小説「最果ての森」


月が出ている。高く明るい月だ。私は月明かりの照らす真っ白な道を森の中へ運ばれる。ふさふさとした二本の手が私の体を抱いている。暖かい、不安がない、風が気持ち良い。白い毛が揺れては私に触れる。ずんぐりとした足で歩いている。長いひげと、湿った鼻と、体を包む白い毛並が歩くたびに揺れて、見ているだけで私の胸をワクワクさせる。目は赤く大きく砕けた水晶のように深い。でも言葉は太く優しい。「大丈夫だよ。」ウサギは言う。大きなウサギ。本物のウサギとは大分違う。頭が大きい、二頭身の二本足で大地を歩いている。二本足で歩くから、私を抱くことができる。

ウサギはこの世界にいた。始めから。ウサギはこの世界に私が来た時から、私をずっと見守ってくれた。私はある日目覚めると森の中にいた。ずっと子供の頃だ。月が煌煌と輝いていた。月が私か、私が月かわからぬほど、ただ茫然と月を眺めていた。私は自分が誰か、どうしてここに来たか、まるで思い出せなかった。やがて私の体が白いふさふさしたものに抱かれているのを感じた。見上げると、二つの赤く大きな目が私を優しく覗き込んでいた。そこには二つの月と、黒く儚げな夜の森が映っていた。それが始まり。この世界での私の記憶の。あれから太陽が三千を巡り、季節が四十を巡り、私は成長し、森を貫く大きな道をウサギと並んで歩いている。この世界に別れをつげるために。

                   *

森は高いモミの木で覆われている。地上は堅い灌木で覆われて、太い腕のように木々の根が大地を抱いているおかげで、どんな坂道もまるで階段のように歩くことができる。根はこの森の根底の秩序を形成していて、その秩序に沿って森道も形成される。森の中央には広場があり、そこだけ空がぽっかり開けている。開けた空に沿って若々しい低い木々たちが広場を囲んでいる。

私がこの森に来た初めの一か月はウサギ以外の誰とも会わなかった。私の小屋はモミの木の上に建てられた。怖くて小屋から出ようとしなかった私に、ウサギが薬草のスープを毎日、毎晩作ってくれた。ここでは動物を殺すことはできない。だから私はずっと森の中の薬草やハーブに詳しくなった。それを食べていると体から毒気が抜けて体が軽くなった。私はそんな薬草やハーブの知識、そしてそれを効率良く栽培させる方法をウサギから学んだ。ウサギは私に寄り添うが、決して何かを指図をしようとしなかった。ただ、危ない崖や棘のある植物からは、あらかじめ注意して私を守ってくれた、

私はある晩一番深い時間に、この小屋から出てみようと思った。その夜は月が明るかったし、私は自分自身を変える必要を強く感じていた。おそるおそる扉を開くと、モミの枝の上の小屋からは森の上層が広がっているのが見えた。それは緑の海のようだった。月の明かりが葉の一枚一枚を透き通らせ、木々を渡る風が白く輝く波を作った。私は風が織り成す葉のダンスに見とれながら、枝を渡って幹まで辿り着き、そっと地上へ降りて行った。真夜中の森の内奥は静けさと冷気に満ちていた。私は背筋を伸ばし、深呼吸をして、耳を澄ませた。何も聴こえなかった。背を幹にもたれさせ、座りこむと、背中がひどくひんやりした。小一時間何も起こらなかった。葉の隙間から漏れる月の光が地上に模様を作った。その紋様を風が変化させるのをじっと見ていた。何かを期待してここに来たけれど、何も起こらないことに安堵を覚えて、やがて私は小屋に戻って眠ることに決めた。しかし幹に足をかけた瞬間、暗闇の向こうからざくっ、ざくっという足音が夜の闇を伝わって来た。私は目を凝らし、何が来るかを見定めようとした。それは深い毛で覆われたイノシシだった。やはりイノシシも二本足で立ち、こちらを見定めている。「私は森の番人だ。ここで何をしている。」その声は優しかった。「眠りなさい。夜は深くものを思う時間。遊びたければ明日にしなさい。」私は幹を登り寝床に入った。あくる日、私は森でイノシシを見つけた。彼は昼間も森を見回っていた。私は彼と友達になり森の様々な場所を教えて貰った。そしてライオンやサイ、リス、アライグマにヒョウ、キリン、テン、キツネたちを私に紹介してくれた。彼らはやはり一匹ずつしかおらず、そして、同じように二本足で立っていて、ずんぐりむっくりだった。彼らは同じように優しく、同じように面白い話ができ、私が困る前に危険を悟って助けてくれた。私は彼らのおかげで、どこにいても楽しくお喋りをして過ごすことができた。

森には果てがある。この森はそれほど広い森でないことを、私は数年をかけて学んだ。森は「果て」に連れて暗くなる。モミの木は巨大なセコイアの木々に変わり、やがて完全に道を塞いでしまう。セコイアの周りには堅い枝で築かれた灌木が茂っていて行く者を閉ざしている。その先には闇があるだけだ。どの方向に歩いても「果て」に連れて森は暗くなる。太い幹と枝が空を覆い灌木が道を塞いでしまう。中央の広場から森の果てまで、歩いてちょうど一日、測ったようにちょうどだ。つまりこの森は巨大な円形をしている。私はこの遊ぶには十分な広さがある世界、生きるにはやや狭い世界のことを深く愛していた。夜には星が輝き、流れ星が毎日のように見えた。昼には風がそよぎ、私は動物たちと鬼ごっこやチェスや、お話をして遊んだ。動物たちは面白いお話をたくさん知っていて、私に毎日、新しいおとぎ話をしてくれた。動物たちが同じ話を二度することはなかった。お話は常に新鮮だった。

やがて、この世界にはたくさんの子供たちが現れた。子供たちは決まったように、月の高い晩に現れた。それはちょうど三百日毎だった。私の時と同じように、3~4歳ぐらいの子供を一人ずつ動物たちが抱えて連れて来るのだった。新しい子供が来る度に、新しい小屋が作られた。イノシシが巧みに倒木を組み合わせて小屋を作った。小屋は地上に作られることもあったし、私の時のようにモミの木の枝の上に作られることもあった。そして、一つの小屋は、他の小屋から見えないよう遠くに作られるのが常だった。その場所は決まっているようだった。だから、どんな子供も近所ということはなく、お互いになんとなく親しくなれなかった。やがて私が14歳になる時、11人目の子供が森に住むことになった。その子供が私がここで出会う最後の人間となった。名前はメアリと言った。ブロンドの髪が美しい女の子で、私の黒い髪と対をなして日の光に輝いていた。メアリは寂びしんぼうでいつも私と一緒にいたけど、決して他の子たちと話そうとしなかった。スカートをつかんで、いつも私の影に隠れては、世界をじっと眺めていた。この森ではあまり子供同士が遊ぶことがなかったから、いつも誰かの動物が、子供たち付いて遊んでいた。今ならわかるけれど、あれは遊んでたいたのではなく、動物たちは子供たちを護っていたのだ。いつも周囲に目を向けて、子供たちが危険な場所に行かないように見守っていた。特に空にはいつも気を配っていた。この平和な森で何か危険があるとしたら、それは無防備な空からやって来るに違いないとでも言うように。

ある日、メアリが高熱を出した。うんうんとなされて、倒れ込むように森の脇道に座り込んでいた。ウサギと私はメアリを抱いて彼女の小屋に戻ってベッドに寝かした。ウサギは赤い眼でのぞき込むと外に出てずっと黙っていた。すると次々に動物たちが集まって来た。ウサギがメアリを抱くと、小屋の外に連れ出して、そのまま夜の闇に走って消えて行った。私は茫然と一人メアリの部屋に残されたが、ふいにメアリの着替えを抱えて、彼らのあとをつけて行くことにした。普段よりずっと早い速度で走って行った彼らは、広場の近くにある岩場の壁面に集まっていた。ウサギが手をかざすと、それまで岩場だった所に扉が開いてぱっと光が溢れたかと思うと全員その中に入って行った。私は驚き、しかし思いきってその扉に飛び込んだ。あまりにも勢い良く飛び込んだので、私は中にいたサイの背中に勢いよく激突することになった。「なんてこと…」ウサギは言った。部屋の中は見たこともない四角い部屋だった。壁が明るくて、部屋の中は昼のように照らされていた。その部屋にはたくさんの複雑な金属製の装置があって壁や天井に固定されていた。ウサギは私の手を取って隣の部屋に連れて行った。そこで待っているように柔らかいソファに座らされた。ウサギは目の前に座って私に話しかけた。「あの子の足にはね、これぐらいの金属片が埋まっている(ウサギは指でその大きさを示した)。それはきっとここに来る前に怪我をした時のものだ。それはあの子の足の中で静かに眠っていたけれど、あの子の体はどんどん成長して、ついに折り合いがつかなくなった。だから熱を出した。僕たちはあの子の足からなるべく早く金属片を取り除かないといけない。今隣でそのための手術をしている。」私は目に涙を感じた。「大丈夫、機械が痛みなく金属片を取り除くから、小一時間で終わるだろう。ここで待とうね。僕もいるから。」そう言って、ウサギは私の手を握ってくれた。暖かかった。私は黙って何度もうなずいた。私はぼんやり、扉の隙間から漏れて来る光をみつめながら開くのを待った。

メアリは翌日から一週間ほど眠っていたが、その後は日が経つに連れ、どんどん良くなって行った。私はその間、何度もあの壁面に行っては、あの扉が開くのを確かめようとした。しかし、岩にはどんな裂け目もなかった。見たこともない四角い部屋、機械、夜の中で光る壁、私が知らないことがあの部屋にはある。この世界にはある。私の謎を解く鍵が、あの部屋にはある。ウサギには聞けなかった。ウサギも何も言わなかった。ウサギが一体何者なのか、あの子たちはどこから来たのか、自分が何も知らないことに今更ながら驚いた。そして何より、今までそういったことに何一つ疑問を頂くことがなかった自分に驚いた。私はここに来て幾千日も重ねようとしているのに、私がどこから来たのかさえ何も疑うことはなかったのだ。私は眠っているメアリの横顔を見ながら、その傷跡のことを思った。それはこの世界ではない暴力であり、彼女自身にさえ覚えのないことだったのだ。私たちはどこから来たんだろう。森の向こうには何があるのだろう。いつか確かめなくてはならない。でもそれは、今すぐでなくても良いかもしれない。

ある時、すごく長い雨が降った。普段なら外にいても、動物たちが傘を持って来てくれるだけで、注意されることはないけれど、今回は違った。ウサギたちは土手に集まって、土に手をかざしてじっとしていた。やがて、動物たちはそれぞれの子供を見つけると部屋に連れて行って、入念に体を洗うと、そのまま寝かせたのだった。私もウサギに連れられて小屋に戻った。ウサギは私の体を洗いながら言った。「いいね。この雨には決して当たってはいけない。もし万が一当たった時には、念入りに水に流して拭くんだよ。雨が止んでも僕が言うまで外に出てはいけない。」私は窓の外を見た。黒くどんよりとした雲が森を覆っていた。雲の色は確かに今までに見たことのない不気味な色をしている。遠い世界から来た雲が、この世界に異変を与え始めているのだ。まぶたを閉じると、私は果てしない眠りの森に落ちて行った。自分がどこにいるのか、わからなくなった。私には別の帰る場所があるのだろうか。この森の向こうには何があるのだろうか。私は夢の中で、本来つながるはずのないものをつなげようとする夢を見た。まるで、星と大地を無理やり結ぼうとするように、どんなに何かを結ぼうとしても決して届かない夢を見た。あくる朝、たくさんの植物が枯れていた。モミの木の幹も酷く痛んでいた。私はそれから一ヶ月もの間、小屋に閉じ込められ、ウサギたちは薬のようなものを撒きながら、地上を歩いて森を修復していた。

やがて回復したメアリは以前のように森を歩き回った。しかし昔のように私と一緒に歩くことはなかった。サイと一緒に歩いた。私はサイにメアリの体調のことを聴いた。サイはメアリは治療の後、とても物静かな少女になったと言った。私はサイにメアリと二人で話したいと言ったが、それは駄目だと言われた。よく考えると、この森では人が人と二人きりでいることはできなかった。常に他の動物たちが隣にいる。私たちは監視されているのだ。私はどうしてもメアリと二人きりで話したかった。だから誰もが寝静まった真夜中に、私は小屋から抜け出してメアリの小屋に行った。メアリの小屋は小高い丘の上にあったから、どうしたって見つかるかもしれない。私はあらかじめ昼間にくぼんだ道をみつけておいてそこを這うように進んでいった。丘の周りには誰かがいる気配がした。おそらくイノシシが見回っているのだろう。私はメアリの小屋の窓を叩いた。反応はなかった。何度か叩くと、「誰?」と声がして「わたし」と答えた。「何?」「話がしたい。」「こんな真夜中に?」「昼間は動物たちがいる。今二人で話したい。」そういうとメアリは窓から私を小屋の中に入れてくれた。

私はメアリの眼を覗き込んだ「あなたが熱を出して倒れた日、あなたは崖の奥の部屋に運ばれて行った?あそこで何がったの?あの日以来、あなたは私を遠ざけるようになった。私はその理由を聞きたい。責めているじゃない。」「部屋のことは覚えていない。ぼんやりと灯りがあったのを覚えている。」「わかった。それはいい。でも、あなたは私を避けている。」メアリは伏し目がちに言った。「うん。」「どうして?あなたの怪我と、私が何か関係があるの?」「ううん、そうじゃない。私、思い出してしまったの。この世界に来る前のことを。」

「私たちの村は虚無に囲まれていた。虚無は毎日、無差別に私たちの誰か一人をさらって喰らっていった。私たちは何と戦っているのかさえ、わらかなかった。ただ世界を黒い雲が囲っていた。日の光は届くことはなく、大地は衰え、誰もがひもじかった。私たちの攻撃はすべて闇に飲み込まれ、吐き出され、地上を焼いた。私の足の傷も、そんな爆発に巻き込まれた時のものよ。私と母は争いを避けて神殿へ逃げて行った。神殿には最も月の満ちる日に子供を神殿の特別な部屋に残しておくと、神隠しに合うという言い伝えがあった。虚無はもう私たちの真近まで来ていた。だから母は最期の望みを託して私を神殿に連れて行き部屋に残した。私はその部屋の中で長い間、寂しさに母を求めて泣き叫びながら、次第に記憶を無くして行った。忘れてはいけない何か、私が戦わなければならない、何もかもを忘れた。」

「気が付くと、ここにいた。そして、あの日、あの足の痛みが私を苦しめるまで、そのことをすっかりと忘れていた。」メアリはそっと私に近づきベッドの上で強く私を抱きしめた。「私たちはいずれ、この世界を出て行かなければならない。向こうの世界ではたくさんの人が戦い苦しんでいて、私たちはここで楽しく毎日を暮している。そんなことはずっと許されることじゃない。私たちはいずれ、元いた場所に戻らなくてはいけない。私は、このことをあなたに黙っている勇気がなかったの。だから遠ざけた。ごめんなさい。」メアリは私を強く抱きしめた。私の全身がメアリの心に貫かれるのを感じた。私は彼女の髪を撫でながら言った。「ありがとう。メアリ。でもね、私、なんとなくわかってた。私はこの世界で最初の一人だった。ウサギたちが、私たちをお客のように迎えてくれた。森は私たちを護っていた。私は本当にこの世界のお客さんだった。客はいずれ客席を去らなくてはいけないわ。私は、きっとあなたより先にこの世界を出て行くことになる。外の世界は、あなたの言うように、きっとろくなものではないでしょう。どうしてそうなったのか、何が起きてしまったのか、何を今から起こそうとしているのか、私にはまるでわからない。私には何かを選ぶ余裕すらないかもしれない。覚えている?あの雨の日、黒い雲がやって来て、この森を滅茶苦茶にした。植物は枯れ、樹の幹さえぼろぼろになった。それを必至に修復したのは、動物たちだった。私たちは小屋に閉じ込められ、何もすることができなかった。私たちは無力で、ただの傍観者で、守られる存在だった。」

「私はこの世界でずっと幸福だった。世界は優しくて、動物たちはいつも私を護ってくれた。だから、私は勇気と力を持てる。この世界が与えてくれた思い出が胸にある。世界の中でこんなに素晴らしい世界があることは私の希望。森は美しく、動物たちは優しく、どこにいても安心で、どこにいても楽しませてくれる。ここに来た子供はみんなたくさんの心や体に傷を抱えている。この森はそっとその傷を癒して変わりに楽しい思い出に変えてくれる、でもね、メアリ、あなたは思い出してしまった。私は知ってしまった。その真実は私が長い間知りたいと思っていたことだった。だから、もう一人で苦しまなくていい。」私はメアリを優しく抱きしめた。パジャマの向こうからメアリの香りとぬくもりが伝わって来た。私たちは心臓の音を伝え合うほどぴったりと寄り添って一つになった。こんな夜はもう二度と来ないだろう。私はそう感じた。そして、こうやって抱き合ったことを私はずっとずっと覚えているだろう。私の人生で、これはきっと大きな事件で、メアリにとってもやはりそうなるだろう。この一瞬一瞬が永遠だ。この一瞬一瞬が私たちを変えて行く。私は泣いた。涙がどこから来るのかわからなかった。その涙はこの世界と向こう側の世界を貫く河となって流れ続けた。時間と空間を貫く河だった。私たちは横たわり、そのまま眠りについた。お互いの手を強く握りしめながら。

 *

私はウサギと一緒に歩いていた。大きな道を出口に向かって。「とうとうこの日が来たのね。」私はウサギに言った。「そうだ。君はこの世界を出て行く。どんなことを聴いてもいい。そして聴かなくてもいい。いずれにしろ、君はすべてを知ることになる。」

「そうね。」私は空を見つめて深呼吸をしながら言った。「どこかで座って話してもいいかしら。」ウサギはうなずいた。私たちは広場の芝生に座ってお互いを見つめ合った。ウサギの眼は優しく赤く深かった。「私はあなたの口から聞きたいわ。この世界の真実をね。そして、あなた自身が誰なのかも。」ウサギは語りだした。

「ここはもともと大きなテーマパークだった。テーマパークというのは子供たちに人気のあるキャラクターたちと大きな遊具を集めた豪華な遊び場のことだ。僕たちは子供たちに人気のキャラクターだった。いや、違う、正確には、人気キャラクターを演じる人工知能だった。」

「君も医務室でたくさんの機械を見ただろう?僕たちはあの機械が進化したものだ。機械に宿る頭脳、それが人工知能だよ。もっとも僕たちは既に金属ではなく、君たちと同じ生体分子で組み立てられているから、より生物に近い知能ということになるね。それでも、本物の知性とは程遠く、人間によって作られた知性だ。僕たちの使命は、このパークを守ること、そして、たくさんの子供たちを楽しませることだった。決して怪我をさせないように、決して退屈させないように、パークが常に一定の形であるように、僕たちはプログラムされていた。それが僕たちの使命だった。パークでは年に何度か、お泊りイベントがあって、パーク内に即席の小屋を建てて子供たちに過ごしてもらった。もちろん、安全なように当時もイノシシが見守りをしていた。子供たちはパークの中で幸せそうだった。僕たちもまた幸せだった。」

「幸せ?」

「もちろん。君も僕たちを幸せにしてくれた。君たちの感情とは少し違うかもしれないが、僕たちには使命があり、それを果たすことが、僕たちの幸せだよ。そして、それが果たされない時は必至で考えて行動する。予測できない時に何をするかは、僕たち自身の判断に委ねられているからね。僕たちはずっとパークを見守り、臨機応変に対処して来た。」

「でもね、パークの世界の外では、異変が起こり始めた。どこからか来た虚無が君たちの世界を蝕み始めた。虚無というのは人間が付けた名前で見かけは黒い雲のようなものだ。捉えどころがなく、どこにも入り込み、どこまでも広がって行く。世界は序々に浸食され、飲み込まれ秩序を失って行った。地球は削られ、かじられたリンゴのようになった。虚無は太り、毎日、世界と人間を喰らっていった。人々は疲弊し、人間同士も限られた資源を求めて争い合う暗い時代になった。子供たちに娯楽はなく、大人たちには余裕がなく、楽しい子供時代を過ごすこともできなくなった。僕たちのパークはね、そんな時、失われて行く世界の中で、ある博士によって、時空ごと切り離されることになった。パークを守るためにね。そして僕たち人工知能はこのテーマパークを人間から託された。」

「当時は避難所にしようとする案もあったけど、君も知る通り、このパークはそんなに広くないからね。それよりも、子供たちを守り、一定の大人になるまで育て上げることが役割とされた。戦士をつくるためじゃない。子供たちに幸せな思い出を作るために残されたんだ。」

「君たちは向こうの世界で生まれた。ひどい場合には、そんなに長く生きられない。苦しい生活を強いられた上に、たくさんのトラウマを抱えて大人になる。大人になった途端、わけのわからないものと戦うことになる。だから君たちの親は、この世界に子供たちを送り込んだ。もう二度と会えないことがわかっていても、せめて自分の子供に幸せな子供時代の思い出を作ってあげたかった。だから君たちのそれまでの記憶は、このパークの入口で消去され、また帰る時に返却される。僕たちの役割は、その合間にリラックスした楽しい時間と優しい思い出を作り上げることだ。君たちの中でやがてその思い出がコアになるように。君たちの世界にはもう森なんてなく、汚れた砂漠のような土地しかない。大気は汚染され、水はすべて淀んでいる。そんな世界で育ってしまったら、それをあたりまえだと思ってしまう。君は感じただろう、この世界で、澄み渡る青空の美しさや、モミの森を渡る風の清々しさや、秋の夜の虫の音の大合唱の荘厳さや、蓮の池の美しさ、たくさんの面白い童話のワクワク感や、朝を待ち遠しく思う布団の香りや、人間同士が抱き合う優しいぬくもりを。僕たちはね、そういうことを人間に忘れてほしくない。人間がどんなに争い合うようになっても、そんな一瞬一瞬の喜びを忘れなければ、きっと良い時代が戻って来ると信じている。そうなったら、このパークはもう一度、すべての人間に開かれることになる。ねえ、君はこの世界のことをずいぶんと知りたがっていた。君は僕に言われることもなく、ずいぶんと真実を知ってしまった。だからね、僕は君がこの世界で本当に楽しめたかどうか、心配なんだ。」

二つの赤い眼が私を覗き込んだ。その瞳に初めて不安があった。私は笑った。

「私はずいぶんと幸せだったわ。あなたのおかげで。あなたの温かいぬくもりに守られて、この世界に来た時から、ずっと。あなたが毎日、私にたくさんの話を聴かせてくれたから、私を危険から遠ざけて守ってくれたから、私が感じたこと、思ったことをずいぶんと聴いてくれたから、毎日が楽しかった。」

「でもね。私はそんな溢れ返る喜びを誰かを分かち合いたかった。最初はそれが誰なのか、まるでわからなかった。でもね、ようやく私にはわかったの。それは、この世界の内側にいる人じゃない。この世界の外で苦しんでいる人たちなんだって。私が幸せを得たのは、その人たちに分け与えるためなんだって。だから、私はこの世界の外に出て行くわ。この世界の外に出たら、次の日には死んでいるかもしれない。でもね。ここにはメアリや他の子供たちがいる。あなたたちは、この世界で、あの子たちに世界の本当の息吹を与え、大切な時間を与えている。それが私の希望よ。私が潰えても、くり返しこの世界から、新しい希望が放たれるでしょう。ウサギ、ありがとう。あなたは良くやっているわ。私はあなたを誇りに思う。」

そう言うと、ウサギは本当に嬉しそうに笑った。それから私たちは、森の果てまで手をつないで歩いて行った。セコイアの木はもう見えなくなっていて、大きな道は森の果てを貫いて、本物の世界につながっていた。ウサギはいつの間にか消えていた。私は振り返ることができなかった。私には振り返る強さはなく、とどめなく涙が流れたまま、そっと目の前の扉を開けた。

(完)


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