タンホイザーの涙 嘆きと懺悔Ⅰ

桜井は研究を早めに切り上げることができたという古舘とサシで飲むことになった。自身は勉強計画は立てられたものの、光妃のことで研究どころでは無くなってしまった。あれだけ放ったらかしにしていたにも関わらず。待ち合わせは古舘が気を利かせて入り口が落ち着いた佇まいのラーメン屋になった。古舘は電話中、桜井のあまりの覇気の無さから空腹を読み取ったらしい。その狙いは極めて的確であった。桜井は空腹な状態が続くと目に見えて力無い印象となり、声も生気が無くなるのであった。高校から変わらない桜井の子どもっぽい一面であり、その度に高校近くの飲食店で2人でがっついたことは良い思い出である。
「らっしゃい」桜井が杉の木目が美しい引戸を開けると鼻下に髭を蓄えた体格の良い大将が陽気に挨拶してくれた。店の奥を見ると既に席にかけている古舘が手を挙げた。券売機で鶏白湯ラーメンの大盛りを選んだ。桜井は食券を大将に渡して、古舘のいるテーブルを挟んだ正面の席に着いた。古舘を見ると真っ直ぐに桜井の目を見据えている。桜井はばつが悪くなって目を逸らした。古舘は黙ってコップに水を入れて寄越してきた。この店の水はピッチャーの中に水と一緒にくし切りにした檸檬が幾つか入っている。そのため爽やか飲み口で桜井は好きだった。一気に飲み干す。酒では無いから格好はつかないが、キリッとした檸檬の酸味の冷えた水が胃の腑に落ちた。改めて空腹だったことを思い知った。その間にも古舘は桜井を見据えている。古舘は普段、穏やかであまり波風を立てるような男では無い。それどころかトラブルを嫌うようなところがある。だからこそ、桜井の身に起きた緊急事態に関して桜井にかける言葉を選んでいるようであり、桜井からの言葉を待っているようでもあった。口火を切ったのは桜井だった。「ありがとな、急に付き合ってくれて」「挨拶はいい。お前、水野さんに何をしたんだよ」ピシャリと桜井の挨拶を端にやると、古舘は早速本題に迫った。「いや、何もしなかったんだろうな」桜井が返答する前に古舘は言った。「水野さん、俺に電話をくれたよ。若干、声が震えてたな。最初はお前に電話したそうじゃないか。どうして出なかった」光妃は桜井の後、古舘に電話をしたらしい。そのことに驚きつつも桜井は古舘の追求を受け止めた。「臨検の勉強でスマホを見ていなかったんだよ。さっき電源を入れたらメールと着信履歴があって。メールは俺への応援メッセージしかなかったから電話をかけ直したんだが、つながらなくて」臨検とは臨床検査技師の略称である。桜井の声は語尾が消えかかっていた。「水野さん、俺には言ったけどな。別れるつもりだって」桜井が恐れていた言葉を古舘は言い放った。さらに古舘は続けた。「何してんだよ。女子の扱いが適当だなんてお前らしくも無いじゃねぇか」桜井は言葉を探すが、何も言えなかった。古舘も水を飲み干すと再度、自分と桜井のコップに水を注いだ。

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