タンホイザーの涙 エリーザベトの憂鬱

講義を終えて帰宅した夕暮れ時、騎士郎からの着信があった。先日と同じく無視を決め込んだ。その直後に今度は古舘さんから電話がかかってきた。騎士郎が古舘さんを頼ったのは想像に難くなかった。応答すると古舘さんは先日の通話内容に関して私を心配をしてくれた。その後、騎士郎と話し合う場を設けてくれないかと提案してきた。正直、迷いはしたものの、うやむやになったまま騎士郎と別れるのは嫌だった。こうして古舘さんも同席する騎士郎との話し合いの場が設定された。内心、騎士郎の思うように事が進んでいると思うと面白くない部分はあったが、意地を張り続けていても疲れるだけなことは明白だった。通話を切ったあと、着信がくるまで寝転んでいたベッドに腰掛けた。約束の日まで4日。それまでに騎士郎への気持ちを整理しなければならない。騎士郎を応援したい気持ちはあるけれど、もっと彼女として大事に扱ってほしい。この優先順位が決められない堂々巡りの思案は大学の講義中も頭の片隅にあって、約束の日まで答えを出すことができなかった。メイクを整えて家を出た。待ち合わせ場所には5分前着こうという算段である。あまり早く着きすぎても暇を持て余してしまう。大学の図書館にいても落ち着かないだろう。
正門前を通り抜ける頃、約束の10分前であった。正門にある守衛室では部屋の奥が窺えた。1人の女子が俯いている。身体が小刻みに震え、嗚咽が聞こえてくる。何があったのかは分からないが泣いているのだろう。共有スペースに向かう道すがら、養護教諭と思しき女性とすれ違った。それにしてもよく見たことのある髪型の女子だった。そう、1年半ほど前、突然管弦楽団を退団すると言い出した、あの三木紗智に似た。楽団の活動では同じパートとはいえ騎士郎にベタベタとくっつく様子を気味悪く思っていた。私が騎士郎と付き合っていることは知っているはずなのに、わざとであろうかと思うほどに猫撫で声とスキンシップを繰り返していた。騎士郎は全ての女子に優しいため滅多に嫉妬することは無かったが、三木の行動は目に余るものがあった。あと2年間は三木と活動を共にしなければならないのかとため息を吐いていた矢先、三木と騎士郎を合わせた次期コンサートマスター候補のヴァイオリンパート3人が退団を申し出たのだった。退団直後、騎士郎と三木が付き合い、自分は捨てられるのではないかと心配して騎士郎に聞いたが杞憂であった。騎士郎は他の女子にも優しいのは事実であるが、とりわけ私を愛してくれていた。少し前までは。これからあと数分後には騎士郎と向き合って話すと思うと緊張してきた。このまま捨てられてしまうのだろうか、だとしたら何が理由なのだろう。何度も悩み続けたことが頭に再燃してきた。このまま帰ってしまいたくなるーーー。いや、駄目だ。ここで会って話すんだ。騎士郎と。
購買の横を通り共有スペースがある建物の入り口を抜けると、円卓テーブルを挟んで騎士郎と古舘さんが座っていた。古舘さんはこちらに気付くと椅子を引いてくれた。

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