一枚の色紙 その2

羽生も書の稽古はした。した結果、これでよしとした。
費やす時間や労力を縦軸に、字の上達を横軸に据えた曲線上で、この地点がもっともコストパフォーマンスが高いと判断したからである。

見切り。

時間を費やせばより良い手が見えるかもしれない。しかし、限られた時間の中で見切る、そして勝つ。盤上に我々が知る最善の見切りを、人生においても羽生は常に下してきた。色紙の上でも。
努力を重ねても木村一基のような100点の字は書けないことを、日本一賢いからこそ知っている。


しかし、労力と上達の曲線上にたまたま羽生フォントが降ってきたのか、否、羽生は漫然と受け入れたのではなく、ここにたどり着いたのである。

さて、羽生フォントをもう一度ご覧いただこう。


羽生は筆を休めない。筆遣いの基本が「とめ」「はね」「はらい」なら、羽生フォントの基本は「はらい」「はらい」「はらい」である。なぜひたすらにはらうのか。筆の勢いを殺さないことで、時間の短縮と肉体的負担の軽減が見込まれるからである。実際に、三浦弘行が色紙を一枚書く間に羽生は五枚書く。
羽生は棋士の中で最も多く自分の名を書く。免状に、色紙に、タイトル戦の揮毫に、書類に手紙に権利書に、書く。
数十年にわたり年間数千も己の名を書く人間だけに必要とされる計算がそこにある。羽生フォントとは、いずれタイトル100期(再来年予定)を獲る己が生涯どれだけの「羽生善治」を書かねばならぬのかを予想して生まれた、エネルギー消費を最小に留める新しい字体と考えられる。

我々凡人は、今まで食べたパンの数を知らないが、羽生はもしかしたら今まで書いた「羽生善治」の数を覚え、これから書くそれの数を既に知っているのかもしれない。日本一賢いから。


つづく


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