タンホイザーの涙 夕星の歌Ⅰ

いつものように洋菓子店のバイトを終えて帰宅した水野光妃はメールの受信履歴を確認した。桜井からの返信は2週間前から届いていない。直接会ったのは5日前であるが、その時はメールの返事が来なくて寂しいと、それとなく桜井に伝えたが研究が忙しいのだと言われてしまった。光妃は彼女と研究、一体どっちが大切なの?なんて面倒なことは聞いたりしなかった。自身も理系勉強をしている学生として卒業研究にはまだ取り組んでいないものの、研究というものの大変さを理解しようと努めていたからだった。そうだとしても光妃に寂しさを我慢することは難しく、今朝もメールを送った。自分の不満では無く、飽くまで桜井を気遣う内容を送った。一言でもいい。大丈夫だ、なんて言わないで弱音を吐いてくれてもいい。そんな光妃の願いも虚しく、メールの着信はその日も来なかった。
翌日、光妃は情報科学科の講義の課題であるコンピュータ言語の資料を探しに大学付属の図書館を訪れた。館内図書検索用のパソコンを操作していると、ふと声をかけられた。「久しぶり。元気にしてる?」振り返ると古舘征也がいた。光妃にとって古舘は一学年上の先輩で、桜井の高校時代からの親友であると紹介された。そこから何度か桜井とともに食事をしたが、この日会ったのは3ヶ月ぶりであった。「ご無沙汰してます。何とか元気ですよ。古舘さんは化学科でしたよね。研究、お疲れ様です」光妃は丁寧な挨拶と労いの言葉をかけた。古舘と会うたびに光妃は桜井は良い親友をもったのだなと感じるのであった。落ち着いていて話上手で、かと言って聞き上手でもあり、どこかのんびりとした雰囲気がある古舘に光妃は良い印象を抱いていた。それどころか生物学科と化学科で離れてはいるものの親友としての桜井との仲の良さを羨ましく思うこともあった。丁度、桜井のことで思い悩んでいた光妃は古舘に何か知っていることはないか聞いてみることにした。「古舘さん、少しお聞きしたいのですが騎士郎さんから何か聞いてませんか?」「桜井から?うん、男同士の下らない話ならしてるけども水野さんが心配するようなことは無いんじゃないか?というか、君の方が今じゃ親密だろ?」古舘はにこやかに告げた。そこにいやらしさは微塵も感じられない。光妃が俯くと、古舘は心配した顔つきになった。「どうしたの?何か桜井がやらかした?」古舘が桜井のことを普段、騎士郎と呼んでいることは光妃は知っていた。しかし、古舘は彼女である光妃に気遣って苗字で呼ぶのだった。その優しさに光妃は甘えてみることにした。「実は最近、騎士郎さんと距離を感じるんです。最後に会ったのは5日前なのですが、メールに至っては二週間以上返ってこないんです」「まぁ、奴は研究が忙しいみたいだからな。国家試験の勉強のこともある。そんなに心配することないよ」古舘は光妃の胸中を察してフォローを入れてくれるのだった。「あいつが何かやらかしたら、すぐに教えてくれよ?俺がガツンと言ってやるから」古舘はどこまでも光妃を気遣った。「ありがとうございます、お話できて良かったです」光妃は古舘に礼を言うと目的の本棚に向かった。

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