タンホイザーの涙 ヴェーヌスの手招き

焼き鳥居酒屋で古舘との作戦会議を終えた桜井は4日後に光妃との約束を取り付けた。無論、古舘の仲介により実現した約束である。まだ早い時間だったことから古舘は居酒屋を一旦出て光妃に電話をかけ始めたのだ。古舘は顔が赤らんでいるものの、口調と意識はしっかりしている。光妃はすぐに応答した。桜井は古舘に妬きつつも感謝した。古舘は桜井と代わるかどうか聞いたが、光妃は直接会うまでは話したくないと言ったらしい。しかし、約束を取り付けられたことは大きな一歩である。居酒屋に戻った桜井は古舘に何度も頭を下げた。すると古舘は意地悪そうに口角を上げた。「赤ワインと砂肝、食べたいんだけどなぁ」古舘の意図は明白だった。「分かったよ、好きなだけ食え。奢るから」古舘はあざーすと声を上げると早速店員を呼んだ。頼んだのは言った通り赤ワイン一杯と砂肝だけだった。「おい、別に遠慮すんなよ。今はお前に頭が上がらないんだから」財布は寂しいがここで情けをかけられたら男が廃ると桜井は思った。「勘違いしなさんなよ、騎士郎くん。今回の作戦が成功したら焼肉でも奢ってもらうからな」古舘は抜け目なかった。しかしそれほどに桜井と光妃の仲を心配しているのだった。桜井は残りの生活費を心配しつつも、古舘の条件を飲んだ。
国家試験の勉強はもちろん、卒業研究も進める必要のある桜井は約束の日まで忙しく過ごした。光妃からのメールは無い。光妃は飽くまで直接会うまではやり取りをしないつもりだろう。約束の日の朝、桜井はその日のスケジュールを細かく確認して家を出た。約束の時間まではあと1時間ある。話し合いには古舘も参加することになっている。桜井は事前に古舘と会うことにしていた。大学近くのコンビニに行くと古舘は雑誌の立ち読みをしていた。「よお、来たか。まだ早いがどこかで時間潰すか?」古舘は雑誌を棚に戻しながら聞いた。「いや、早めに目的地に行こう」桜井と古舘は大学に向かった。光妃との待ち合わせの場所は大学の購買横にある共有スペースだった。正門を抜けると思わぬ人物に出逢った。三木紗智である。三木とは管弦楽団を我聞と3人で退団してから会っていない。1年半ぶりいったところだろうか。「桜井、久しぶり。元気だった?」猫撫で声を出した三木は明るめで胸元まで伸びた茶髪に緩くパーマをかけている。相変わらずの厚化粧で肌は粉を吹くだけでなく吹き出物までこしらえている。そしてつけまつげは小さな目をカバーするかのようにバッチリと備え付けられていた。化粧の厚さが三木の自信と比例しているかのようだった。桜井は退団してから三木の異常性を認識したのだった。どうしてこんな女を大事にしていたのだろう。我聞に捨て台詞を吐かれてから桜井は何度も考えた。古舘にも話したが、何故虐げてくる女を庇うのか、とその時も正論を突かれてしまったのだった。出来れば逢いたくない人間だった。「ちょっと約束があってな。それじゃ、三木」すぐにその場を離れようとした桜井の腕を三木は思いきり掴んだ。この細腕からどうやって力を出しているのかと思うほど強く掴んでいた。「久しぶりに会ったのに、どうして冷たいの?前見たく紗智って呼んでよ。それとも散々アタシに迷惑かけたクセにアタシの言うことが聞けないわけ?」三木は狂気じみていた。桜井の腕が更に強く締め付けられる。「離してくれ。お前とは管弦楽以外に何も関係無いだろう」桜井は振り解こうとするも三木は離さない。「どうして?あんなに私にへり下ってたくせにどうして?」よく見ると三木の目は血走っていた。薬学部の4年はこれから国家試験を受けるための見極め的試験が控えていた。そこで落第点を取れば留年確定である。その勉強に追われているのだろうか。だんだんと三木の目が潤んできた。「どうして?ねぇ、どうしてよ!」桜井の腕を両手で掴み始めた。桜井の腕にキリキリと鈍い痛みが走る。正門前だったことから守衛がやってきた。それでも三木はお構い無しに桜井の腕にしがみついている。すると傍らから見ていた古舘が物凄い形相で三木を睨みつけると一瞬で三木を引き剥がした。反動で三木が倒れ込む。「これから僕たちは約束があるんでね。失礼する!」古舘が一喝すると三木はぼろぼろと黒い涙を流し始めた。折角のつけまつげも取れてしまっている。倒れ込んだまま三木は泣きじゃくっていた。その場を守衛に任せると桜井と古舘は光妃との待ち合わせ場所に向かった。

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