チューリング・ガール (小説)

 夏の午後の日差しのもと、僕は一人の女の子と歩いている。彼女の白いブラウスは鋭い夏の日差しを反射し、真っ青なスカートは空に融けそうなほど輝いている。彼女は僕の手を握り、ルミノシティの街を歩く。暖かくやわらかい。だが問題がある。何か問題があるわけではない。この状況自体が一つの問題なのだ。僕はそれを解かない限り、前に進めない。僕は彼女を「観測」する。一挙一動を「観測」し「検証」し「確認する」。彼女が本当の人間であるか、アンドロイドであるのか、それが問題だ。

 ことの起こりは、一羽の鳥が逃げ出したことだった。一か月前の明朝、僕は新しいプログラムをロボットの鳥に流し込んで実行した。鳥は僕の部屋の窓からまっすぐに飛び出して、あっという間に街の向こうに消えて行った。これが僕の生身のペットならば、まだ良かっただろう。だがあれはロボットの鳥だ。僕が一から部品を集め、組み上げ、改良を重ねて来た。僕は遥か遠い街の上を飛んでいく鳥を見えなくなるまで、茫然と眺めながら、ようやく自分が犯してしまった過ちの大きさに気づきはじめた。あれは自作ロボットで規格外で認証番号もない。それが空を飛んでいたら、これはロボット管理局の怒りどころでは済まない。法で裁かれるかもしれない。次にエネルギーが飛んでいる内に切れる。そうなれば落下して人を傷つけるかもしれない。打ち所が悪ければ、殺してしまうかもしれない。命に別状はなくても、傷つけたり、何かを壊したりすれば賠償問題になって、高校生の僕が支払うことができない大金の義務ができるかもしれない。そうなれば両親も心配させたくない。僕は咄嗟に飛び出して、自分の鳥を探し始めた。一日中、街を彷徨歩き、郊外の森を探し回った。毎日、夜もよく眠れず朝から晩までルミノシティを歩き周っていた。ニュースサイトを見ては、何かロボットの起こした事故はないか、手がかりはないかを探し続けた。だが、この広い都市の中で、たった一羽の鳥をどうして見つけることができるだろう。

探し続けてあっという間に一か月が経ってしまった。僕は毎日やみくもに探し回り、疲れ果て泥のように眠った。夏休みどころか、何かに引きずられるような毎日だった。僕はその日も早朝からの捜索に疲れ、昼間の中央広場のベンチにぐったりと腰をかけ、目を閉ざし、ぼんやりと周囲の騒音に身を委ねていた。

「混ぜるな、危険、アンドロイド!混ぜるな、危険、アンドロイド!」

若い政治家が、一語一語噛みしめるように暑苦しい姿で演説している。先日与党によって可決された「広域アンドロイド法案」について批判しているらしい。この法案はアンドロイドのあらゆる仕事と場所における利用を認めるものだ。

「アンドロイドが人間と区別できなくなった以上、人間と同じサービスを受けることができます。それは限られた地球資源を人間と同様にアンドロイドも消費してしまうということです。あなたは自分のすぐ隣にアンドロイドがいることに耐えられますか?アンドロイドと人間の区別のなくなった社会を許せますか?あなたの子供がアンドロイドに傷つけられたらどうしますか?」

「あいつはまるでアンドロイドを恐れているようだ」それは僕の独り言のはずだった。眠さのあまり意識が遠のいて行く。しかし微かな声を聴いた。それはまるで深い井戸の底の水が揺れるような儚い声だった。

「あなたは、アンドロイドが怖くない?」

背後からいきなり話しかけられて、驚いたのを隠すように僕は言った。

「怖くない。アンドロイドが人間と区別がつかないなら、怖いのは人間の方だ」

「そう。でも、人間が良くてもアンドロイドはそうは思わないかもね」

「どうして」

「人間と一緒にされたくないもの」

僕は後ろを見ようとしたが、肩に置かれた手がそれを静止した。

「こちらを向いては駄目」

「どうして?」

「私はあいつらに睨まれている」

よく見ると、ライト色のジャンバーを着た政治家のスタッフがちらほらとこちらを見ている。そして何よりも真ん中にいる若い政治家がこちらを鋭い目で睨んでいる。

「あなたは今日、何かを探していた」彼女が聴いた。

「ああ、そうだよ。僕の鳥をね。幸福の鳥だったんだ。チルチルとミチルみたいにね」

「そう。メーテルリンクね。1908年の戯曲で、ノーベル賞を取った。

明日、ここで。12時、あいつらのいない場所で会いましょう。わかった?」

「どうして僕が君と会わなくちゃいけないんだ?」答えはない。

「君はアンドロイド?」

「さあ。もし、私を人間か、アンドロイドか、見分けることができたら、

 あなたの願いを何でも一つだけ叶えてあげるわ」

そう言うと、足音と共に彼女の気配が去って行った。後には、甘い香水の匂いだけが残された。

翌朝、僕は朝早くから鳥を探していた。約束の12時までは時間がある。あの鳥には、他の鳥を追尾するアルゴリズムがある。そして他の鳥の鳴き声を学習して鳥を集める機能がある。だから鳥が多くいる場所にいる確率が高い。発振器一つ付けていなかった自分が悔やまれる。やはり無駄に終わった探索の後、僕はルミノシティの中央広場のあのベンチに行って休むことにした。まだ30分ほど時間がある。しかし、もう彼女はそこに座っていた。同じ年ぐらいの少女だった。長い黒髪、きちんとアイロンの通ったブラウスを着て、凛として背筋を伸ばして僕を待っていた。青いスカートは何年か前に流行った色に似ていた。少し大きめのボストンバックを持っていた。しかし、その柔らかな姿からは想像もつかない、力強い二つの目がまっすぐに僕を見つめていた。

「昨日ぶり?初めまして。えーと、あなたのことなんて呼んだらいいですか?」

「上総だ。遅れてごめん。君は?」

「いいえ、上総さん、まだ11時38分よ。私が早く来すぎた。あなたも早いのね。私は頼子」

「そう。朝から探しているから」僕はぶっきらぼうに言った。時間が惜しい。彼女は黙っている。本当は興味がないのかもしれない。構うものか。

「僕の鳥をね。一週間前に家を飛び出してしまったロボットの鳥なんだ。

僕はそいつを探している。落っこちて人を傷つける前に回収したい。でも、もう探すあてがないんだ。僕自身も、もう長い間、ろくに寝ていない。誰の迷惑もならずに、どこかで壊れていてくれていることだけでも確認できたらいいのだけれど」

「壊れていていいの?」

「本当はよくない。でも、誰かに怪我をさせるよりはましだ。誰も傷つけたくない。

 そういうものだろう?それより、昨日、言った。どんな願いでも叶える、ってあれどういうこと?」

「文字通りの意味よ」

「そんなことできないじゃない?魔法使いかなにか?」

「それと似た何かよ」

「だったら、僕の鳥を取り戻してくれないか?」

「いいわ」

「本当にそんなことできるのか?」

「できる」

「信用できないな。君、人間だろ?アンドロイドだったら、こんな提案はおかしいよ」

「どうして?」

「人工知能は、決して新しい提案はしないからさ。彼らは人間から与えられた問題を解くだけだ。決して自分から問を立てたりしない。与えられた問を変えることもない。フレーム理論って知っているだろ?人工知能は与えられたフレームの中だけで思考する」

 彼女は少し考えた様子をしてから言った。

「じゃんけんをしましょう」

「は?」

「いいから、じゃんけんをしましょう」

彼女は強情だった。何度やっても、何度やっても勝てない。こんなことがあるだろうか。

「君はアンドロイドか。1/1000秒で僕の手の形を読んでいるのだろう?」

「あなたは私を人間と言ったわ。これでわからなくなったでしょう」

彼女は僕の目をまっすぐに見た。こんな透き通った正直な目をされたことはない。

「願いを叶えるには条件があるわ。私と一緒に鳥を探すこと。その間に私が人間か、アンドロイドかをあてること。私と一緒なら、あなたはあなたの鳥を見つけることができる。必ずね」

その言葉には強い力があった。そして僕にはもう策がなかった。彼女は僕の手を取った。手は暖かく、それが人間のぬくもりか、電気のぬくもりか、僕の知るすべは今のところなかった

コーヒーショップのテラスで作戦会議をしていると、一人の男が席に割り込んできた。僕はその顔を見てぎょっとした。昨日のあの若い政治家だった。

「やはり、昨日いたのはおまえだったんだな。」

彼は彼女に強く言った。

「あなたには関係ない。それに…」彼女はこちらの顔を見て言った。

「それに、私はこの人に連れ出されたのよ」

どうやら彼女は瞬時に嘘を付けるらしい。男はこちらを見て言った。

「おまえは誰だ」

「ただの高校生です。探し物をしているだけの」

「何を探している。こいつと何の関係がある?」

「ロボットの鳥です。あんたにも、この子にも関係ない」

彼はかっとなってこちらの胸倉をつかんだ。しかし、彼女はもっと怒っていた。彼女は僕の手を取ると男の脇をすり抜けて勢いよく走り出した。運よく信号をぎりぎりで渡り続け、でたらめな方向へ走っているように思えて、複雑な郊外の道を街の外へ外へと走って行った。やがて郊外の森の影の中へ入り込んだ。外を見たが、追ってくる人影はなかった。

「このあたり詳しいの?よく道を知っている」

「いいえ。ぎりぎりで信号を渡る経路を検索した」

いつ、そんなタイミングがあったかわからなかった。

「あの人は誰?喧嘩した恋人か何か?」

「いいえ。ただの幼馴染みよ」

「ごめん。深入りすべきではないよね」

「あの人は私を憎んでいる。私があの人が好きだった女性に似ているから」

なぜ、過去形なんだろう。

「鳥」

彼女が指差す高い木々の上には、たくさんの鳥たちが舞っていた。よく見ると、ここは半解放された植物園のはなれのようで、鳥たちは見えない天蓋から出ようともがいているのだった。

「僕の鳥はいない。僕の鳥はもっとわざとらしい青色をしているから」

「そう」彼女は立ち上がりながら言った。「あなた、あてはないのよね」

「ああ、ないよ」

「だったら、付き合って欲しい場所があるの」

僕は彼女の手に引かれるままにした。僕たちは午後の植物園の残照の中を抜けて行った。

目的に近づくに従って、彼女の足取りは悪くなった。そこは植物園を抜けた遊技場だった。僕たちはベンチに腰をかけて、ゆっくりと木と網で出来た巨大なアスレチックを見た。子供たちの声が天蓋の中に響き渡った。

「かつて一人の女の子がいた」彼女は話し出した。

「女の子はとても寂しがり屋で、お父さんとお母さんはいつも研究の仕事で忙しかった。お父さんは、アンドロイド研究の第一人者で、娘とそっくりのアンドロイドを作って、女の子の遊び相手として誕生日にプレゼントした。だから女の子とアンドロイドは同じ誕生日だった。女の子は喜んで、どこへ行くにも、お揃いの服、お揃いのバックをもって出かけた。知らない人からはいつも双子と間違われた。遊園地、デパート、レストラン、テーマパーク、お気に入りの公園、映画、彼女は自分の体験のすべてをそのアンドロイドと分かち合った。ある時までは」

「ある時まで?」

彼女はなにかを飲み込むように言った。

「その子は死んだ。事故で。私はそれ以来、街へ出るのが怖くなった。だから、もう7年も外に出ていなかった。私は毎日を自分の庭で過ごした。毎日、私はそこから外を見上げて過ごし続けたわ。もしあの子が生きていたら、どんな風に生きただろう、感じただろうって」

「でも、どうして、外へ出る気になったの?」

「ある日、一羽の鳥が庭に落ちて来た。その鳥は体を痛めていて、もうそれ以上、飛ぶことができなかった。やがて私の腕の中で動かなくなった。私はそれが偶然だとは思えなかった。鳥は外の世界から私を迎えに来た。私はこの鳥をかならず飼い主に返さなくちゃいけないと思った。それが私の使命だと思った。私はそれ以来、その鳥の飼い主を捜して、街を徘徊していた」

彼女はおもむろに鞄を開けて、両手で何か大きなものを取り出した。驚いたことにそれは僕の作った鳥ロボットだった。僕の全身はあらゆる力が抜けて膝を付いて崩れ落ちた。

「この一か月、僕は気が気でなかった。時々、誰かが血まみれで倒れている夢を見た。でも、君が持っていてくれた。ありがとう」僕は涙を流していた。

「鳥は私を再び、この世界に連れ出した。だからこの鳥は私の導き手でもあった。私はあなたを見つけた」

彼女はまっすぐに僕を見つめた。

「この広い街で、たった一人の飼い主を探すなんて、とうてい不可能だと思った。毎日、朝から晩まで街を歩き周った。そして、私はあなたを見つけた。あなたは、私と似ていた。へとへとになりながら、何かを必死に探していた。いつも上を向いて何かを探していた。そして、あの広場で、思いきって話しかけた」

「ありがとう」僕は彼女を見つめ返した。その眼はどこまでも深く透き通っているようだった。

「でも、どうして最初から鳥を返してくれなかったの。別に怒っているわけじゃないよ。」

「あなたが、この鳥のことをどう思っているか知りたかったの。この鳥も私と一緒だから」

「一緒?」

「私もアンドロイドだから」

僕は一瞬、息をとめた。アンドロイド?やはり、こんな人間らしいアンドロイドは見たことがない。「でも、君の手は暖かいし、こんな会話ができるアンドロイドなんて知らない」

「私は特別に作られた試作機だから。博士によって彼女とそっくりに作られた。だから、

 博士も、妹も私を憎んでいる」

「そんなことないんじゃない?」

彼女は立ち上がって僕を見下ろして行った。

「その人間の女の子はね、私をかばって死んだの。今はもう何もないあの空き地にね、とっても高い木があって、私たちは一緒に登った。私が足を踏み外して、あの子がかばって死んだの。バカでしょう?アンドロイドをかばって人間が死ぬなんて。私が死ねば良かった」

 僕は子供の頃、うっすらとそのニュースを読んだことを思い出した。それはこれまで僕に関係ない遠い過去の事件の一つに過ぎなかっが、今やはっきりとした形をもって僕の目前に立ち上がりつつあった。僕は返す言葉がみつからずに、彼女を見上げた。彼女は泣いているように見えたが涙はなかった。

「アンドイドに涙はないわ。さよなら。鳥は返した」

そういうと彼女は足早にこの場から走り去っていた。残された僕は茫然として鳥をつかんでいた。その手を動かすことは当分の間できなかった。ようやく僕はベンチに座り直し、彼女の連絡先を聴いていなかったことに激しく後悔した。鳥は僕の元に返って来た。本来はこれで万々歳だった。しかし、今や僕の心の中には、それと違う何かがひっかかっている。彼女のこと、彼女を探していた男のこと、ここで死んでしまった一人の少女のこと。僕はその事件のことを携帯で検索したが、その後、アンドロイドがどうなったかを示す記事はなかった。もう彼女とは会えないのだろうか。

「あのお」

気が付くと僕の目の前に中学生ぐらいの女の子が立っていた。黒いワンピースに白いレースの襟のついたお嬢様風の女の子だった。

「失礼ですが、姉とはどういう関係ですか?」

僕は驚いて何を聴かれているかわからなかった。

「姉って誰のこと?」

「さっきまでここで話していた人のことですよ」

「見ていたの?」

「あなたと姉が今日ルミノシティの広場にいる時から。姉の鞄にはGPSを付けてあります。すぐに見つけることができました。ところでもう姉とはもう関わらないでください」

「関わるも何も、さっき別れたところだよ。連絡先も知らない。

長い話になるけど、僕は彼女に預けていたものを返して貰っただけだ」

僕はひざの上の鳥を見せた。彼女は横に座ってそれをいろんな方向から見つめ続けた。

「家の庭に落ちて来たやつですね。姉はこの鳥をきれいに掃除して、いつも、自分の部屋に飾ってみつめていました。それ以来です。姉がへんになったのは」

「へん?」

「もともと姉は幼い頃に事故にあって以来、へんなのです。巻き込んでしまったから言いますが、姉は自分のことをアンドロイドだと思い込んでいるんです。昔、ここで父が作った姉そっくりのアンドロイドに命を救われてから」

「お姉さんがアンドロイドではないの?」

「はい。人間です。姉はこの7年間、事故のショックで外に出ることができなかったんです。外傷はもういいんです。心の問題です。さっき言ったように、姉は自分がアンドロイドで人間を殺したと思い込んでいるんです。私たちも心配だったから、姉を外に出さないように努力して来ました。ところが最近、私たちの目を盗んで外出するようになったんです。私はそれが心配で、今日はわざと逃がして何をしているかつけて来たのですが、それが、なんと、あなたとデートしているじゃありませんか!」

妹はこちらを強く睨んでいった。あの子と目が似ている。目に力がある。

「もう関わらないでください。結果として、姉を外に連れ出して頂いたことは感謝します。でも、姉はまだ人と話せる状態じゃないんです。少なくとも、自分をアンドロイドだと思い込んでいるうちは」

彼女はそう言うと、さっき姉が去って行ったように、その場を去ろうとした。でも、僕は今度こそ彼女の手を握って引き留めた。

「やめてください!」

彼女が甲高い声で叫んだが、幸い大事にはならなかった。

「ごめん。何もしない。だから落ち着いて聴いて。お願いがある。もう一度彼女に合わせてくれないか。あと一度でいい。話がしたい」

「何の話をするんです?」

「彼女の心の話だよ。おそらく、僕にしか言えないことがある」

「会ったばかりの人に?」

「そうだ」僕は真剣だった。

「頼む」

「わかりました。でも、外は駄目です。家まで来て頂けますか?少し遠いですけど、

 ルミノシティの反対側にあります。あの政治家もまだ姉をつけまわしていますし」

「あの男は誰なんだい?」

「姉の親友だった男です。幼い頃、少し年上の彼は姉のことが好きだったんでしょう。

 でも、姉があんな状態ですから、彼は姉がアンドロイドだと信じています」

「彼はそのせいで、ずっとアンドロイドを憎んでいるよ」

「そうでしょう。彼は矛盾しているのです。姉のことが好きだから、姉の言うことを信じて、姉をアンドロイドだと憎んでいる」

僕たちは植物園の出口から、ルミノシティの東にあるビルまで歩いた。それは「北川ロボット研究所」と書いてあった。「キタガワ」と言えば、知らない人はいないアンドロイドの高級ブランドだ。

「君、キタガワの人だったんだね」

「そうよ。言わなかった?」

「言わなかった」

厳重なセキュリティ・ゲートを通り、ビルを抜けると、そこには大きな日本風の庭園が広がっていた。中央には小さな川が流れていて、所々に大きな観賞用の岩が並べられていた。松が庭全体を囲んでいて、外から見えないようになっていた。川に渡した橋のたもとに大きな傘と椅子があって、彼女はそこに座っていた。

「二人きりで話をさせてくれないか?」僕は妹を見て言った。

「5分だけよ。済んだらすぐ出て行ってね」

「わかった」

僕はゆっくりと彼女の側に歩いて行った。

 「やあ」

そういうと、彼女は驚いてこちらを見た。

「妹さんに案内して貰った。安心して。5分だけの約束だから。5分経ったら、出て行く」

彼女はうつむいた。

「あの子は何と言っていました?聴いたでしょう。私は私がアンドロイドだと思い込んでいる人間だと。妹にはね、私が本物の人間であるということにしているの。お姉さんがアンドロイドをかばって死んだなんて言えないから。そういうことにしているの。」

「そうだね。僕はそれを確かめに来た。どちらが本当のことを言っているのか」

「本当のこと?」

「君が人間なのか、アンドロイドなのか」

僕は彼女の手を取った。あたたかい。これはアンドロイドのぬくもりではない。

「君は自分のことをアンドロイドだと言った。確かに、僕とじゃんけんで全勝したり、

 複雑な経路を瞬時に割り出したり、作家の年代を引用したり、

とても人間とは思えない。でも、君の仕草、君の言葉の抑揚、君の伝わって来る感情は間違いなく人間のものだ。だから、僕は一つの仮説を立てた」

僕は彼女の顔を両手で掬って見つめ合う。

「こら!」

向こうで妹の声がしてこちらに駆けて来る。時間がない。

「いるんだろう?そこに。アンドロイドの頼子が」

「え…あ…」

彼女は硬直したまま動かない。そして、がっくりと力を落として、うなだれた。

「ちょっと、あんた、何をしたのよ!」

「大事なことなんだ。おそらく、北川博士は君にも、お姉さんにも、嘘をついている」

沈黙が走る。それを遮ったのは頼子の言葉だった。

「そうよ。私はアンドロイド。今、お父さんを呼んだわ」

彼女の声は先ほどと違う。妹も驚いたまま、立ち尽くしている。

「7年前、私たちはあの公園でお互いを半分ずつ失った。大けがをして、私もこの子ももう助からなかった。どうしようもない脳の損傷の一部があった。そこでお父様は、あの時、この子の頭脳の一部を私で差し替えて、人体の機能を復活させた。私のボディは破棄されたけれど、私はこうしてニューラル・ブレインのチップの形で、この子の脳の中で生き続けている」

「君は人間であり、アンドロイドなんだ。それが僕の出した結論だ」

「そうよ。この体は人間だけど、頭脳は人間の脳と機械で出来ている。でも、自我は一つでなければならない。だから意識は常に、人間の頼子のもとにある。だから私は彼女が必要な時に能力を提供して彼女を守る。彼女の脳は私を自分の一部だと思っている。それでいい。そうでなければ精神が安定しない。でも私はいつでも頼子を見つめているわ」

「あんたは狂っているのよ。お姉様の思い込みに、巻き込まれて」

「違うよ。お姉さんもアンドロイドも確かにここにいるんだよ」

「違うわ。こんなのお姉さまはじゃないわ。私のお姉さまを返してよ!」

「ごめんね。お姉さんは、外傷は治っても、まだ心に深い傷を背負っているの。

 自分をアンドロイドだと思い込むことで、失った私に償いをしているのよ」

「その思い込みはもう治らないの?」泣きながら妹は言った。

「とても精神的なもの。でも、あなたの鳥がこの子を外へ連れ出してくれた。

 だから可能性がある。鳥がこの子を外へ連れ出したように、

この子の心の中で引きこもっている心を、あなたらなら連れ出せるかもしれない」

「僕が…」

「あなたが、その鳥をもう一度ここに連れて来てくれた。時間はかかるかもしれないけど、

 私の記憶から、この子が人間であった過去を少しずつ私が作り続ける。あなたは彼女を街へ連れ出して、この子の思い出の場所をめぐって行く。記憶が、この子が人間であった足場を作って行く。そして、ゆっくりと彼女を深い悲しみの淵から現実へ引き戻す。いいわね。そして、私はこの子の頭脳の一部となって生き続ける。私はもうあなたたちの前へ現れない。でも、私はいつでもここにいるわ。さようなら」

そういうと、彼女は再び意識を失って崩れ落ちた。

「眠らせた方がいい」

後ろで声がした。北川博士だった。何度かネットで見たことがある有名人だ。

「お父さん」

博士はゆっくりと妹を抱いた。

「ごめんな。本当のことをもっと早く言わないといけなかった。でも、私自身さえ、この問題を自分の中で消化できなかった。この子は一度、記憶の大半を失った。この子の記憶の一部は今でもアンドロイドのものなんだ。自我が安定するまで、おそらくもっと時間がかかる。でもゆっくりとアンドロイドが記憶を作ってくれている。君には迷惑をかけるかもしれない」

「いいえ。僕にできることは、何でもさせてください。なぜなら」

「なぜなら?」

「僕は彼女に惚れてしまったからですよ」

博士は微妙な表情で笑った。妹は僕を思いっきり蹴とばした。僕たちは笑いながら、彼女を寝室へと運んであげた。両手にしっかりとロボットの鳥を持たせて。

 

僕はそれから足しげく北川研究所へ通った。彼女は次第に幼い頃の記憶を取り戻して行った。それがたとえ偽物の記憶であっても、彼女とアンドロイドは双子のように育ったのだ。その記憶に何の違いがあるだろう。そして、彼女は彼女であると同時にアンドロイドでもあるのだから。

 ある時、例の政治家が研究所の前に立っていた。

「熱心なことだな。アンドロイド風情に」

「あんたには関係のないことだ」

「俺はな、いつか世界中のアンドロイドを駆逐してやる。人間の奴隷にしてやる」

そう言うと、睨みつけるように去って行った。彼には本当のことを言うには時間がかかる。僕はゆっくりと研究所のゲートを通り、庭園の彼女に会いに行く。彼女と僕の鳥ロボットの周りには、いつしか鳥たちが集まるようになった。鳥たちはやがて、彼女をゆっくりと引き上げるのだ。記憶の湖の底から、この地上へと。

(おわり)

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