タンホイザーの涙 テノールとの対立Ⅴ

我聞と桜井は楽団でも利用している安くて旨い中華料理屋に訪れた。怪しげで派手な中国を感じさせる装飾の自動ドアを抜けるといつものようにチャイナドレスを着込んだ女性スタッフが出迎えてくれた。「いらしゃいませー。この前はありがとね。今日は二人ね」鼻にかかった、片言よりかは流暢な日本語で声をかけてくれる。演奏会後の打ち上げの二次会でもここを利用させてもらった。団体にはお座敷も用意してもらえる。今回は店奥のテーブルに通された。店内は賑わっていて、煙草の匂いが漂っている。今時、喫煙席と禁煙席が分かれていないのも珍しいが我聞と桜井は気にしない。我聞は餃子定食に紹興酒、桜井は麻婆豆腐定食とカシスオレンジを注文した。飲みと言っても夕飯も兼ねての飲みにしてしまおうという話になったのだ。早々と酒が運ばれてきた。乾杯をして我聞が話し始めた。「二人で飲むとか久しぶりだな。何か話でもあるのか?」二年間共に同じ生物学科、管弦楽団員として過ごしてきた仲である。率直に聞いた。「いやさ、今日、紗智来なかったじゃんか。なんか動いてるらしくてさ、ガモタカは何か聞いてないかと思って」桜井は友達の女子はみんな下の名前で呼ぶ。どれだけ尻に敷かれても三木のことも紗智と呼ぶ。彼女がいても、だ。そしてガモタカとは我聞の渾名である。全員ではないが管弦楽団に入団して先輩から渾名を貰うことが一種の伝統となっている。因みに三木には無く、桜井はケロリンと呼ばれている。我聞は理由を知らないが勝手に笑った顔が両生類ぽいからだと思っている。我聞は桜井と呼んでいる。「いや、何も聞いてないけど」「そうか。ほら紗智、演奏会までかなり精神的に参ってたじゃん?あんなにしっかりした奴が大掃除来ないとか変だからさ」言われてみればそうだ。我聞は偶然暇だったから来たが、桜井は面倒臭がって来ないと思っていた。あの責任感の強い三木は必ずくるだろうとも。しかし蓋を開けてみれば桜井が来て、三木は何の連絡も無しに欠席であった。「確かにな。演奏会終わってのんびりしてんじゃないのか?コッチからしてみれば騒いでない方が楽だし、別に何でもないだろ」我聞はどうでもいいと、紹興酒をあおった。喉にアルコールが染みてくる。料理が運ばれてきた。餃子定食はもちろん旨いが何と言っても安い。気軽に旨いもので腹を満たせる。「まぁ、確かに何もなきゃそれに越したことは無いけどな」桜井は石釜に入った本格的な麻婆豆腐を息で冷やしながら旨そうに口へ運んだ。「やっぱ旨いわぁ」桜井が三木の話題を放り投げて感嘆の声を上げた。そりゃそうだ。好きでも無い女の話題より目の前のメシの方が確実に大切である。我聞の焼餃子もなかなかの旨さであった。申し訳程度では無くガッツリとニラが効いた肉餡は噛みしめるほどに肉汁が溢れる。そこへ白飯をかき込む。旨い。それから暫くはお互いに三木のことなど忘れて自分の定食の自慢、研究の話に大いに花を咲かせた。

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