タンホイザーの涙 テノールとの対立Ⅵ

お互いに定食に付いてきた杏仁豆腐を食べ終わり、一息ついていた。そんな時、我聞と桜井にメールが届いた。差出人は三木だ。「なんだよ、これ」文面を読んで思わず呟いたのは我聞である。メールには三木が近々、管弦楽団を退団しようと考えている旨が書かれてあった。主な原因となった同期のヴィオラ事件をはじめ、叶女への悪態、さらにはヴァイオリン同期二人への当てつけと言っても過言では無い恨み辛みが長々と綴られていた。下手なポエムよりもタチが悪い、呪いが込められた様なメッセージであった。読んでいくうちに三木に対する嫌悪感を募らせる我聞であったが一方で桜井がメッセージを読む姿は真剣そのものだった。「先輩を送り出したら、もう良いのかよ、三木は」我聞は思わず天を仰いだ。「紗智が考えた末に出した結論だろ、仕方ないんじゃねえか」桜井は飽くまで三木の気持ちを慮っている。しかし桜井には今後が見えていなかった。「じゃあ聞くが、来年度のコンマスは俺たちのどちらかになるんだぞ?それでもいいのかよ」次の年にヴァイオリンパートで最高学年となるのは三木、桜井、そして我聞の3人である。後輩にプロ級に上手い人間がいなければその3人の中でオーケストラの柱となるコンサートマスターを決める必要がある。首都圏から一歩離れた理系大学にプロ級のヴァイオリニストが来る可能性は相当低く、来年度も例外では無かった。責任感があって、仕事ができる。その点だけでも十分に三木がコンサートミストレスとなると踏んでいた我聞と桜井にはかなり面倒なことが起きたのだった。我聞は秋の演奏会でコンサートマスターを経験したものの、一年を通して楽団員を自身が演奏の要として引っ張っていく自信は無かった。しかし、桜井は我聞のコンマス経験から自分に役割が降りかかるとは万が一にも思っていないらしい。「お前はそうやって余裕かましてるけどな、コンマス候補ではあるんだからな」我聞は桜井の余裕を打ち消す様に牽制した。「いやいや、俺なんかがコンマスをできると思ってるのか?無理無理!しかも俺、研究に集中したいし」桜井は管弦楽団に関しての責任を少しも負いたく無いようだ。その気持ちは我聞とて同じである。騒がしい店内に呼応して二人の責任のなすりつけ合いはボルテージを増していった。「今後のことも大事だけど、まずは紗智を気遣ってやろうじゃないか。今年は特に忙しかったんだからさ」桜井は三木の心配をすることで話題を逸らそうとした。この期に及んで桜井は未だに三木を庇い続けるのだ。「三木が勝手に思い悩んでいるんじゃないか。自己責任だろ?いつまでも慰めてやれるかよ」いつもは三木にへいこらしている我聞であったが、三木がその場にいないこともあって口調が強くなった。「紗智は大変なんだよ。俺らが何の責任も感じずにヘラヘラしているなかで頑張ってくれてたんじゃないか」"俺ら"と一括りにされたことで我聞の怒りはさらに沸き立った。「お前と一緒にするんじゃねぇよ。少なくとも俺は秋の演奏会で責任を果たしたんだ。お前だけだよ、いつもヘラヘラしやがって!」普段は桜井と共に管弦楽団の活動では力を入れ過ぎない我聞だが、この時ばかりは桜井を否定した。「お前のそういうところ、どうにかした方がいいぞ?大事な彼女がいるくせに他の女まで下の名前で馴れ馴れしく呼び捨てにしやがって。しかも責任を負いたくないがための道具にしてやがる。マジでいい加減にしろよ!」我聞は内心思っていたことを勢いに任せてぶち撒けたのだった。「それとこれとは関係無いだろうが」桜井は応戦するものの、先のPGCによる失態が頭にちらついて弱々しい声しか出なかった。「もう面倒だ。俺だって研究したい。お前の"やりたいことしかしない主義"にはもうウンザリだ。俺だって辞めてやるよ。そしたらお前がコンマスだ。せいぜい頑張るんだな」我聞は捨て台詞を吐き、早々と自分の会計だけ済ませて店から出て行ってしまった。

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