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反抗期と背理法

ひょっとすると少し古いのかもしれないが、最近僕の耳にはよくはいってくる「うっせぇわ」という曲。

僕が高校生ぐらいの時は、確かにこういう主張の音楽を好んだような気もするのだが、なんだかちょっと違う気もする。

こういう主張とはつまり、大人の社会に対して反抗的な内容の曲である。

ロックは不良の音楽で、反抗期の象徴でもあると僕は思っている。

ロックバンドの多くは若くして全盛期を迎え、やがて解散する。

たまに全盛期から何十年か経って、再結成するロックバンドもあるが、昔ほどの輝きがあるグループは見たことがない。

あくまでも若者の音楽なのだ。

前述のうっせぇわは、内容的にはロックというかパンクロックのようなのだけどなんとなく違うようにも思う。

気になって歌詞を調べてみたら、少しだけ合点がいった。

最初は「ちっちゃなころから優等生」ではじまる。

僕が中学生のころ、チェッカーズが「ちっちゃなころから悪ガキで」と歌っていたが、それのパロディなのだろうか。

いずれにしても、この曲の主体は少なくとも「不良」ではないのだ。

ロックは不良の音楽と呼ばれていることから、やはりこの曲はロックとはちょっと違うという印象はあたっているのだろう。

学生時代は優等生だった主体が就職してから、上司や社会に反抗しているような内容なのだ。

僕は最近、どういうわけか高校生と接する機会が増えている。

それで思うのが、僕が高校生の時と違うということだ。

僕の中学生、高校生の時だって、みんながみんな不良ではなかったが、少なくない数の不良ぽい子がいた。

僕自身にしても、単純に真面目で素直な生徒ではなかったと思う。

先生や親にも反発していた。

ところが、たまたまかもしれないが、僕が現在接する高校生は、みんな真面目で素直でいい子なのである。

それでなんとなく不思議に思っていたのだけど、うっせぇわを聞いて、今の人は反抗期が後ろにずれていっているのかもしれないと思ったりした。

寿命が長くなり、人生100年時代と言われているので、成長のプロセスも変わってきているのかもしれない。

これらの時期ことを反抗期と呼んでいいのかどうか知らないが、だいたい思春期にはじまって、30才ぐらいまで、社会や慣例、常識に対して疑問を呈したり、反抗的な態度を取る人が多いように思う。

以後、これを反抗期と仮定する。

ロックバンドが成立する年代とも一致するのではないだろうか。

30代の後半から40代にもなってくると、子どものころに教えられてきたこと(たとえば道徳についての教えなど)は、おおむね正しかったと思うようになる。

人間はどのように「学習」するかというと、それは2つしかない。

あることをして「いい目にあう」か「痛い目にあう」かである。

いい目にあえば、その行動を繰り返し、痛い目にあえば、その行動をしなくなる。

学習というと、本を読んだり、学校に行って学んだり、教科書を記憶することだと思いがちだが、そういうことで人間はあまり学習できない。

「百聞は一見に如かず」ということわざもあるが、座学で学習できることはわずかなのだ。

ただし、座学に意味がないわけではない。

座学の知識が経験で裏付けられた時、本当に学習することになる。

知識がなければ、経験による学習も限定的か、なにも学習できない可能性もある。

すなわち、知識があれば、経験によって学べる可能性が高くなるのである。

いずれにしても、人間は経験しないと学べない。

たとえば「他人の物を盗ってはいけない」とは誰でも教えられることだ。

しかし、実際に他人の物を盗って、相手に痛い目に遭わされたり、先生や親におこられたり、警察につかまったりしない限り、人の物を盗ってはいけないと、本当に学習することは出来ない。

たぶん、誰だって欲求や衝動に負けて、人の物を盗った経験が少しはあるはずだ。

お金であったり、物であったり、人の手柄や、友だちの恋人ということもあるかもしれない。

白状するが、僕は子どものころ、友だちが捕まえて虫かごに入れていたキリギリスを、盗んで家に持ち帰ったことがある。

絶対わからないと思ったのに、友だちが家に「返してくれ」といいに来た時は怖かった。

そういう経験によって、他人の物を盗まないようになった。

こういう例でもう一つ典型的なものに「虚言癖」というものがある。

昔は「嘘をついてはいけない」ということを「嘘つきは泥棒のはじまり」などと言って教えられた。

それでも、子どもはだいたい「幽霊を見た」とか「UFOを見た」というような罪のないものを含め、いろいろな嘘をつくものだが、他の子どもや大人に暴かれて、いじめられたり、怒られたり、恥ずかしい思いをしたりして、痛い目に遭うので、大人になるにつれて虚言癖はおさまる。

ただし、女性の場合は知らないが、男の場合は大人でも「〇人と(セックスを)やった」という類の嘘をついたりもする。

この類の嘘がおさまらないのは、セックスは隠れてするものだから、余人には真偽を確かめるすべがないためなのだろう。

白状すると僕も大学の時、友だちに「セックスしたことあるか」と聞かれて、とっさに「1回だけ」と答えてしまったことがある。

その時は、まだ1回もしたことがなかったのに。

その友だちはあえて突っ込んではこなかったが、おそらく嘘だとすぐにわかっただろう。

セックスの味を覚えたら、一回だけでは済まない。

…話がちょっとそれた感じもするが、虚言癖というのものは、だいたいの子どもにあるのではないかと思う。

でも、大人になってから、子どもみたいなみえみえの嘘をつく人はほとんどいない。

ごくまれに虚言癖がなおっていない大人も見かけたりするが、たまたま指摘する人間が回りにおらず、学習する機会が得られなかったのだろう。

たとえば本人が「コワモテ」で誰も言えなかったとか…

むしろ虚言によって尊敬を集められたり、おべっかを言われたりすると、よりエスカレートするということも想像に難くない。

このように、学習は教えられたり、本で読んだりしただけでは出来ないものなのだ。

反抗期の話に戻るが、なぜそのようなものがあるかというと、やはり学習のためなのではないかと思う。

あえて教えられたことの逆をすることで、教えられたことが正しいことであるとわかる。

数学でいう背理法である。

人間は経験でしか学習できないから、ある時期に突然、これまで教えられてきた多くことが、正しいのかどうかわからなくなって、パニック状態におちいってしまう。

そこで、逆のことをして正しいかどうか確かめる実験を始める。

万引きや違法行為をしてつかまったり、人に暴力をふるって、逆にもっと強い相手に殴られたりして、そういうことをするとロクなことにならないと悟る。

おおむね正しいことがわかると、反抗期は終わる。

これが反抗期のメカニズムである。

なお、従来の常識や慣例、道徳が絶対に正しいとは限らず、どの時代のそれも、もちろん現代のそれも不完全なものであることは否めない。

それに対して、疑問を呈したり、改善に取り組んだりすることも、人間社会に必要なプロセスであろうから、反抗期が必ずしも個人的な学習のための現象に留まらないという可能性もある。

たとえば明治維新などは、その類なのかもしれない。

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