タンホイザーの涙 テノールとの対立Ⅰ

自身の卒業研究に関するフィールドワークから帰宅した我聞貴は眠気に襲われつつもレポート作成に勤しんでいた。学科でも有数の人気を誇る植物生態学研究室に所属を決めた我聞はそのことに甘んじることなく研究に邁進していた。"ミツバチの知識なら誰にも負けない"、そんな自負が我聞にはあった。我聞はある地域についてどの植物にどんな昆虫が吸蜜行動をとっているか、それが研究テーマであった。ミツバチが好きな訳だが、もちろん他の昆虫の興味もある。我聞はミツバチに限らず、フィールドワークによって研究対象と触れ合える喜びに幸せを感じていた。レポート作成は簡単なことではないが、これも触れ合いの結果を残す言わば"思い出のアルバムを作る"と思えば、書き続けられるのであった。"自然と触れ合うのが好き"であってもそれを研究対象にできるかどうかはその人の素質によると我聞は考えている。我聞は運良くそれを研究対象にしようと思い立ち、厳しい研究室配属の倍率を勝ち抜いて今の研究に取り組んでいる。このことは少なからず我聞の自信へとつながっていた。レポート作成がなんとか完了した我聞は不意に窓の外に目を向けた。曇天の空模様である。分厚く暗い雲が空を覆い尽くしていた。今にも雨が降り出しそうな空模様である。「早く帰ってきて良かったな」ひとりごちた古舘はベッドに寝転んだ。横に目を向けると物置にあるヴァイオリンを見つめる姿勢となった。管弦楽団を飛び出してから1年半以上経とうとしているのが我聞には俄かに信じられなかった。もともと多分野に興味関心があった我聞は入学後すぐに管弦楽団に所属した。担当となったのはヴァイオリン。ヴァイオリンパートの同期は3人いて、我聞なりに仲良くできていたと思っている。しかし、1年の定期演奏会終了後すぐに同じパートの女子が1人がトロンボーンパート同期の男と同時に退団した。表向きには学科の勉強に不安があるということであったが、"2人の時間がほしくて"駆け落ち同然で辞めたという噂がまことしやかにささやかれた。時代錯誤も甚だしい上、退団するぐらいで駆け落ちと表現するのもどうかと思うが。その後、我聞の学年は女子1人、我聞を含め男子2人でヴァイオリンパートは活動を続けていたが卒団する年になる大学3年に上がる直前、同じパートの女子である三木紗智から退団したいという申し出があったのだ。最初は耳を疑ったが、これまで管弦楽団という団体行動の性質上、人間関係のゴタゴタは幾つかあった。しかし、昨年度の秋の演奏会の運営において責任者を任されたはずのヴィオラ同期の女子が全く仕事をしなかったことが一番の決め手となったようだ。無責任さを見かねた三木が代わりに先陣を切って演奏会準備に神経をすり減らした結果、2人の仲は険悪なものになっていた。先輩方や同期まで責任者は三木であったと思い込んでいたが、演奏会終了後の飲み会の席での責任者挨拶で責任者が三木では無いことが判明したのだった。楽団員の衝撃は凄じいものがあった。おまけに三木はこのことを思い悩んで精神科に通うようになったのだという。もともと三木は責任感が強いと我聞は認識していたが、まさかそこまで思い詰めているとは考えもしなかった。しかし、演奏会準備の際、物陰で涙を流している三木を我聞と同じパートの桜井とともに慰めることはあったのだった。

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