タンホイザーの涙 ヴォルフラムの疑念Ⅰ

桜井の様子がおかしい。古舘征也はいつからか、そう思うようになっていた。明らかに昔とは違ってきている。そう思う古舘には直感だけとはいえない確信があった。桜井との付き合いは高校からだ。入学早々に行われるクラスのアイスブレイクで古舘は桜井と最初のペアとなった。自己紹介や興味のあることを聞いただけでも、コイツは頭が良いと思えたのだった。それから2年、3年の学年が上がって文系・理系でクラス分けが行われても、共に3つある理系のクラスで同じ教室で勉学に励んだのだった。桜井は男同士のバカ話にはしっかり参加するくせに成績は常に理系上位5名の中に名を連ねていた。周囲の人間は、いわゆる天才タイプなのだと評しているが古舘は違った評価をしていた。何故なら、桜井が人知れず研鑽を積んでいる姿を古舘だけが見ていたからだ。陸上部の長距離に取り組む傍ら、隙間時間はもちろん、部活終了後も図書室に残って勉強に取り組んでいた姿を。古舘はサイクリング部に所属していたが、校庭でアップを行う桜井の姿を毎日のように見ていた。勉強の方は何とかクラスの半分より上くらいの順位を守っていた。ときには桜井に勉強を教えてもらうこともあった、というよりもテスト前は必ず一緒に勉強していた。勉強の休憩時間に桜井と将来の夢についても大いに語り合った。古舘は化学メーカーで安定して儲ける、桜井は研究者として世界に名を轟かせる。随分と夢の大きさで負けていた古舘だったが、桜井から馬鹿にされたことは一度も無かった。それは古舘の性格を知っていたからだ。"ある程度の苦労は必要だが、人生は余暇を楽しむためにある"これは古舘の人生訓のようなものだったが、桜井に話したことはない。それでも桜井には一緒に過ごしていくうちに古舘のことを理解していったのだろう。それでも桜井は古舘と疎遠になることは無かった。そういうところは桜井の良いところなのかもしれない。桜井とは勉強のほかにもお互いの部活の休みが重なった日は共に遊びに出かけたことも両手で数えられないほどであった。桜井は基本真面目であるが、その姿を周囲には普段見せない。それどころかバカを"演じている"節があると古舘は思っている。それどころか、本当のバカは見下しているような部分も少なからず見受けられた。古舘は現実的な考えと平凡な成績から本当のバカとは思われなかったのだろう。桜井と仲良くなれてよかったと高校時代に思っていたが、まさか同じ大学で学ぶことになろうとは思いもしていなかったのだ。古舘は化学科、桜井は生物学科。同じ理学部であるが講義が一緒になるのは教養科目ぐらいであった。しかし、桜井と古舘はお互いに講義が終わると時々飯を食いに学生街を練り歩いた。桜井は高校時代からの人の良さがさらに磨きがかかったのか友達が多かったが、古舘との友情は大学後も続いたのだった。このことに少なからず古舘は安堵していた。何故なら化学科の同期とあまり腹を割って話せないでいたからだ。もちろん友達はできたし、実験中にあぶれることもない。だが、周囲が古舘よりも少し勉強ができる奴ばかりなのだ。そのためか、古舘は化学科同期との日常会話にも違和感を感じていた。その違和感を探った古舘はひとつの原因を突き止めた。周囲が国立大学志望だったということ。桜井たちの通う大学は全国でも有名な国立大学で某予備校の"有名国立大学想定模試"のブランドにもなっている、そんな大学に入り損ねた奴らが化学科に入ってきていたのだった。古舘はこの今通うこの大学を第一志望にしていて、志望通りの大学に入学できたのは努力が実った結果である。しかし、持ち前の人生訓から裏を返せばそれ以上の高望みは一切せず、殊に受験に関しては無理をしてこなかったのだ。古舘の考え過ぎだ、と桜井は言ってくれたが古舘本人はいつまでも頭の片隅にあるシコリとして残っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?