変化できるもの/変化できぬもの。

ゲームには、変化できるデータと、変化出来ない固定のデータがある。

どちらもゲームに必要である。

たとえばレベルを見ても、背景や地形のように変化しないもの、

風に揺れる草やギミックや、破壊可能なオブジェクトのように変化できるもの。

たいせつなのは、この比で、 変化できるもの/ 変化できないもの、の比があまりに小さくなると、ユーザーは受け取った情報量のうちのほんの一部しか使わなくなる。

ところが、ユーザーの知能が積極的に循環するデータとは行動に必要なデータであり、ゲーム側が大量な情報を送っているにもかかわらず、それ以外のデータはそぎおとされて、ユーザーがインタラクションによって主観的に捉える世界は、大量のデータを準備しながらも、小さな世界になっている。

ユーザーからすると、大きなデータ、大きな世界があるのに、そこに小さな世界しか捉えられないというのは、なにか気持ちが悪い。もったいない。ものすごい大きな料理があるのに、一部しか食べられない、みたいな感じだ。

知能は、与えられた情報の中から、何ができるか、というアフォーダンスを無意識に引き出す作業をあらゆる瞬間に行っている。それが大量のデータから僅かしか得られなければ、やはり気持ちが重くなる。逆に、いろいろなことができる、と見えた瞬間は気持ちがよい。ボードゲームでゲームの本質を理解した瞬間のように。

例えば、ものすごく大きなマップの中で、動く宝石をつかまえて来い、と言われた場合、最初はいろいろなものを見るが、やがて、プレイに必要なデータだけを選択できるようになる。ほとんどの風景は見なくなってしまうだろう。つねにそぎ落としてしまう大量のデータは、処理しない情報が増えるほど、ユーザーにはストレスになる。死んだデータはゲームを重たくしてしまう。

携帯電話のゲームでは逆に、小さなマップの中で壊せたり変化のあるデータの比率が高くなる。だから生き生き見えてしまうし、処理するデータも小さければ、そぎ落とすデータも少ないので軽く感じられる。おちものパズルゲームなどは、レベル全体が必要なデータだから、シンプルなグラフィックにもかかわらず没入感が高い。またボードゲームはプレイに必要な情報以外はほとんどない、ミニマルなデザインであるからこそ、デジタルゲーム開発者には新鮮に映る。逆に、どんなハイグラフィックのゲームでもプレイに関係がなければ、やがてそれらは見えなくなってしまう。

現代の大型ゲームが陥ってしまうのは、本来ユーザーから見た場合は、すべての情報には意味があるはずのものが、そうでないデータが増えすぎてしまったことだ。それはリアリティを出すために飾ってあるのだ、というデータも逆にリアリティのダンスからそぎ落とされてしまう。それは逆にゲームプレイのリアリティではないリアリティなのだ。

本来どちらも必要なデータのはずであり、それによって素晴らしい世界がゲーム内で作られる。問題は、その比なのだ。

例えば、アニメーションでも、画面の中で、どれだけの対象を動かすのか、というのが、一つの指標としてあるだろう。もちろん、やみくもに動かせば良いというわけではないが、宮崎アニメなどでは、この比がとても大きい。逆に、動かすものを限定すると、そこにユーザーの視点を集められるが、他の部分は見られなくなってしまう。この比をアニメーションの場合は意識的にコントロールできるが、ゲームの場合、必ずしも、そうではない。

この問題はますます大きな問題となって行くだろう。

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