黄金の森

第一節
 おそらく、三刻の時のうちに、川辺までたどり着ければ生き延びることが出来る。だが、間に合わなければ死ぬだけだ。生と死は敗走する一群の兵士の目の前で揺れている。運命とはそういうものだ、と。
 一群の兵士を率いる、一際目立ったリーダーと思しき人物、その人こそが、いまや、全土を戦乱に招きいれた渦中の人、アルト・アルヴァーンであった。アルヴァーンは王家の姓、アルトはその嫡子の名。だが、彼はいまや、その自国において追われる身であった。
 援軍の船はテーベの岸辺で待つ。隠密のため、目印となる大樹の影にかくれて、斥候も出さぬ。生き延びれば再起もあろう、彼が正統なる王座を復奪することも可能となろう。だが、約束の時はもはや満ちつつある。かの船は、定刻になれば出立する。そういう約束であったのだ。戦禍が全土に広まる前に、反逆の汚名着せられた彼の一族、そこには、彼の妻や子供も、連携に継ぐ連携によって、未だ彼の名声と人望に援助を惜しまぬ沿岸の諸国まで逃すことが出来るのだ。
 なんとしても間に合わねばならぬ。生きてこの屈辱を晴らす日まで死ぬわけにはいかぬ。政治と簒奪にのみ長け、この茶番とも言える戦いを仕掛けた黒幕を殺し再び王の座につくまでは死ぬわけにはいかぬ。
 だが、雨はますます強くなり、雲は厚く鬱蒼とした森を囲っている。追従する兵士は八名。その体は重く鎧によって、かろうじて体勢を保っているほど疲労を抱え、ある者は、ようやく乾いた血で傷口を止めている。雨はその髪を重く濡らし、その影から眼光だけが鋭く光を放っている。
 いまや武具が取り除かれ軽装となった馬のひずめだけが、コツコツコツと、森の中に響いている。だがその音もぬかるみが酷くなるにつれて、消え失せて行く。まるで時が止まったように、自分たちが一枚の絵の中に閉じ込められて行くかのような錯覚に苦しめられる。死ぬ前とはこういうものなのだろうか? 兵士の一人、まだうら若く、頬の赤さが残る齢十六の少年は思う。その名はアルヴィ、王家に最も古くから仕えるクスター一族の末弟にして、若くして直属の近衛に任ぜられ、その就任式は、清々とした高い秋晴れの日に、王城の御庭で行われた。それも、ただもう二ヶ月前のことだったはずなのに、何もかもが変わってしまった。彼の手はますます冷たくなり、空腹はますます酷くなるに連れても、ただこの風景を逃げ出して、暖かい船室へたどり着くことだけを考える。その先のことは、その先で考えればいい。王を護ることが彼の使命なのだ。
「王よ、今は何刻でありましょう。先に向かわせた兵士が未だ戻りませぬ」
 誰もがわかっている。一刻以上も前に偵察に放った馬が未だ戻らぬということは、やはり彼も敵の手に絡め取られてしまったのだろう。ということは、敵は我らの目前にも展開しつつある。不思議なほど死が近い。それなのに、その足音は全く聴こえることはないのだ。だが、緊張のあまり言わずにはいられない。
「歩みを止めるわけにはいかぬ。情勢の確認が取れぬとも、先を急ぐしかない」
 アルトは重たく言い放つ。
「王よ、私が再び偵察に行って参ります。いまや、どこに敵が潜んでいるかわかりませぬ。」
「それには及ばぬ」
 その言葉が言い終わるか終わらないかの内に、大気を唸らせる数本の矢がアルトの頬を掠めた。
「進め! 一斉に駆け抜けろ!」
 アルトはそう言い放つと手綱を大きく振り上げて疾走する。後ろで、どさりと、人間が大地に叩きつけられる音がする。振り返ってはいけない。そこにも死があるだけだ。今や暗い死の天蓋に囲まれた中で、一瞬一瞬、目の前にある一点の光へ飛び込んで行くことだけが生き延びる道なのだ。その光へ向かって駆け抜けろ!アルヴィは王の後を必死で追う。我は彼の臣下であり、臣下として生き;、臣下として死ぬ。この時代に生まれた意味を、彼もまた王と同じく産まれた制限され、若い時からそれを受け入れて来た。この道以外に、他に道はなく、ただまっすぐに王の背中を追うことが、この時代で近衛の家系と産まれた運命であったのだ。
 ふいに木の影から敵の兵士の刃がきらりと光る。刃が薙ぎ払われるより早く、彼の足につけられたバックルがその顔面を強く打ち砕き、刃を持ったまま兵士は吹き飛ばされる。速く、早く、少しでも王の傍で盾となり刃となり、その生を燃やすことがわが宿命にして望みなのだ。迷うことなど、許されない。自分は最も王の傍に近い人間でありたいのだ。だが、その時、側面から突然の強い衝撃がアルヴィの頭を震わす。体が宙に浮き、目の前にはただ大きな曇天を吸い込む。死ぬのだ。暗く閉じていく景色の中で、彼は自分に言い放ち、アルヴィは意識を閉じた。「アル!」遠くで自分の名前をかすかに呼ぶ、そんな声を遠く聞いた。

第二節
 雨はますます強くなる。土砂降りだ。その雨に混じって、赤い血が流れている。敵の追撃を追い払い、疾走する仲間を集めてみれば、もはやアルトを入れて四人しか残っていない。負傷したアルヴィを抱えて、ここまで生き延びて来れただけでも、奇跡というものだろう。馬を捨て、カムフラージュのための別の方向へ走らす。今は自らの足を断ってでも、時間を稼がねばならない。一群は身を隠すために、そして、一刻も早くアルヴィを横にして休ませるために、深く深く森へ入り、森が一層鬱蒼とし始め、断層のようなものになっている場所で腰を降ろした。ここなら、葉を茂らせた大木が雨をしのいでくれる。アルトはアルヴィをマントの上に横たえ、雨にぬれないように、さらにマントを重ねる。だが、血は留まることを知らない。もう一刻も持たないかもしれない。自分自身の体力も限界に近い。もはや、これまでなのか。
 水たまりの中に、小さな羽虫が羽根をばたつかせている。水から逃れようともがけばもがくほど、ずぶ濡れになって逃れられなくなる。アルトはそれを、ぼんやりと見ていた。その水たまりに血が流れて行く。アルトはそっと羽虫に手を伸ばし、指に乗せて深い森の中へ投げ入れてやった。

「生き物が死んでいくのは悲しい? あなたはたくさんの人を殺して来たのに……」

 低いはっきりとした女性の声がする。見上げると、断層の上に黒衣の女性が立っている。すらりとした長身を、黒いローブでまとっている。そして、それ以上漆黒の黒髪が滑らかな曲線を描いて地上まで垂れているのがに目を引く。どうしてこんな森深くに女が一人でいるのかわからないが、今はそんなことを気にするには、アルトはあまりに疲れすぎていた。近くに小さな村でもあるのだろう。そうだとしたら、そこで手当てが出来るかもしれない。いや、とアルトは考え直す。危険すぎる。敵はとっくに手を回しているだろう。
「悲しいさ。できれば殺したくなどなかったのだ。今日だけで十人以上殺して来た俺も、
 部下の一人が死んでいくのがどうしても悲しい」
(何もすることができず、こうして見届けることしかできないのは、アルヴィはある意味、
 俺が殺したのも同然なのだ)
 女は言う。
「だとしたら、どうしてあなたはその人を戦いに巻き込んだの? その人は、
 戦いの中で生きるには優しすぎるのに……」
 アルトは声を高める。
「おまえに何がわかる? こいつの何を知っているというのだ?
 アルヴィは俺のことを命をかけて護ってくれた。こいつは、俺が王子の座を追われて、
 国を追われる身になっても、真っ先に俺のもとへ駆けつけて、そして、最後まで、
 俺と共にいてくれる男なのだ。俺はこいつを失いたくない」
「フィンランディア国、王族近衛、第一弓隊長、アルヴィ・クスター」
 王は立ち上がり
「おのれ。おまえは敵国の者か! なぜ、名を知っている!」
と、声を張り上げる。だが、女は雨の中で濡れもせず、まばたきもせず、ただ、淡々と語り続ける。
「そしておまえは、フィンランディア、前国王、レア・アルヴァーンの子、アルト・アルヴァーン。反逆者の汚名を着て、隣国への逃走中だ」
 王は走り寄って剣を女の喉元に突き立てる。
「答えよ! 敵軍は今どこにいるっ。おまえは何処から来た。最近のカルテア軍は女子供とて戦闘に使うのかっ」
 女はまるで剣など存在しないかのように視線を動かさず、アルトを見据え続ける。
「おまえたちはここが何処だかわかっていないようだ。ここは、魔の森の入り口だ。
 剣など何の役にも立たぬ。そして私は魔女。この森を統べるものだ」
 アルトと兵士たちは、「魔の森」にまつわる恐ろしい伝説を思い出していた。この国に住むものなら、誰でも知っている物語だ。魔の森の一帯は周りから一段高くなった高い地層に囲まれ、入ることも難しい。そして、そこになんとか入ることが出来た者も、数日の記憶を失ってしまうと聴く。
 アルトは剣を退き、膝を屈する。
「おまえが何者かは知らぬ。魔の森の噂は耳にしたことがある。だが、本当に何であるかは知らぬ。
 だが、そんなことも今はどうでもいい」
 アルトは深く息を吸い込む。
「頼む。この男を救ってくれ。この森も知らぬ。おまえの正体も知らぬ。
 だがこの森に住んでいるというなら、手当ての術ぐらいはあるだろう。
 頼む、何でもいい、この男を死なせないでくれ」
 長い沈黙がある。その沈黙の意味をアルトは計り兼ねる。
「一つだけ」
 魔女は言う。
「一つだけ質問に答えよ」
 王はうなずく。
「何でも……」
 魔女は淡々と語り始める。その声には凛とした厳しさがあった。
「おまえの手は血で染まり、この大きな雨を持ってしても拭い去ることは出来ないだろう。
 だが、今しがた、この森の境界から転げ落ちた黄金虫をおまえは助けてくれた。それは何故だ?
 あれは、私たちにとってとても大切な者だった……」
 アルトは、さきほど、血で染まった水たまりから逃がしてやった羽虫のことを思い出した。
「生き延びるために、大勢を殺した来た俺だって、
 目の前で血で染まる水たまりに溺れる羽虫を残しておくことは俺には出来ない」
 再び沈黙が走った。魔女の目はずっと王に注がれ、まるで、そこから、王のすべてを見透かそうとしているようでもあった。
「いいだろう。一度だけチャンスをやろう」
 魔女が言う。
「この魔の森の中心には、飲むものの傷を完全に癒す神水が湧き出ている。
 それは飲む者の体を内側から癒し、全ての開いた傷口を徐々に修復する。
 その男には一口あれば十分だろう。この森に、おまえが入ることを許そう」
 アルトは微笑をもって魔女を見つめる。
「感謝する」
 しかし魔女は変わらぬ表情で言い続ける、
「ただし、この森を進むことは、如何なる屈強な偉丈夫とても、一筋縄ではいかぬ。
 絡まる蔦、大木の根が作る迷宮、見通しの行かぬ茂った葉のベール。
 その全てがおまえの行く手を遮るだろう。
 おまえがたどりつくことが出来るか知れぬ。
 まして、おまえがここに再び帰りつくことができるかも知れぬ。
 そして、おまえがこの森で生きようが死のうが、あるものを残してもらう」
「あるものとは?」
とアルトは問う。
「それはおまえが見出すがいい。もし見出せない場合には、
 おまえは魔の森を一生出ることは出来ない」
 そう言うや否や魔女はふり向きざまに姿を消した。アルトは呆然と立ち尽くし、雨に打たれるままとなった。

* 第三節

(一)

 どれだけ歩いたのか、ここは、自分の見知った世界と様々なものが違う。自分の背丈以上もあろう大きな根を?き出しにした大木、細く何処までも深い河、真っ青だが霞がかかたった空。その空へ螺旋を描きながら伸びる木々の枝。森はまるで細部から全体がうねるように、空へ向かって歪曲している。鳥一羽いない森。雨の音しかしない森。そして、そんな森の向こうに、輝くばかりの麦の畑がぼんやりと光を放っている。だが、自分の道はその麦畑に交わることなく、鬱蒼とした森の小道を進んで行く。
 魔女が進めと行った道、自分が進むと決めた道、その道は既に道であることをやめたように、荒れ果てたまま打ち捨てられている。雨が頬を打つ。足を前に出し深い草をかき分ける。生きていることが夢のようだなどと誰が言ったのだろう。生きることは、こんなにも激しく、つらく、冷たく、自分を傷つける。疲れ果てて、びんやりと横手に広がる黄金の麦畑を見ていると、遠い記憶に誘われる。

 あれはいつのことだったか。ずっと遠い子供のころだ。俺は、新しい燕尾服を来て、城の中庭に降りて、春のぼんやりとした空をぼんやりと見ていた。俺は、この国を治め、守り、老いて、ここで死んで行くのだとぼんやりと思っていた。何かのパーティの前だったのだろう。側近たちが俺を探している。俺はそれがわかっていて、ここで隠れているのだ。中庭の茂みの中、僕はまるで、そこからここへ運ばれたようだ。

 次に思い出す。俺の十五才の春。澄み渡った青空の下、城前の広場で、僕の任命式が行われる。沿岸十六州を治める長官として、同時に他国との交易を一手に引き受ける、渉外大使として、父から宝印を戴いた日……。それは同時に、行く行くはこの国を治める王となることを暗黙のうちに意味するものだった。あの日は僕の運命であり、そしてもっとも輝かしい日でもあった。
 沿岸の貿易は、この国に流入するあらゆる商品の窓口であり、その関税によって、膨大な富を獲得し、国家予算を支える大きな柱となる。また、沿岸からテーベ河を遡って首都ヘテナへ至る河上のルートは、商業の中心と言えるものであった。また、それは同時に敵がもっとも効率よく進軍するルートでもあり、攻防の要でもあった。よってこの職は自ずから、沿岸十六州の軍の統帥となり、その戦力をまとめて、東部沿岸州の防衛の役目を自ずから負うことになる。それゆえに、この大役は、代々王となる者が、その戴冠に先立って任されて来たのだ。俺はこの大役に心躍らされていた。この狭い城から出て、歴史的には、やや本国中央と異なる文化的土壌を持つ土地に憧れてもいたのだ。だが、所詮、それは、一つの城さえろくに出たことのない子供じみた憧憬だった……。

 赴任して三年、ようやく沿岸州全てを調停し、交易の事情も手に取るようにわかって来たとき、その年の春に一通の手紙が王城から届いた。カルテアに対する輸入時の通貨レートの変更だった。つまり、輸入時のみカルテア通貨を安く見積もることで、実質、カルテアからの輸入を、他の諸国に対して優遇することを意味していた。これにアルトは激怒した。
 前々から、王城には、親カルテア派と反カルテア派が対立していた。親カルテア派は、多く、カルテアに大使として在任したことがあり、深くその地に利潤と絡み合うことで、政治的にも経済的にも、力を増して来た議員の勢力だった。逆に、そういった他の諸国との偏った関係を忌避する一派が存在する。これは、主に、貴族や王党派の議員に多く、理念を重んずる一派だった。カルテア派から言わせれば「フィンランディアを一歩も出たことにないおぼっちゃま集団」であって、他国との調整が綺麗事だけでは、済まされないことを知らない連中だった。結局のところ、こういった手紙が自分のところに来る、ということは、王城内の議会で、親カルテア派の勢力が増したことを意味していた。
 だが、それだけなら、アルトが気にかけることもなかっただろう。カルテアの他にも、トラキア、ラドン、ナラム、タイタニアなど、海を隔てて貿易を行う国は、多くあったからだ。親カルテア派の代表とされる人物は、貴族のヴァン・エーデルフェルト。産まれはフィンランディアだったが、育ちからカルテア。公知の事実として、それはレア・アルヴァーンの隠し子であった。風聞が恐れて、王は、カルテアに後見人をつけて隠し育てた。だが、風聞というものは、醜ければ醜いほど、広がるのが早い。幼いアルトが、その見知らぬ子供の名前を聞くのも、そう遠からぬことではなかった。貴族ヴァン・エーデルフェルト、自分が王城から沿岸の長官として派遣されるのと入れ違いのように、王城に戻された男。二度、会う機会があった。一度は、彼が見かけ上の任を解かれて、カルテアから戻されたとき。真っ黒な髪をして、青い目をした、細身の男。そして、自分が任地へ赴く前に開かれたパーティ。近寄って来たのは、彼だった。「ヴァン・エーデルフェルトと申します。以後、お見知りおきを」その言葉には、既に、私生児と嫡子という関係上、言外に多くの意味を持っていた。「知っている。カルテアはどんなところだ」アルトは、挨拶を無視して言い放った。「野蛮で、下品で、不潔なところでございます。フィンランディアに比べれば……」意外な言葉だった。「おまえは自分の育ったところを、そういうふうに言うのか」少し言がたった。「ただ、一ついいところがございまする」とヴァン。「フィンランディアの文化に強く惹かれ、憧れているところです。憧れを通り越して、嫉妬と言った方がいいかもしれませんが。失礼」そう、あの男が、城内で勢力を伸ばしているのだ。ヴァン・エーデルフェルトは外交長官の任に就いていた。この地位は、これまでは、王の命令を実行するだけの形式的な地位であったものの、ヴァンは、王の後ろ盾を利用して大きな権限を振るうようになっていた。そして、自分は、そこから遠く離れて、この沿岸にいる。わかっているとはいえ、面白くない事実だった。そして、さらに、王、つまり自分の父が、ヴァンの言葉に動かされていると想像するだけでも耐え難いことだった。
 アルトは、王の文書に対し、カルテアへの優遇は、他の諸国とのバランスを崩すこと、そして、ヴァン・エーデルフェルトにこれ以上の権限を渡すことは危険であること、そして、今回の指令を実行するには困難があり、従えないことを書簡にして封蝋し特使に渡した。

(二)

 王からの返信は、二週間後にやって来た。カルテアとの政策は、議会における政策であること、それが他国全体とのバランスの上の協議であること、が銘記してあった。ヴァンに対する返信は何処にもなかった。これは三つの意味でアルトを傷つけた。若輩とは言え、三年に渡る実務によって、貿易に対する見識を上げて来た自分の意見が無視されたこと、さらに、そういった経験がないヴァンの言葉を聞き入れたであろうこと、そして王から彼個人に対する返信がなかったこと。アルトは一体、王城の政治で何が起きているか知りたかった。王の言葉を直接聞きたかった。だが、貿易の要である、この土地を離れることは今は出来なった。そして、今、王城へ帰ったからと言って、何が出来るでもなかった。
 これだけであったなら、彼が王城に兵を進めるまで、深い怨恨を育むことはなかっただろう。だが、これと時期を同じくして、外交庁tの関係が悪化して行った。王からの命令に従わぬことへの違反、さらに、トラキアに対する貿易制限(トラキアはカルテアと関係を悪化させていた)、彼の業務上の帳簿に対する厳重注意(多くはあてつけられたものだった)、沿岸警備の予算の削減など、矢継ぎ早に、じわじわと彼の権勢を包囲する陣が組まれていた。わかっている。王城では、ヴァンに対して情報が筒抜けなのだ。先の文書もなんらかの情報網を通して、自分がヴァン・エーデルフェルトの権力を制限することを王に忠言したことも知られてしまっているのだ。暗殺、一瞬、アルトの中で、そんな考えが浮かんだ。しかし、次の瞬間には振り切った。何をあせることがある。彼は王の嫡子であって、時期が来れば、王城に戻り、後を継いで王となる身なのだ。だからこそ、それを阻止しようとする勢力があっても不思議ではない。事実、沿岸の領主の任につきながら、暗殺された領主も少なからずおり、また、五十過ぎになるまで、王城に呼び戻されず、戻ったときには、完全に他の王族に政権を握られて、形だけの王となった事例も存在する。アルトはそんな人生はまっぴらだった。彼は深くこの国を愛していた。それは、この沿岸の領地に来て、さまざまな世界と交渉するうちに、世界の広さを知ると同時に、自分の国の美しさと文化の高さを認識し、厳しい現実から守らなければいけないという愛国心を育んだゆえであった。カルテアなどに、この国を渡してはいけない。カルテア出身の私生児にもだ。
 アルトは、沿岸警備の予算の制限、つまり、それは、沿岸の警備軍の増強の予算だったが、その制限を無視して、軍備の増強を図ったのであった。そもそも、仮想敵国である隣国のカルテアと友好関係を築く以上、そういった軍備の増強は必要ないというのが、外交庁の見解であった。しかし、彼は、カルテア人というものを信用できなかった。あさ黒い肌をして背が低く、交渉には長けているが、自分の意見というものを持たず、いつも後方へ持ち帰っては「一致した意見」として返信をよこす、不可思議な意思決定しかできない、そんな民族だと思っていた。それに、カルテアを思うとき、ヴァン・エーデルフェルトと切り離して考えることが出来なかったのだ。
 その年の秋に事態は急速に悪化して行った。彼が軍備を増強すればするほど、外交庁との関係は悪化し、依然、守られない王の指令と合わせて、彼を攻撃する弱点をヴァン・エーデルフェルトに与えることになった。だが、もはや、軍備の増強は、彼自身の存在を、この国で誇示する唯一の手段となって行った。さらに、予算は削減され、身動きのとれなくなったアルトは、トラキアに予算の援助の申請を申し出た。カルテアとの衝突を激化させていたトラキアなら、対カルテアの軍備増強をフィンランディアがしてくれることは、願ってもないことであり、実際、アルトの読みどおり、トラキアは、かなりの額をアルトに提供した。そして、それは暫くして外交長の知るところとなった。この時になって初めて、アルトは自分の側近の中にさえ、外交庁、或いは、ヴァン・エーデルフェルトに通じているものがいることに気付いたのであった。
 フィンランディア、カルテア、トラキアを巡る関係は、フィンランディア国内で、急速に緊張を増して行った。いつ、国内の派閥で戦闘が起こっても不思議ではなかった。ヴァン・エーデルフェルト、アルト・アルヴァーンの対立はもはや知らぬものはない風聞となっていた。不思議なことに、文化的水準と風聞の伝達速度は比例するものなのだ。ただ、アルト・アルヴァーンの人気は沿岸十六州において、圧倒的なものがあった。湾岸の設備を整え、当時、権力を欲しいままにしていた各州の関税人を処罰し、新しく関税機関を各州に設置し、任期を二年と定め、さらに、寂れていた沿岸を貫く沿岸街道の整備工事を行うと同時に、横行していた盗賊から守るために警備隊を組織して治安の維持に当たらせた。首都から遠く離れ、これまで辺境の意識のあった沿岸州は、新しい王の嫡子の着任と政策に歓喜した。各州の新聞を通して、彼の似顔絵が公開され、その若き風貌は、もはや貧しい路地の子供たちにさえ知らぬものはいなくなった。だが、皮肉なことに、沿岸における彼の人気が高まれば高まるほど、中央との緊張は高まって行くのであった。
 事件の発端は、その年の六月に起こった。トラキアの海軍は、フィンランディアの沿岸の港の利用と補給の権利をアルトに要請した。既に、巨額の予算を提供されていたアルトには、これを断る術を知らなかった。そして、見返りのない資金援助などがあるはずもないことを知らぬほどに、自分が未熟であったことを思い知らされた。これに乗じて、外交庁は、切り札として取っておいたアルトがトラキアから多額の金額を受け取り私腹をこらしていたこと、そして、その見返りとして海軍の逗留を認めたことを公知した。同時に、名目上は不法逗留のトラキア軍を処罰するために、実質的にはアルトを捕らえるために、大群を沿岸へ向けて派遣することとなった。王とアルトの間のチャンネルは完全に閉じられていた。これを端緒に、沿岸-トラキアの勢力と、親カルテア-フィンランディアとの戦いの火ぶたが切って落とされた。沿岸のアイドルは、フィンランディアの逆賊となり、沿岸十六州は独立を宣言し、新しくアルト・アルヴァーンを正統な王として宣言した。

* 第三節

(一)

 どれだけ歩いたのか、ここは、自分の見知った世界と様々なものが違う。自分の背丈以上もあろう大きな根を?き出しにした大木、細く何処までも深い河、真っ青だが霞がかかたった空。その空へ螺旋を描きながら伸びる木々の枝。森はまるで細部から全体がうねるように、空へ向かって歪曲している。鳥一羽いない森。雨の音しかしない森。そして、そんな森の向こうに、輝くばかりの麦の畑がぼんやりと光を放っている。だが、自分の道はその麦畑に交わることなく、鬱蒼とした森の小道を進んで行く。
 魔女が進めと行った道、自分が進むと決めた道、その道は既に道であることをやめたように、荒れ果てたまま打ち捨てられている。雨が頬を打つ。足を前に出し深い草をかき分ける。生きていることが夢のようだなどと誰が言ったのだろう。生きることは、こんなにも激しく、つらく、冷たく、自分を傷つける。疲れ果てて、びんやりと横手に広がる黄金の麦畑を見ていると、遠い記憶に誘われる。

 あれはいつのことだったか。ずっと遠い子供のころだ。俺は、新しい燕尾服を来て、城の中庭に降りて、春のぼんやりとした空をぼんやりと見ていた。俺は、この国を治め、守り、老いて、ここで死んで行くのだとぼんやりと思っていた。何かのパーティの前だったのだろう。側近たちが俺を探している。俺はそれがわかっていて、ここで隠れているのだ。中庭の茂みの中、僕はまるで、そこからここへ運ばれたようだ。

 次に思い出す。俺の十五才の春。澄み渡った青空の下、城前の広場で、僕の任命式が行われる。沿岸十六州を治める長官として、同時に他国との交易を一手に引き受ける、渉外大使として、父から宝印を戴いた日……。それは同時に、行く行くはこの国を治める王となることを暗黙のうちに意味するものだった。あの日は僕の運命であり、そしてもっとも輝かしい日でもあった。
 沿岸の貿易は、この国に流入するあらゆる商品の窓口であり、その関税によって、膨大な富を獲得し、国家予算を支える大きな柱となる。また、沿岸からテーベ河を遡って首都ヘテナへ至る河上のルートは、商業の中心と言えるものであった。また、それは同時に敵がもっとも効率よく進軍するルートでもあり、攻防の要でもあった。よってこの職は自ずから、沿岸十六州の軍の統帥となり、その戦力をまとめて、東部沿岸州の防衛の役目を自ずから負うことになる。それゆえに、この大役は、代々王となる者が、その戴冠に先立って任されて来たのだ。俺はこの大役に心躍らされていた。この狭い城から出て、歴史的には、やや本国中央と異なる文化的土壌を持つ土地に憧れてもいたのだ。だが、所詮、それは、一つの城さえろくに出たことのない子供じみた憧憬だった……。

 赴任して三年、ようやく沿岸州全てを調停し、交易の事情も手に取るようにわかって来たとき、その年の春に一通の手紙が王城から届いた。カルテアに対する輸入時の通貨レートの変更だった。つまり、輸入時のみカルテア通貨を安く見積もることで、実質、カルテアからの輸入を、他の諸国に対して優遇することを意味していた。これにアルトは激怒した。
 前々から、王城には、親カルテア派と反カルテア派が対立していた。親カルテア派は、多く、カルテアに大使として在任したことがあり、深くその地に利潤と絡み合うことで、政治的にも経済的にも、力を増して来た議員の勢力だった。逆に、そういった他の諸国との偏った関係を忌避する一派が存在する。これは、主に、貴族や王党派の議員に多く、理念を重んずる一派だった。カルテア派から言わせれば「フィンランディアを一歩も出たことにないおぼっちゃま集団」であって、他国との調整が綺麗事だけでは、済まされないことを知らない連中だった。結局のところ、こういった手紙が自分のところに来る、ということは、王城内の議会で、親カルテア派の勢力が増したことを意味していた。
 だが、それだけなら、アルトが気にかけることもなかっただろう。カルテアの他にも、トラキア、ラドン、ナラム、タイタニアなど、海を隔てて貿易を行う国は、多くあったからだ。親カルテア派の代表とされる人物は、貴族のヴァン・エーデルフェルト。産まれはフィンランディアだったが、育ちからカルテア。公知の事実として、それはレア・アルヴァーンの隠し子であった。風聞が恐れて、王は、カルテアに後見人をつけて隠し育てた。だが、風聞というものは、醜ければ醜いほど、広がるのが早い。幼いアルトが、その見知らぬ子供の名前を聞くのも、そう遠からぬことではなかった。貴族ヴァン・エーデルフェルト、自分が王城から沿岸の長官として派遣されるのと入れ違いのように、王城に戻された男。二度、会う機会があった。一度は、彼が見かけ上の任を解かれて、カルテアから戻されたとき。真っ黒な髪をして、青い目をした、細身の男。そして、自分が任地へ赴く前に開かれたパーティ。近寄って来たのは、彼だった。「ヴァン・エーデルフェルトと申します。以後、お見知りおきを」その言葉には、既に、私生児と嫡子という関係上、言外に多くの意味を持っていた。「知っている。カルテアはどんなところだ」アルトは、挨拶を無視して言い放った。「野蛮で、下品で、不潔なところでございます。フィンランディアに比べれば……」意外な言葉だった。「おまえは自分の育ったところを、そういうふうに言うのか」少し言がたった。「ただ、一ついいところがございまする」とヴァン。「フィンランディアの文化に強く惹かれ、憧れているところです。憧れを通り越して、嫉妬と言った方がいいかもしれませんが。失礼」そう、あの男が、城内で勢力を伸ばしているのだ。ヴァン・エーデルフェルトは外交長官の任に就いていた。この地位は、これまでは、王の命令を実行するだけの形式的な地位であったものの、ヴァンは、王の後ろ盾を利用して大きな権限を振るうようになっていた。そして、自分は、そこから遠く離れて、この沿岸にいる。わかっているとはいえ、面白くない事実だった。そして、さらに、王、つまり自分の父が、ヴァンの言葉に動かされていると想像するだけでも耐え難いことだった。
 アルトは、王の文書に対し、カルテアへの優遇は、他の諸国とのバランスを崩すこと、そして、ヴァン・エーデルフェルトにこれ以上の権限を渡すことは危険であること、そして、今回の指令を実行するには困難があり、従えないことを書簡にして封蝋し特使に渡した。

(二)

 王からの返信は、二週間後にやって来た。カルテアとの政策は、議会における政策であること、それが他国全体とのバランスの上の協議であること、が銘記してあった。ヴァンに対する返信は何処にもなかった。これは三つの意味でアルトを傷つけた。若輩とは言え、三年に渡る実務によって、貿易に対する見識を上げて来た自分の意見が無視されたこと、さらに、そういった経験がないヴァンの言葉を聞き入れたであろうこと、そして王から彼個人に対する返信がなかったこと。アルトは一体、王城の政治で何が起きているか知りたかった。王の言葉を直接聞きたかった。だが、貿易の要である、この土地を離れることは今は出来なった。そして、今、王城へ帰ったからと言って、何が出来るでもなかった。
 これだけであったなら、彼が王城に兵を進めるまで、深い怨恨を育むことはなかっただろう。だが、これと時期を同じくして、外交庁tの関係が悪化して行った。王からの命令に従わぬことへの違反、さらに、トラキアに対する貿易制限(トラキアはカルテアと関係を悪化させていた)、彼の業務上の帳簿に対する厳重注意(多くはあてつけられたものだった)、沿岸警備の予算の削減など、矢継ぎ早に、じわじわと彼の権勢を包囲する陣が組まれていた。わかっている。王城では、ヴァンに対して情報が筒抜けなのだ。先の文書もなんらかの情報網を通して、自分がヴァン・エーデルフェルトの権力を制限することを王に忠言したことも知られてしまっているのだ。暗殺、一瞬、アルトの中で、そんな考えが浮かんだ。しかし、次の瞬間には振り切った。何をあせることがある。彼は王の嫡子であって、時期が来れば、王城に戻り、後を継いで王となる身なのだ。だからこそ、それを阻止しようとする勢力があっても不思議ではない。事実、沿岸の領主の任につきながら、暗殺された領主も少なからずおり、また、五十過ぎになるまで、王城に呼び戻されず、戻ったときには、完全に他の王族に政権を握られて、形だけの王となった事例も存在する。アルトはそんな人生はまっぴらだった。彼は深くこの国を愛していた。それは、この沿岸の領地に来て、さまざまな世界と交渉するうちに、世界の広さを知ると同時に、自分の国の美しさと文化の高さを認識し、厳しい現実から守らなければいけないという愛国心を育んだゆえであった。カルテアなどに、この国を渡してはいけない。カルテア出身の私生児にもだ。
 アルトは、沿岸警備の予算の制限、つまり、それは、沿岸の警備軍の増強の予算だったが、その制限を無視して、軍備の増強を図ったのであった。そもそも、仮想敵国である隣国のカルテアと友好関係を築く以上、そういった軍備の増強は必要ないというのが、外交庁の見解であった。しかし、彼は、カルテア人というものを信用できなかった。あさ黒い肌をして背が低く、交渉には長けているが、自分の意見というものを持たず、いつも後方へ持ち帰っては「一致した意見」として返信をよこす、不可思議な意思決定しかできない、そんな民族だと思っていた。それに、カルテアを思うとき、ヴァン・エーデルフェルトと切り離して考えることが出来なかったのだ。
 その年の秋に事態は急速に悪化して行った。彼が軍備を増強すればするほど、外交庁との関係は悪化し、依然、守られない王の指令と合わせて、彼を攻撃する弱点をヴァン・エーデルフェルトに与えることになった。だが、もはや、軍備の増強は、彼自身の存在を、この国で誇示する唯一の手段となって行った。さらに、予算は削減され、身動きのとれなくなったアルトは、トラキアに予算の援助の申請を申し出た。カルテアとの衝突を激化させていたトラキアなら、対カルテアの軍備増強をフィンランディアがしてくれることは、願ってもないことであり、実際、アルトの読みどおり、トラキアは、かなりの額をアルトに提供した。そして、それは暫くして外交長の知るところとなった。この時になって初めて、アルトは自分の側近の中にさえ、外交庁、或いは、ヴァン・エーデルフェルトに通じているものがいることに気付いたのであった。
 フィンランディア、カルテア、トラキアを巡る関係は、フィンランディア国内で、急速に緊張を増して行った。いつ、国内の派閥で戦闘が起こっても不思議ではなかった。ヴァン・エーデルフェルト、アルト・アルヴァーンの対立はもはや知らぬものはない風聞となっていた。不思議なことに、文化的水準と風聞の伝達速度は比例するものなのだ。ただ、アルト・アルヴァーンの人気は沿岸十六州において、圧倒的なものがあった。湾岸の設備を整え、当時、権力を欲しいままにしていた各州の関税人を処罰し、新しく関税機関を各州に設置し、任期を二年と定め、さらに、寂れていた沿岸を貫く沿岸街道の整備工事を行うと同時に、横行していた盗賊から守るために警備隊を組織して治安の維持に当たらせた。首都から遠く離れ、これまで辺境の意識のあった沿岸州は、新しい王の嫡子の着任と政策に歓喜した。各州の新聞を通して、彼の似顔絵が公開され、その若き風貌は、もはや貧しい路地の子供たちにさえ知らぬものはいなくなった。だが、皮肉なことに、沿岸における彼の人気が高まれば高まるほど、中央との緊張は高まって行くのであった。
 事件の発端は、その年の六月に起こった。トラキアの海軍は、フィンランディアの沿岸の港の利用と補給の権利をアルトに要請した。既に、巨額の予算を提供されていたアルトには、これを断る術を知らなかった。そして、見返りのない資金援助などがあるはずもないことを知らぬほどに、自分が未熟であったことを思い知らされた。これに乗じて、外交庁は、切り札として取っておいたアルトがトラキアから多額の金額を受け取り私腹をこらしていたこと、そして、その見返りとして海軍の逗留を認めたことを公知した。同時に、名目上は不法逗留のトラキア軍を処罰するために、実質的にはアルトを捕らえるために、大群を沿岸へ向けて派遣することとなった。王とアルトの間のチャンネルは完全に閉じられていた。これを端緒に、沿岸-トラキアの勢力と、親カルテア-フィンランディアとの戦いの火ぶたが切って落とされた。沿岸のアイドルは、フィンランディアの逆賊となり、沿岸十六州は独立を宣言し、新しくアルト・アルヴァーンを正統な王として宣言した。

* 第四節

 アルヴィの体が重たくのしかかる。ぬかるみに剣を捨てる。甲冑を捨てる。身を軽くせねば、もう一歩も進むことができない。

 アルトは泥と血で汚れた自分の手を見た。そして、アルヴィの手も見た。アルヴィの手は、アルトの血によって、さらに泥と血で汚れていた。この十年に渡る戦いが、もたらしたものは何であったかを考えるとき、それはもはや疲弊と喪失でしかなかった。トラキアがカルテアに敗北し、併合された二年前に、既に、自分の命数は尽きていたのだ。もはや、遠く沿岸を離れたフィンランディアの首都の近くで、自分には、この小隊一つしか残されていない。フィンランディアの王位継承権は、既に剥奪された。独立国家を宣言した以上、王族であった彼の家族の命でさえ危ない。沿岸州における彼の人気は健在であったとは言え、もはやこれ以上、彼らを戦乱に巻き込む理由もなかった。もう終わりだった。この雨と共に、彼も何処へなりとも流れて行きたかった。だが、彼を信じた部下のために、アルヴィのために、彼はこの雨に争わなければならかった。
 遠くに森の終点が見え始めた。そこから、あふれるように光が湧き出ていた。油断したためだろうか? 彼は、泥に足を取られて、河へ向けて、泥土の中を滑って行った。アルヴィをなんとか、木の根元に引っ掛けるのが限度で、彼は激しい勢いで、川面へ叩きつけられた。流されまいと必死に空をつかんだと同時にもう一度強く頭を打った。水が彼の頭を洗って行く。ゆっくりと河の中へ沈んでいるのだ。必死に、灌木の枝をつかむ。つかむと同時に、体を貫くような衝撃に気を失った。手の感覚は残っていた。だが、アルトは自分の精神が遠く遠くへ運ばれるのを感じた。

 その女は小さな赤子を抱えていた。後ろからは、火の手が追っているようだった。森が燃えているのだ。無我夢中で走っている。一刻も早く隠れて、ひっそりと、三日でも四日でも死んだように身を隠して殺戮から逃れるのだ。そうすれば、再び生きて行くことが出来る。森の入り口では、あの魔女が立っている。
「どうか、どうかこの森に入れてください」
道は一つしかない。魔女がどかねば、そこを通ることは出来ない。
「いいだろう。入れ。ただし、三日だけだ。それ以上いたら、おまえは戻れなくなる」
「ありがとうございます」
 女は前に倒れるようにして、森の中へ入って行く。女の手は血で汚れている。さっき、油断した敵兵士を近くにあった角材で殴って逃げて来たのだ。我が子を助けるためとは言え、人を殺めたかもしれない。そんなことを確認する余裕さえなかったのだ。自分はこの罪を背負って生きて行かなければならないが、どうかこの子だけは、平和で幸せな人生を送って欲しい…。だが、どうしてこんなことになってしまったのか…。平和に暮らして来たのに、必死に逃げているうちに、人を傷つけて、あああ、嫌だ。もっと、平和な時代に生まれていれば、自分は、あたりまえに暮らすことができたのに…。血で汚れた手で赤子を抱きしめながら、女は遠い未来に思いを馳せた。

 女は倒れこむ。そして、アルトは目を覚ます。あたりは夜になっている。
 どれぐらい眠ったのか、見上げた木の根元にアルヴィが引っ掛かている。アルトは、アルヴィを抱えなおし、土手を登り、もとの道を辿り始める。小一時間ほどで、森の出口へたどり着く。出口を抜けると、そこは、木々で囲われた円形の草原になっていた。広場には、木が一本もなく、
天上は抜けたような星空が広がっていた。森をくり抜いたような草原の真ん中には、小さく輝く泉があった。そして、そのほとりにあの魔女が立っていた。

* 第五節

 魔女は言った。
「その男をこの泉に半身だけ漬かすがいい。そして、その者の口へこの泉の水を飲ませてやれ」
その魔女の言葉は、とても静かで穏やかだった。あの森の入り口で言ったのとは別に、優しさに満ちた言い方だった。或いは、あの口ぶりは、侵入者を警戒させるための、演技だったのかもしれぬ。だとしたら、自分は、ある程度は許された客人なのだ。
「半刻ほど待て」そういうと魔女は、いくつかの結晶を泉に投げ入れた。
 一つ一つの結晶が水の中で弾けては消えて行った。そして、魔女はおもむろに話し始めた。

「我々は未来から来た。未来においても人は人と争い合うことをやめず、
 戦いはますます激しく、同時に単純なものになって行った。
 どんなに戦禍が大きくなっても、もう誰も止めることができなかった。
 お互いの国が、お互いの国を牽制するために、ますます強い兵器が作られ、
 ある国では、一瞬にしてたくさんの人がいなくなってしまった。
 巨大な兵器も小型化され、一人が何万という人間を殺せる時代になった。
 もう誰が、何をコントロールしているかわからなくなった」

「ある時、一人の学者が、まるで紙くずのように消えて行く、たくさんの人々の心を残すために、
 この森を創った。この森にあるものは何一つ、自然なものではない。
 この葉、この土、この空さえも、全て、当時の科学技術の粋を使って作られた人工物なのだ。
 そして、その一つ一つが記憶領域を持っていて、何十万、何百万と死んで行った人々の思いを記憶している。
 たとえば、さっき、おまえが助けてくれた一匹の虫、あれにも、何十人という人間の記憶が記録されている。 
 そして、もう、世界全体が滅びようという時に、この森は旅立ったのだ。過去へ向けて。
 世界の起源へ向けて。おまえもさっき、その記憶の一つを見ただろう。
 この森は、こうやって、幾つものの戦争で犠牲になったものの記憶を集めて、
 過去へ過去へ遡っているのだ。
 おまえがさっき河へ滑り落ちたときに、おまえの記憶もまたこの森に記憶された。
 それは、また、過去でこの森に迷い込んだものに渡されることになる。
 これ以上、愚か者を出さないように…」

 アルトは深々と頭を垂れた。妄執の心の壁は取り払われ、一斉に苦しむ人々の声がなだれ込んで来た。自分が追い詰められたという意識は消えて、いまや敵も味方も超えて、この国全体、自分が生まれ、背負おうとしていたこの国全体の心が、意味が、姿が、さあと、彼の心に雪崩れ込んで来た。深い罪が、この国で、一人一人苦しんでいる人の姿が見えた。苦しかったのは自分だけではない。この国のみんなが苦しんでいる。自分が苦しめて来たのだ。自分が苦しめているのだ。
 アルトは言う。
「わたしは、わたしは悪い王でした。民を省みず、己の私怨に国を巻き込んでしまいました。
 そして、わたし自身が引き起こしたこの戦争も、もはや私自身で収集できないでいます。
 わたしは、いいえ、わたしたちは、いつも、自分では治めることもできない化け物を、 
 呼び出しては苦しむのです。
 ここを出てわたしは、外で待ち受ける敵によって、すぐに殺されることでしょう。
 愚かな王、いや、愚かな人間がいたことも、ここに刻まれました。
 でも、死ぬ前に、もとの自分に戻れました。もう私怨も、うらみも、後悔もありません」
 魔女はまっすぐに広場の出口を指した。出て行けと言うのだ。
 友人を戴いてアルトは。まっすぐと森の出口へ向かって行った。アルヴィの怪我は、すっかりよくなっているようだった。傷口の血も既に洗い流されていた。
 アルトは入り口で振り向いて「ありがとう」と魔女に言った。
 帰りの道は優しかった。下りの道だし、アルヴィは、寝息を立てているようだが、以前よりずっと軽く思えた。

 森を出る。雨が降っている。以前と変らぬ、激しい雨だ。

「さあ、行こう」
 わかっている。生き延びることはできないだろう。だが、いまやアルトは、この国全体を全霊をもて感じることが出来た。この土地の広がり、この土地に吹く風、生きる人々、全ての森の草木の一本、いくつもの河の流れ、自分が見て来たにもかかわらず見過ごして来たたくさんのものを、自分の中に取り込むことが出来た。アルトは初めて、この国と一体となった。初めからこうすればよかった。たくさんの土地をめぐり、話し、感じ、その上で、この国のために出来ることをすればよかった。アルトは胸を張って森を出た。

* エピローグ

 森の中、魔女と番人が会話している。

「どうして、彼を逃がしてやったのです? 
 ここで彼がいた時間分、彼には、逃げ延びるだけの時間を過去へ遡ったのだ。
 殺しておくべきだった。我々は、この世界に干渉するべきではない」

「番人よ。我々がどうして、この森を築いた科学者によって作られて、
 森と共に過去へ送られたか、考えたことがありますか?」

「記憶を保存するためではないのか?」

「誰も見ることができない記憶など、何の価値がありましょうか?
 我々が過去を遡るには、きっとこうして、森に迷い込んでくる、修羅の者たちに、
 争いと苦しみの終焉を見せるためでなかったのかと思うのですよ。
 そして、そうやって過去へ遡るたびをさせることで、
 この森と我々を作った科学者は、あり得たはずの、よりよい未来を作ることを、
 我々に託したのではないか、と思うのです」

 森は再び静まり返った。雲が空を渡って行った。


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