合油」が工場にあったこと、その容器に人血が検出されたこと、不自然に量が減っていたこと
②現場で落ちていた焼けた雨合羽が従業員のものだったこと、ポケットに現場に落ちていた小刀に一致する鞘が入っていたこと。
③警察署長宛の謎の5万700円分の様々な紙幣(全て半分焼けている)。「ミソコウバノボクノカバンノナカニシラズニア ツタツミトウナ」と片仮名で鉛筆のようなもので書かれている、便箋一枚。
千円札のうちの二枚には、それぞれ「イワオ」と片仮名で鉛筆 のようなもので書かれている。について、「味噌コウバ」と書かれていることは袴田さんじゃなかったとしても味噌工場の職員との接点を疑いますよね?。
④警察の自作自演じゃないとしたら、ですが、血痕のついた着衣が味噌工場から見つかったこと(会社関係者以外に入れるのは無理)
以上から、犯人は従業員の可能性が非常に高いとみるのは自然だとは思うのですが(陰謀論除く)
結局、弁護団が袴田さんは絶対に犯人じゃないという強い確信を持つ根拠が見えてこないんですよね。個人的意見なのでごめんなさい。
巨大な味噌タンクに味噌が入れられてから、警察官一人で底近くに衣類を偽装で埋めるのは不可能なんじゃないかな。それは検察に批判的な元検察の弁護士も言ってる。抜粋「当時の静岡県警が、このような「証拠捏造」を、冤罪の袴田氏を死刑にするため敢えて組織的に行ったとすると、その「警察」というのは、我々が、通常認識している「日本の警察」とは、全く異なる、むしろ中国や北朝鮮の警察のような権力機関だったことになる。 組織的に多数の捜査員によって行われた大がかりな証拠捏造としか考えられない。その実行のためには、警察が、袴田氏が事件前に着用していた衣類を把握し、それに見合う衣類を調達し、一方で大量の血液を入手して衣類に付着させて「血痕が付着した5点の衣類」を準備し、味噌樽の底に何かを沈める作業をすることについて、味噌製造会社側の協力を得て、実際に味噌工場に立ち入って、それを実行することが必要になる。それが「証拠捏造」であることを認識しつつ、その実行に関与した警察官は相当多数に上ることになる。」袴田事件。あり得ないでしょ
「吉村主任検事は“味噌に漬った白い半そでシャツ”が白いままだった警察の証拠写真について、作原検事に「自分が見た実物より白すぎる」「(写真の)焼き付けがおかしいのか」などと述べた。シャツの血痕については、写真のように赤くなかった印象も述べている。《県警の富安(要)刑事課長が不安そうな顔をしながら(中略)『検事さん、有利になるか不利になるかわからないのですが、とんでもない物が出てきてしまった』などと言って説明を始めました。(中略)この時、初めて、袴田の有罪立証に若干の不安を感じました》 《5点の衣類が間違いなく、袴田の物であることと、タンクに隠すことが可能だったことを立証する必要があり、これらの立証ができなければ、下手をすると袴田が無罪になる可能性が出てきてしまったと心配になったのです》 《私が、5点の衣類を発見直後に見た時、一年以上味噌に漬かったものとして不自然に思えた点は何もなく、また、公判でも、弁護人や裁判所からそうした疑問が呈されたことも一切ありませんでした。(中略)元が白かった半袖シャツやステテコでは、これらの写真のようにべったりと血痕が付いているのが一見してわかりましたが(中略)写真で見るよりも、もう少し黒褐色っぽい色合いに見えた覚えです。(中略)赤黒く血が付いたような跡がはっきりわかりました。色付きの衣類も(中略)少し赤黒くなっており、血痕の見わけがつきました。不自然な血痕と思った記憶はまったくありません》」
世間では袴田さんは多分、大人しい人と言うイメージだと思いますが、実際は少し違う印象を受けます。
①国体ボクシング選手。トレーナーの妻と不倫同棲。ジム辞める。
②ホステスと結婚。バー開業。競輪マージャンのめり込み恩人にに50万円借金を残し閉業
③再開業。妻が客と仲良くなり妻に暴力 ④事件1か月前会社から1万円前借り
大人しい感じではないですよ、不倫、水商売、ギャンブル。イメージで語るべきでは無いでしょうが。
袴田さんが4回に渡って味噌を盗んで売っていたと言う点も警察の100%でっち上げの架空話ですか? 窃盗も100%捏造なのか、単に不起訴だが真実性が高いのか(起訴されなかったり、起訴猶予だからやってないということは無いです。検察の多忙や、確実に有罪の証拠が固まってる案件しか起訴しないので。起訴されるのは一部だけなので)もし窃盗が警察による捏造や冤罪で無いとしたら、かなりイメージは変わりますよね。
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