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#010_〇〇をしている方が有意義、というものはありますか?

こんにちは。 音楽以外でもいいとのことだったので、相談させていただきます。 ほとんどのことを合理的に考え過ぎて、 最近琴線に触れるという感覚になる頻度が落ちてきています。 人間関係にも言えて、なかでも恋愛的な意味で人を好きになる、 ということが数年ありません。 それをやるくらいなら○○をしているほうが有意義、 と考えてしまうことが増えてしまいました。

宮内さんにもしそういうときがあるとしたら、 どんなことをしますか? わたしとしては感覚的に生きていたいとは思うのですが、 なかなかそうもいかないなあというのが現状です。

合理的じゃないことにも色々いいことがあると思う。どちらも必要かな。

どうも、おじさんです。僕も油断するとデフォルトで合理的、効率的に考えようとしちゃうところがあるかも。

僕の場合は「〇〇をしているほうが有意義」は音楽の活動かなあ。仕事もそうだけど、自分の作品作りとか、新しい活動のアイデアを考えたりだとか、諸々。数年前まではそれ以外の時間はもったいないなんて思ってたりして。少しは緩くなったけど、そんな風についつい考えてしまうことはあり、たまに家でもそれが叶わずイライラしてしまったりして、家族に迷惑かけたりしちゃってます。お父さん反省。

ただ考え方が少しずつ変わってきてるような。特に作曲や表現に関しては合理的、効率的な考え方って、面白い発想はなかなか生まれないなというのはここ最近よく感じていて。単純作業はある程度合理的な思考は必要だと思うけど、何か新しいものを生み出す時には、合理性で考えてしまうと色々なチャンスを失ってしまう気がする。想像もしなかった奇跡は起きなくなるというか。100点を目指す、到達することはできても、100点を超えるようなことはあんまりないような。

今、文章を書きながらなんとなく思うのは、合理的に考えることって努力しているようで一方で一番楽な方法なのかもしれないと思う。あんまり複合的な考え方じゃなくて、実はすごく単一的な。世の中も便利になってきて、合理的な方向にどんどん進んできていて、便利だなと思う反面、あんまり主体的に考えなくなったりしてきているかも。頭を使っているようで、結果としてはその本質であったり、本来の目的だったりについては考えない方向へ持っていってるような。

単純に楽だから、それも幸せの一つなのかもしれないけど、そればかりでは不安に感じてしまうかなあ。なんか誰かに、何かにコントロールされているようで。自分がやらなくても誰かが(機械が)できることなのかなあとも思う。

合理的な世界の中では琴線に触れるという感覚は難しいのかなあ。心が動くことがあっても「触れる」よりは「触らされる」に近いような。触れたつもりになってることも多いかもしれない。もっと心が動くことがあるかもしれない。でも「触らされて」でも楽しかったとか面白かったと思えたら、それもありっちゃありかあ。笑 よくわからなくなってきたな。答えはないか。それこそ単一的か。

一度、試しに合理性を否定してみるといいのかもねえ。その中で「これは必要だ」という合理的な部分が見えてくるかも。僕も出来そうで出来ないけど、今はそういうことを見直している時期かもしれない。生きていく上では合理的な思考も悪いことばかりじゃないと思うし、バランスなのかなあ。効率的なことを考えすぎて、疲れてしまうということもあるしね。無理に一方に振り切ろうとした時に、不安定な状態になってしまうんだと思うなあ。

※おじさんに相談してみようかなと思った方はこちらから。
https://www.miyauchiyuri.com/ojisan