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忘れびと

   
 ぼくはどこまでもつづく泥の湿地帯を歩いているような気持ちでした。夢であって欲しい、幻覚であって欲しい。それは現実に突きつけられたことでしたが、ぼくは信じられませんでした。
『給付型奨学金の停止』
 貧乏学生のぼくにとってそれは衝撃的な勧告でした。一瞬目の前の視界が暗くなり、心臓を直にギュッと握られたような気持ちになりました。しかし考えてみれば仕方のないこと、この数か月ぼくは授業を欠席することが多くなり、単位をいくつも取り損ねていたのです。“自業自得”とはまさにこういうことをいうのでしょう。
 ぼくは吹きすさぶ寒風に身を震わせながら、待ち合わせのコーヒーショップに向かって一歩一歩足を前に進めました。時計を見ると集合時間は過ぎています。奨学金停止のショックで、ぼくの中の時間感覚に狂いが生じてしまったのでしょうか。ああ、メンバーから怒られるだろうなあ、軽蔑されるだろうなあ、信用を失っただろうなあ・・・・。ネガティブな感情が螺旋になって身体に巻きついてきます。ラインにはメッセージがしつこいぐらい送られてきていますが、ぼくは怖くて開くことができませんでした。
 コーヒーショップは三鷹にある“隣人カフェ”という昭和風の店でした。店に着き、通りから中を覗くと、三人のメンバーの顔が見えました。起業しようと結成したメンバーです。彼らは、カリスマ的な起業家である金井さん、通称“カナエモン”のオンラインサロンで知り合った人たちです。ぼくは極端な内気な性格で対人恐怖症のケがあり、そんな自分を変えようと、三か月前にこのオンラインサロンに飛び込んだのでした。月額一万円の会費は貧乏学生のぼくにとって安価ではありません。正直にいえばすこぶる高額です。それほどまでしてぼくは意気地のない自分を変えたかったのです。
 その効果はというと、ありがたいことにすぐに形となって現れました。ぼくは起業メンバーに誘われたのです。若干二十歳のぼくはなんのスキルも知識もなく、さらには常識さえも怪しいのですが、彼らはそんなぼくを誘ってくれたのでした。ぼくは、新しい扉が開かれたような輝かしい気持ちになり、強い意気込みが胸に湧き起こるのを感じたのでした。
 しかし、そんな気持ちは長くつづくものではなく、次第にぼくは疲弊していきました。ビジネスというものは思っていた以上に厳しく、有り体にいえばドロドロとした世界なのでした。ぼくは、野心と情熱でギラギラした人たちに囲まれながら、一人石像のように固まり、場違いなところにきてしまったと冷や汗をかくのでした。
――皆さんに何と言われるだろう・・・・。
 店のドアノブに手をかけましたが怖くてドアを押せません。そのタイミングでスマホが鳴りました。嫌な予感がしましたが、思い切って画面を見るとバイト先の店長からでした。
――どうしたんだろう。シフトの変更だろうか。仕事の時間までは三時間あるが・・・・。
 電話を取ると店長が申し訳なさそうに言いました。
「突然ですが、残念な報告があります」
「何でしょうか・・・・」
「いま詳しい事情を書いた文章を添付ファイルにして送りましたから読んでください」
「えっ?」
「ご苦労さまでした。じゃ・・・・」
 電話が切れました。ファイルを開けて読んでみると、『店を閉める』ということが書かれていました。ぼくは冷静になって考えました。――と、いうことは、仕事がなくなりバイト代が入ってこなくなる。奨学金停止のことも合わせると、収入がゼロになる・・・・。
 ショックのあまり脳の回線が混乱したのか、逆に目の前の不安感がスッと消え、意味もなく可笑しくなってきました。人体は予想外の事態に遭遇すると変な反応を起こすようです。そのおかげで堂々とコーヒーショップに入ることができました。
「お疲れさまです」
 ぼくは殊更に大きな声で挨拶しました。メンバーの皆さん、石川さん、柳瀬さん、佐伯さんは、「あ、どうも、どうも」と、ちょっとびっくりした表情で返してきました。ぼくはヘラヘラと笑って彼らを見つめました。
「あのう・・・・」
 ぼくはショックな出来事の毒をすぐに吐き出してしまいたく、早速そのことを話し出そうとすると、同時に被せるようにリーダーの石川さんが訊いてきました。
「進捗状況はどんなもんなの?」
「へ? シンチョク・・・・」
 言葉の意味がわかりませんでした。ぼくの頭の中は奨学金停止とバイト先の閉鎖のことでいっぱいになり、他のことを話す用意がまったくなかったのです。
「文章だよ、文章、頼んでいた文章。ラインでも送ったけど、何にも返信くれないよね。どこまで書きました?」
 石川さんは明らかにイラついているようでした。
「あのう、それは・・・・」
 ぼくはそれをぜんぜんやっていませんでした。ぼくの与えられていた仕事は、資金集めのための大切な仕事、クラウドファンディングに載せる文章を書くことでした。しかしこの一週間あれこれ小忙しく、前日にラッシュをかければいいやと考えていましたが、昨晩は奨学金停止の連絡が入ってきてそれどころではなかったのです。そんなぼくの状況を皆さんに納得してもらえるよう、突っ立ったままあれこれ考え説明しようとするのですが、「あ、あ、あ・・・・」と言葉が詰まって出てきません。そのタイミングで店員さんが注文を取りに来たので、ぼくは何も考えずに「コーヒー」と言いました。声は出るようでした。
「全然やってないんだ・・・・」
 三人の冷たい視線がぼくに注がれました。外よりも冷たい風に当たっているような気持ちになりました。
「いやあ、あのう、わけがありまして・・・・」
「わけがありましてじゃないんだよ。正太朗君ね、君、締め切りはいつまでか知ってる? この前の打ち合わせのとき決めたよね」
「は、はい、今月中と・・・・」
「間に合う? 間に合えばいいんだよ。別に間に合えばさ。打ち合わせに遅れようが、途中経過を報告しまいが、何の文句も言わないよ」
「あのう、ぼくは、あのう・・・・」
「何なの?」
 気まずい空気の中、思い切って言いました。
「今、ついさっき、あのう・・・・、バイト先がツブれました」
 三人はピタリと動きを止めてぼくの顔を見、一斉にハハハと笑い出しました。
「あ、そう、それは、それは――。でもさ、それとこの仕事とは関係ないよね。こっちはこっちで責任があるんだからさ」
「そのとおりです。そのことは存じております。そして、あのう・・・・」
「まだ何かあるの?」
「昨晩連絡がきまして・・・・、奨学金が停止されました・・・・。単位がとれていないということで・・・・」
 三人は再び爆笑しました。皆さんは、ぼくの落ち込んだ気持ちを明るくしようと気づかって笑わってくださっているのでしょうか。
「うん、わかった、わかった、それは大変だ。だけどね、我々もこのプロジェクトに生活がかかっているんだ。遊びじゃないんだよ。君は起業メンバーに入るとき、責任を持ってやり遂げますって言ったよね。そう約束した限りは頑張ってくれなきゃ。それが君の成長にも繋がるわけだし」
「は、はい・・・・」
 ぼくは仲間たちに自分の困窮状況を知ってもらいたくて言ったのに、いつの間にかビジネスの謀反者みたいになっていました。
「――コーヒー、お持ちしました」
 このタイミングでコーヒーが運ばれてきました。ぼくは興奮のあまりカップを持つ手が震え、カップがカタカタと音をたてました。普段は砂糖とミルクをたっぷりと入れる派なのですが、懺悔の気持ちを込めて苦い液体をそのまま喉に通しました。
「とにかくね、今月中に絶対仕上げてよ」
「は、はい、もちろんです。今から、急いで・・・・」
 ぼくはアタフタとカバンからパソコンを取り出し、その場でカチャカチャとキーボードを叩きました。皆さんに迷惑をかけてしまう――、その恐怖感でぼくは集中することができ、いや、集中しているようなフリをすることができ、ぼくの目は乾燥気味で痛かったのですが、それでも痛みをぐっと我慢して画面を凝視しつづけました。
「ウッ・・・・」
 しばらくしたらお腹が痛みだしました。ぼくは胃腸が弱く、緊張する状況になるとすぐにお腹を下してしまうのです。ぼくはトイレに駆け込みました。出すものをすっかり出し切ってトイレから戻ってくると、皆さんは帰る準備をしていました。
「じゃあ、お先に」
「は、はい。ぼくはしばらくここで仕事をつづけます」
「うん、そうだね、当然だね。締め切りを忘れないでよ」
「は、はい」
 メンバーは皆帰っていき、ぼくは一人になりました。考えてみれば、奨学金やバイトに関するアドバイスは何一つもらえませんでした。それだけ彼らは脇目も振らずビジネスに真摯に取り組んでいるといえるのです。やはり大人なのです。それが社会人というものなのです。ぼくは考えが甘く、所詮はボクチャンなのです。ポツンと一人になると、やる気をまったく失ってボンヤリとしました。ぼくは今後どうしたらいいのでしょう。このままでいいのでしょうか・・・・。
 背後からザーと雨音が聞こえてきました。
――雨か・・・・。
 今のぼくの干からびた心には雨音がやさしい音色に聞こえました。自然は万人に平等に接してくれます。
「雨が強くなってきたぜ」
 背後から声がしたような気がしました。振り返ると、窓際のカウンターテーブルの隅にいた見知らぬ男性がぼくを見てニッと微笑みました。 
「は、はい」
 ぼくは取りあえず返事をしました。男性は紺の作務衣姿で下駄を履いています。サラリーマンでないことはわかりますが、何をしている人だかまったく想像がつきません。無精髭を生やしていて胡乱な感じですが、微笑んだ表情を見ると悪い人ではなさそうです。
「今にミゾレになるぞコレは」
「は、はい・・・・」
 ぼくは見知らぬ人に話しかけられた経験があまりないので、どう会話していいかわかりませんでした。店内を見回すとお客さんはぼくたち二人しかいません。
「何時頃帰るんだ?」
 男性が訊いてきました。どうして見ず知らずに人に自分の予定を話さなければいけないのか、ちょっと警戒心が起きましたが、ぼくみたいな存在感の薄い人間に気をかけてくれた心遣いが嬉しくてこたえました。
「何時になるでょう・・・・。仕事を終わらせてから帰りたいのですが・・・・」
「へえー、若いのにご苦労さんだな、フハハハ」
 男性は何がおもしろいか陽気に笑いました。ぼくも相手とのコミュニケーションを成立させるため、フフフと笑い返しました。
「な、君、水たまり好きか?」
 男性が突飛な質問を投げてきました。
「水たまりですか・・・・」
 意味がわかりませんでした。
「詩を書いたんだ。できたてホヤホヤだ。読んでくれ」
 男性は自分の席にくるよう手招きしてきました。ぼくは席を立って男性のパソコンを覗き込むと、そこには『水たまりのうた』という詩が書かれていました。

   水たまりのうた

 きみのお父さんは雨滴
 きみのお母さんは凸凹大地

 きみはいつしか生まれ
 いつしか消えてゆく

 きみは誰よりも空を見つめたね
 きみは誰よりも踏んづけられたね

 人知れず空き地にできたきみを
 ぼくは見つけたよ
 きみはお母さんになっていた
 たくさんのおたまじゃくしを抱いていた

 おたまじゃくしはしばらくのうちに大人になって
 ぼくにゲーゴゲーゴ合唱を聞かせてくれたよ  
  
 
 読み終わったぼくは、この年齢不詳のおじさんがこんな可愛い詩を書くんだと、思わず笑ってしまいました。
「おもしろかったです」
 率直に言いました。
「そうか――」男性はちょっと得意げに言いました。「こんなアスファルトとコンクリートで固められた都市じゃあ、水たまりっていったってロクなやつはないんだけどな」
「そうですねえ」
「カエルも住めねえよ」
 吐き捨てるように言った男性の顔に都会人ではない野生的な何かを感じ、ぼくは一種尊敬の念を抱きました。
「ぼくは正太朗といいます。お名前を教えて頂けませんか?」
「ゲンさんでいいよ」
「ゲンさんですか――。ゲンさんは詩を書いていらっしゃるんですか」
「ああ、そうさ。おれは詩人だ」
「詩人ですか。スゴイですねえ」
「何もスゴかねえよ。詩を書けば誰でも詩人だ」
「それはそうですが・・・・。あのう、詩人って・・・・、詩を書いて食べていけるものなのでしょうか」
 ぼくは初対面の人に向かって、プライベートに関わることを質問してしました。言葉が口から出てすぐに自分の無礼に気づき、「しまった」と思いましたが、途中でブレーキをかけるなんていう器用なことはできません。
「お前なあ・・・・」ゲンさんは哀れみの表情を浮かべました。「お前はカネのことしか頭にないのか」
「いや、そういうわけでは・・・・」
 思ってもいないところから反撃されました。ぼくはゲンさんが言われるように、お金のことしか考えていない卑しい人間なのかもしれません。お金のことで頭がいっぱいなのです。お金のことを考え尽くして、お金持ちになって、お金のことを忘れたいと、逆説的なことを思うほどお金に執着しているのです。ゲンさんにぼくの浅ましい本性を見通されたようで、心から恥ずかしい気持ちになりました。
「な、アキンド君よ」
「ぼくのことでしょうか・・・・」
「ここには君しかいないんだから君のことだろうな。アキンド君は“芸術”って言葉を知っているか?」
「は、はい。存じております」
「芸術って何だ?」
「芸術って・・・・。奇抜なものじゃないでしょうか・・・・。誰もしない奇抜なことをして、人の心を癒やす行為なのでしょうか・・・・」
「そんな生ぬるいもんじゃねえよ。芸術ってのはな、死者の未練、滅ぼされた文化、打ち捨てられた思想、森にさまよう精霊、そういったものの魂を呼び起こして、今ノホホンと生きている奴の顔面に投げつけて、そいつの世界をひっくり返してやる行為なんだ。それは武器を持たない殺傷行為ともいえる――」
 ゲンさんの目が異様に鋭くなっていました。
「金のことなんかを考えていちゃ詩なんてものは書けねえんだ。わかるか坊や」
 ぼくは圧倒されてしまいました。
「は、は、はい・・・。そんな怖いものとは知らず、軽率なことを言ってすみませんでした」
 深々と頭を下げました。
「ま、いいよ。馬鹿野郎ばかりの世の中、そうやって素直に謝れるだけお前はマトモだ」
「そ、そうですか、マトモですか、ありがとうございます・・・・」
 ぼくは“マトモ”と言われ一瞬目頭が熱くなりました。褒めてもらえたような、許しを得たような、同じ仲間に入れてもらえたような、そんな気持ちになったのです。
「ぼ、ぼくみたいな小汚い人間でも、詩というやつを書いてもいいのでしょうか」
「何か書きたいことがあるのか」
「と、特に・・・・、さ、さしあたって・・・・、書きたいことがあるわけではないのですが、自分の気持ちを表現できたら、気持ちがいいだろうなあと思いまして・・・・・」
「詩は万人に開かれたもの、思いついたことを何でも書けばいい。だけど、それは自分に対して正直でなくてはいけないんだぞ。自分の中の荒ぶる魂を成仏させるようなものじゃないとな。迂闊なことを書くと、自分の言霊が自分に襲いかかってくるからな」
「言霊ですか・・・・、勉強になりました・・・・。しかし、ぼくは、正直に言いますと、ぼくの中にも、荒ぶる魂が渦巻いておりまして・・・・、いや、“荒ぶる魂”なんて強そうなものじゃなくて、どっちかといいますと“腐った魂”とでもいうのでしょうか。ジクジク膿んで嫌な臭いが漂っている・・・・。ホントに情けないのです・・・・」
 ぼくは今日会ったばかりの人に自分の心の弱さを吐露してしました。
「そう自分を責めるなよ。皆んなそんなものさ。上手に、清々しく、思い通りになんて誰も生きてやしない。そういう消化しきれない気持ちが詩の原動力でいいんだぞ」
「そうですか・・・・。それでいいんですか・・・・・」
 ぼくはハーと深い息をつき、力なく肩を落としました。
「どうした、何か胸につかえてるのか」
「いや・・・・、まあ・・・・、なかなか・・・・」
「何だよ、病気か? 便秘か痔か何かか?」
「いや、便秘ではなく、あのう・・・・、奨学金は停止されるし、バイト先がツブれてしまうし・・・・」
「そうか、そんなことがあったのか。青年よ、そう落ち込むなよ。長い人生、そんなこと、たびたび降りかかってくるものだ。スパイスが効いていない料理なんか旨かないだろ。そんなもの、ワサビかコショウぐらいに思ってやり過ごせよ」
 ゲンさんはぼくの肩をポンと叩いてにっこり微笑みました。
「は、はい」
 考えてみれば他の人に体を触れられたのは思い出せないぐらい久しぶりでした。ゲンさんのあたたかな分厚い手の平を肩に感じ、ちょっとホッとした気持ちになりました。
「そうだなあ・・・・、年若な学生にとっちゃあ、それは辛いことかもしれないなあ。まだ経験値も低いし、知識も少ないし、悪知恵も働かないだろうしなあ・・・・。――要するに、大学を辞めて働くべきか、お金を借りて今まで通り学業を続けるべきかってことだろ・・・・」
 ゲンさんは要点をまとめ、腕組みをしながらウーンと唸って、一緒になって考えてくれました。
「結論とすれば、辞めた方がいいだろうなあ。仕事をすれば、金をもらって勉強にもなる。学校ってところは、金を払って勉強するだろ。並べてみれば一目瞭然、仕事の勝ちだな」
「でも、それだと、将来が見えてこないと思んです。学位を取って社会的信用があった方が、ゆくゆくは有利なんじゃないかと・・・・」
「おれはそんなケチな考え方はイヤだな。そもそも“将来が見える”って何なんだ。インチキ占い師じゃあるまいし」
「それはそうですが・・・・。でも、やっぱり、ぼくみたいな凡人は学位がないと何かと不安なので・・・・」
「じゃあ、大学をつづけろよ」
「でも、お金が・・・・」
「そこは父ちゃんに出してもらえよ」
 ぼくは家族のことはどんなに親しくなった人にもなかなか言えず、ずっと隠してきましたが、ゲンさんの人柄のせいなのか、話の流れなのか、そのことをスッと話してしまいました。
「実は、父は、福島で放射能除染の作業員を住み込みでやっていまして・・・・。所謂底辺労働で頑張って生きている人なので、そんなお金に関するムリなことは、どうしても言えそうになく・・・・」
「放射能の除染作業員か、それは大変そうだな・・・・。じゃあ、母ちゃんは何をやってるんだ?」
「実は母は・・・・」ぼくはそのことも言い澱みました。どうしてかというと、それは人種差別に関わるデリケートな問題だからなのです。日本は差別がないとされていますが、同じアジア人について偏見や見下しがあることを、ぼくは肌で感じることが多々ありました。
「実は・・・・、母はタイ人でして、ぼくは日タイのハーフなんです」
 思い切って言いました。
「母ちゃんタイ人か。おれはつい最近までタイで暮らしていたんだぞ。十年以上住んでいたぜ」
 意外な反応が帰ってきました。完全に親タイ派の人でした。ぼくは仲間を見つけたような気持ちになり一気に親近感が湧きました。
「よかったです。タイのことをよく知っておられる方で」
「おれはタイに救われたようなもんだ。タイはおれみたいな変な奴でも笑って受け入れてくれる懐の深さがあったからな。毎日たっぷり果物を食べて、ゆっくり昼寝して、ブラブラ通りを歩いて、そのおかげで人間性が回復できたんだ。――じゃあ、お前はタイ語ができるのか?」
「母と会話していたので日常会話はできますが、読み書きはできません・・・・」
「もったいないなあ。勉強しろよ。母ちゃんに習えばタダだろ。今からでも遅くはないぞ」
「でも、実は、母はタイに帰りまして・・・・」
「帰った?」
「数年前、両親は離婚しまして、母はタイに住んでいます・・・・」
「なあんだ、余計にチャンスじゃねえか。じゃあ、こんなところでウジウジしていないでタイへ行けよ。決まりだ。大学を辞めてタイへ行けば学費も要らなくなる。そんなに大学に行きたきゃ、タイの大学に行ったらいいわけだし。授業料は日本と比べたら激安だ」
「いやあ・・・・、でも・・・・」
 そんな大胆なことを考えたことがありませんでした。東京もほとんど出たことがないのに、国内を飛び越えて海外に住むなんて・・・・。だけど、自分の中に何か小さな突破口が開いたような気持ちがして、なんだか呼吸がラクになったような気がしました。
「でも他にもいろいろ背負っているものがありまして・・・・」
「背負っているもの?」
「会社立ち上げの仕事もしていまして」
「今やってるそれか? 学生なのに? それでたんまりとお金がもらえるのか?」
「いあ、これはボランティアみたいなものでして・・・・。まだ会社立ち上げの段階なので」
「え? じゃあ、タダでコキ使われているのか?」
「ええ、タダです・・・・。これは勉強をさせて頂いているみたいなものです。締め切りもありまして・・・・」
「うまく利用されているんだな。そこからすぐに逃げ出せよ」
「利用されているなんて、そんなことはないんです。メンバーの皆さんは真面目な方々ですし。そこはご心配なく」
「お前はまだ若くて知らないだろうが、世の中には悪い奴がたくさんいるんだぞ。悪い奴ってのは悪そうな顔をしているんじゃなくて、天使みたいな顔をしていたり、お釈迦様のようなご立派な説教を垂れたりするから厄介なんだ。世の中はな、そんな天使の皮をまとった悪魔が、金と権力の周りにはウジャウジャと群がっているんだ」
「天使みたいな悪魔ですか・・・・」
 ぼくは彼らを疑ったことなどありませんでした。そこを疑いだしたら頭がどうかなってしまうかもしれません。ぼくは、有名起業家である金井さんのことや、彼のオンラインサロンのこと、そこで出会ったメンバーのことを詳しく話しました。しかし、その話を聞いたゲンさんはさらに疑いを深めたようでした。
「速攻でそのサロンってやつを辞めろよ。お前は金もないくせに毎月一万円払わされ、仕事もさせられるってことに、馬鹿馬鹿しさを感じないのか」
「それは自己成長のための授業料みたいなものでして・・・・」
「何が自己成長だ。新興宗教じゃあるまいし気持ち悪い。それに何だよ、そのビジネスってやつは。それが原因で勉強する時間がなくなって奨学金が打ち切られてしまったんだろ。悪の根源じゃないか。それもすぐに辞めろよ」
「辞めるっていったって・・・・」
「そいつらに会わなきゃいいだけだろ」
「辞めると怒られそうですし・・・・」
「怒られる? いいんだよ、そんなの無視すれば。そんなやつらのことなんて忘れちまえ」
「忘れるっていったって・・・・」
「遠くへ離れればいいんだ。意識をそこへ向けなきゃ、人間は何事でも忘れてしまうんだから」
「でも、せっかくビジネス分野にコネができたというのに、忘れてしまうなんて勿体ないように思えます・・・・」
「何がコネだ。タカられているだけのクセして。――ちょっとこの詩を読めよ」
 ゲンさんは自分のパソコンからまた一つ、自作の詩を見せてくれました。

    忘れびと

 覚えることは大切だっていうけれど
 忘れることも大切だろ?

 忘れることがなかったら
 悪夢に毎晩うなされるぜ
 
 忘れちゃ困るっていうけれど
 何を忘れちゃ困るんだ?
 貯金通帳のありか? 
 仲間の存在?
 社会のルール?
 右往左往はするだろうけど
 どうにかなるものだぜ
 
 昨日までの記憶をすべて忘れてしまったら
「おれは何者だっけ」となるだろうけど
 右往左往はしなくなる
 解釈する材料がないんだから
 
 言葉をすべて忘れてしまったら
 「おれは何者だっけ」もなくなって
 ただ眼に光が反射し
 ただ音が鼓膜を揺らし
 生まれたての赤子の気持ちになれるのかも

 忘れるならそこまでいかなくちゃな 

 読み終わるとぼくはフフフと笑って、無意識的に詩をスマホで撮っていました。
「そういう人のことを認知症っていうんじゃないですか」
「認知症でいいんだよ。本人は困らないだろ」
「ああ、確かに・・・・」
 ぼくは心が軽くなるのを感じたのでした。

   
 金井さんのオンラインサロンの定例会に出席した後、ビジネスメンバーで打ち合わせとなり、皆んなでまた隣人カフェに行くことになりました。隣人カフェに入ると、窓際のカウンターテーブルの隅の席に忍者のような人影が立っているのが一瞬目に入り、ギクリとして凝視すると、それは黒い作務衣を着たゲンさんでした。目が合うとゲンさんは小さく合図を送ってきたので、ぼくも小さく会釈を返しました。
「今日の金井さんの話を聞いて何を学んだ? 皆んなで話し合おうよ」
 席につくと、石川さんがメンバーの顔を見回して言いました。パワー溢れる金井さんの言葉に触れて、皆さん興奮しているようでした。情報量が絶対的に足りていないということや、きちんとしたデータベースを作る必要性、いろんな人に会って人脈を広げていくこと、そんなことを熱を持って話し合われる中、ぼくは一人白々として他のことを考えていました。この前、ゲンさんに言われれたことが頭に引っかかっていたのです。さすがにこのビジネスから辞退をするつもりはありませんが、オンラインサロンは辞めようと考えていました。このことをメンバーに話すべきか、黙っておくべきか――。
「正太朗君、黙っているけど、何か学んだことはないの?」
 妄想しているところへ急に話を振られてギクッとしました。
「は、はい、あのう・・・・」
 皆さんの冷たい目線が注がれ、ぼくはいつもながら言葉を詰まらせました。
「あのう・・・・、ぼくもたくさん勉強できたと思います。ありがとうございました」
 トンチンカンなことを言いました。三人は口元を歪めて冷笑したので、「あっ、マズイ」と思い、考えていたことを思い切ってそのまま口にしました。
「オンラインサロンは今月いっぱいで退会しようと考えています」
 その一言で、さらにマズイ展開になったようでした。もっとうまく話を組み立てて話せばよかったのですが、唐突な言い方で皆さんを不快にさせたようです。場は一気に白けた空気になりました。
「それは君の自由だから好きにしたらいいと思うよ――」
 石川さんはぼくをフォローしてくれましたが、さすがに簡単には手放してくれないようで、「だけどきちんとした理由を聞きたいな」と問いただしてきました。
「お金がないものですから・・・・」
 ぼくは小さな声で弁明しました。
「辞めるのは君の自由だと思うよ。だけど、金井さんの知見に触れることは大切だと思うんだよなあ。古臭い固定観念を変えてくれるんだから。そこから得られることはお金の尺度では測れないことだよ」
 佐伯さんが納得いかない表情で言いました。
「定例会やオフ会って、いろんな分野の人に出会える場でもあるんだよね。あんないい場所はどこにもないと思うんだけどなあ」
 柳瀬さんも否定的なことを言いました。自分のことで激しい議論になっているというのにこのタイミングでお腹が痛くなってきました。議論から逃げ出すためにトイレへ行くと思われるのは嫌なのでしばらく我慢していましたが、キリキリとした痛みに我慢できなくなり「ちょっと」と言って席を立ちました。
 トイレから戻ってくると、ゲンさんとまた目が合いました。ゲンさんはニヤッと笑って手招きしてきたので彼のもとに近づくと、小さな声で「大変そうだな」とささやいてきました。何か話し返すと“ゲンさんワールド”に引きづり込まれるような気がしたので、「また」とだけ言ってメンバーのテーブルに戻りました。メンバーたちの話題はもう他のことに移っていましたが、ぼくが席に着くとすぐにこちらに矛先が向けられました。
「あの人、誰?」
 不機嫌に訊かれました。 
「あ、この店でちょっと知り合った人です」
「あ、そう」
 ぼくが、ビジネスメンバーとは関係のない怪しげな人と無駄話をしていたことが気に障ったのでしょうか。そのことが引き金になり、メンバーの皆さんは、ぼくに対する日頃のイラ立ちを露骨にぶつけてきました。――仕事が遅い、報告が少ない、文章が論点を外している、やる気のない態度、集中力がない。ここぞとばかり罵倒されました。ぼくはメンバーたちからずいぶん信頼されていなかったようです。ぼくはもっと真面目に、もっと熱心にならなくてはいけなかったのです。そんな大事な説教を受けているというのに、またもお腹が痛くなってきて我慢できなくなりました。「すみません」と会釈して席を立つと、後ろから小さな声で「カスだな」と聞こえました。
「カス・・・・」
 それはぼくに対する適切な評価なのかもしれません。ぼくは“カス”を真摯に受け止めました。「落ちるところまで落ちれば後は昇っていくだけだから」と自分で自分を励ますのですが、昇っていくエネルギッシュな自分を想像すらできず、情けない気持ちでいっぱいになりました。
「――正太朗君、締め切りは来週だから、きちんと仕上げてきてね」
 打ち合わせが終わるとき、石川さんに念を押されました。
「はい、もちろんです」
 ぼくは歯を食いしばって深く頷きました。こんな自分でもまだ信頼してくれ、そう言ってくれるのです。
「意地でもやり遂げます」
 と力強く言うと、なぜだか涙がドッと溢れてきました。
「泣かなくていいんだよ」
 皆さんに笑われました。
「じゃお先に」
 メンバーはさっさと帰っていきました。ぼく一人だけ居残り、しょんぼりと座っていると、ゲンさんがヒヒヒと笑いながらぼくの隣りに座ってきました。
「拷問から解放されたな」
「ま、まあ・・・・」
 情けないところを見られてしまったようです。ゲンさんはユーモアを交えて気づかってくださっているようでした。ぼくも「へへへ」と笑って見せて、何でもない態度をつくろいました。ゲンさんはそんなぼくの目を深く覗き込んで訊ねてきました。
「な、お前、童貞か?」
「へ? ドウテイ?」
 一瞬意味がわかりませんでしたが、すぐにシモネタだと気づき顔を赤らめました。ぼくはこういう類の話が苦手でいつも敏感に避けていたのですが、ゲンさんはそんなデリケートな部分に真正面から突っ込んできたのです。
「いや、あのう・・・・」
 言葉に詰まりました。
「そうか、やっぱりな」
 ゲンさんは意味深な表情で言いました。ぼくのことをイジリたいのか、はたまた何か深い考えがあるのか、まったく理解できません。ゲンさんからの質問は止まりませんでした。
「まだビジネスという名のママゴトを続けるつもりか」
「ママゴト・・・・。ええ、頑張って続けていこうと思っています」
「じゃあ、大学は辞めるのか?」
「金融機関で教育ローンの融資を受けられるようなので、それを借りて学業も続けるつもりです」
「タイには行かないのか?」
「お金がありませんから」
「そうか・・・・」ゲンさんは小馬鹿にしたようにフッと鼻を鳴らしました。「結局同じ路線にしがみつくだけか」
「いや、そういうわけではありません。ぼくも自分を変革しようと頑張っています。ゲンさんからご指摘を受けたように、オンラインサロンは絶対退会するつもりです」
「そんなもの、金を払わなきゃいいだけだろ」
「ま、そうですが・・・・」
「ビジネスって具体的に何をやってるんだ?」
「全国にある日本酒をブランディング化して海外に売り出す事業です」
「そんなもん、酒蔵が勝手にするだろ?」
「いや、個別にはやりづらいこと、――世界の中枢都市でイベントを開催したり、外国人向けのPR動画を作成したり、自分の味覚に合ったお酒を選ぶアプリを開発したり、そうした活動をします」
「へー、日本酒を世界にね・・・・、伝統文化の輸出、ニッポンスゴイねってね・・・・。で、君は酒が好きなのか?」
「いや、ぼく自身はまったく飲みません。まだ二十歳になったばかりですし、そもそもアルコールアレルギーなので」
「酒アレルギーなのに酒をプロデュースするんだ・・・・」
「メンバーはお酒が好きですし詳しいです。それに、将来的には会社は日本酒の事業にとどまるつもりはなく、利益が出て資金が集まってきたら、まったく違う業種に移行していく予定です」
「どんな?」
「コンピューター関係の仕事です。テクノロジーによって社会の合理化をはかり、多くの人々を幸せにするようなことをしたいです」
「具体的にいえば?」
「AIを使ったイノベーションです。これは遠くにある夢なので具体的には説明できませんが、メンバー皆んなの憧れがスティーブ・ジョブスなので、アップルみたいな企業をつくりたいと思っています。だからぼくたちの会社の名前は『グリーンアップル』とする予定です」
「夢の話になったら急に饒舌になるじゃねえか――」ゲンさんはトロンと眠たそうな目をしてフワーとアクビをしました。「夢なんて、所詮夢だぜ」
「それはそうですが・・・・」
「酒が飲めないくせに酒関係の仕事って一体何なんだよ・・・・」
「ぼくはメンバーに誘われた身分なので・・・・」
「スティーブ・ジョブスって、要するにサイコパスだろ? 周りの人に大きな夢を語って騙かして大金を集め、社員を恫喝して無理な労働をさせ、製品を安く大量に作るために中国では奴隷みたいにコキ使われている労働者がたくさんいて、それで会社を大きくしてエラそうにしていた輩だろ。そんな奴に憧れるのか? 何が“グリーンアップル”だ。笑わせるぜ。そんなもの酸っぱいばかりで喰えねえよ」
 ゲンさんは吐き捨てるように言うのでした。
「でも世界中の人はスマホを持って幸せになったじゃないですか。それで楽しんでいるわけで・・・・」
「幸せね・・・・。でも、おれは持っていないぜ。持っていたことはあったけどな手放しちまった。あんなもの時間が喰われて、目が悪くなるだけだから」
「いまどきスマホを持たないなんて・・・・。じゃあ、ゲンさんに会いたいときはどうやって連絡を取ればいいんですか」
「ここにきたらいいじゃないか」
「他の人とは?」
「手紙でもなんでもあるじゃないか」
「手紙ですか・・・・」
「もちろんメールもするよ。いいんだよ、おれは時代遅れのサルで。資本主義の使い捨てニンゲンにされるぐらいならサルで上等さ。サルで生きてゆくよ。――これを読めよ」
 ゲンさんはまたパソコンの中にある自作の詩を見せてくれました。

    ゴミ友

 みんな同じ顔をしている行儀のいいゴミ友
 一回だけの仕事で処分されるゴミ友
 役に立っても感謝されることのないゴミ友

 決して愚痴をこぼさず
 いつもキリッと身だしなみを整えて
 忠実に仕事をこなすゴミ友

 都合よく作られ
 都合よく扱われ
 慈しまれることなく捨てられるゴミ友
 
 そんな君のことを
 遠くから見守っているんだよ

 君が無言で復讐することを
 皆んな恐れているんだよ

「ゴミ友ですか・・・・」
 読み終わり、何か嫌な気持ちになりました。どう感想を言おうか考えていると、
「ゴミ友は社会システムの問題だから決して逃げられないんだ。お前もゴミ友にならないよう気をつけろよ。もう半分ゴミ友か」
 ゲンさんはそう言ってケラケラと笑うのでした。

   
 ぼくはバイトの面接を受けるため、リクルートスーツを着込んで早めにアパートを出ました。面接までの空き時間、ゲンさんがいたら何かアドバイスをもらおうかと隣人カフェに寄ると、案の定ゲンさんはいつもの席でいつもの作務衣姿でパソコンと向き合っていました。
「あ、どうも、お疲れさまです」
 ぼくが店に入って挨拶すると、
「お、少年、どうした? ゴキブリみたいな恰好して」
 ゲンさんはぼくを一瞥し、開口一番皮肉ってきました。
「今からバイトの面接なんです。履歴書選考が通ったので」
「バイトの面接ごときで、そんなサラリーマンコスプレをしないといけないのか」
「コスプレって・・・・。一応今回は事務仕事のバイトなのでスーツが適切だと思いまして・・・・」
「へえー、ご苦労さんだなあ。どうせ最低賃金で働かされるんだろ?」
「まあ、そうです・・・・。最低賃金レベルです・・・・」
「雇用主の野郎は低賃金の労働者に何を期待しているんだろう。スキルがあって、真面目で、無給残業を進んでこなし、文句を何も言わない――、そんな従順な羊かどうかをコスプレで試しているんだろうか。資本主義もそこまでいったか。おれみたいな偏屈でやる気のないオヤジは、バイトですら一発アウトだな」
「やっぱりきちんとした人を採りたがると思います」
 ぼくは思わずゲンさんに対し失礼なことを言ってしまいました。ゲンさんはそれを聞き逃さず、ギロリとぼくを睨みつけて声が大きくなりました。
「はあ? きちんとした人? きちんとした人とはどんな奴を言うんだ? そもそもお前の目は大丈夫なのか? 歪んでるんじゃねえのか? 歪んだ目でしか見れない奴が、どうやってきちんとした人を見分けるんだ。まったく、小僧のくせにわかったようなこと言いやがって。――この詩を読めよ。お前をイメージして作ったんだ」
「ぼくをイメージ・・・・」
 ゲンさんは自分のパソコンをぼくの手元に置きました。

    顔のない人たち

 どうしたんだい?
 コンニャクみたいな顔してさ

 どうしたんだい?
 炭酸の抜けたソーダみたいな顔してさ

 いつになったらお面を外すんだい?
 表現させてもらえない感情が怒り狂って
 素顔を醜悪に歪ませるぜ

 いつになったらマスクを外すんだい?
 抑圧された正直な気持ちが怒り狂って
 五臓六腑を腐らせるぜ

 聞いているのかい?
 聞いてねえのか
 情報を食べるのに忙しそうだものな

 聞いているのかい?
 聞いてねえのか
 不安と享楽の耳栓をしてるんだものな

「――そうですか・・・・」
 読後、もちろんぼくはいい気持ちがせず、「ゴホッ」と一つ咳払いをして、感想を何も言わずゲンさんにパソコンを返しました。
「どうしたらお前のノッペリとしたコンニャク顔が人間らしくなるのかなあ・・・・」
 ゲンさんは腕を組んで困ったような顔をしながらぼくをクサすのでした。
「――コンチワ」
 そんなとき店に茶髪の若い女性が入ってきて、こちらを見て微笑みながら挨拶してきまいた。
「お、パット、学校サボったのか」
 ゲンさんが彼女に声をかけました。
「何言ってるの、もう休み。春休みよ」
「あ、そうか。ま、座れよ」
 女性はぼくの隣の席に座りました。
「あ、どうも」
 ぼくは小さく会釈しました。目が大きくてスラリとした美人さんです。ぼくは彼女の顔をいつまでも眺めていそうだったので意識的に目を逸しました。
「あ、この青年・・・・。名前なんだったっけ? ――正太朗君だ。彼も大学生。今からバイトの面接があるんだとよ。童貞だよ」
 彼女に紹介してくれるのはありがたいのですが、ゲンさんは余計なことを付け加えるのでした。
「ドウテイって何?」
 彼女はスルーして欲しいところを敢えて訊いてきました。
「チェリーボーイってことさ」
「そんな情報要らないわよ」
 女性は無邪気に笑うのですが、ぼくはどう応じていいかわからず、赤くなって沈黙するするしかありません。ゲンさんは続けてぼくに彼女のことを紹介してくれました。
「彼女はパットさん、タイからの留学生だ。東大の大学院生だよ。オックスフォード大学にも留学したことがある才媛だ」
「あ、どうもパットです。よろしくお願いします」
 彼女の日本語のイントネーションはクセのない正確なもので、優秀な頭脳の片鱗が小さな会話で窺い知れました。こんな才色兼備のお嬢様、ぼくなんかはどうやっても遠く手の届かぬ存在なのでしょう。
「あ、そうだ――」ゲンさんがぼくのことを、さらに詳細に紹介してくれました。「彼ね、お母さんがタイ人なんだよ。日タイのハーフ」
「へえー、ハーフなんだ。タイ語は?」
「できるよ、ペラペラだ」
 ゲンさんはぼくのタイ語を聞いたことがないくせに、いかにも知っているかのようにそう言いました。
「いや、ペラペラでは・・・・」
 嘘はよくないのでそれを訂正しようと思いましたが、彼女が「スゴイ」と言ってぼくを興味深げに見つめてきたので、ぼくは「ま、まあ・・・・」と、それを受け入れてしまいました。ぼくは今まで、母がタイ人であることに何のメリットもなく、それどころか一種のコンプレックスでしたが、初めてタイの血が流れていていることに歓びを覚えたのでした。
「コイツね、ビジネスもやってるんだ。将来ビル・ゲイツになるんだとさ」
「いや、あのう・・・・」ぼくは言葉を挟みました。「スティーブ・ジョブスに憧れています」
「要するにお金持ちになりたいんだよな。お金が大好き何なんだよな」
「いや、そんなわけでは・・・・」
 ぼくはお金に卑しい人間と思われるのは嫌なので否定したかったのですが、どのように否定していいかわからず言葉を詰まらせました。
「学生で起業するってスゴイですね――」だけどパットさんはぼくを褒めてくれ、「誰もがお金は好きですものね」と、ぼくをやさしくフォローしてくれました。
「この男、ビジネスとか何とか言ってるけど、実際は教育ローンだ何だって借金漬けなんだよ」
 ゲンさんは言わなくてもいいぼくの評価が下がる情報を何でもペラペラとしゃべってしまいます。
「それは大変ね。でもタイ人は一般的に借金が好きよ。手持ちのお金がなくても、ローンで買い物しちゃうから」
 パットさんはそれでもぼくをフォローしてくれるのでした。さらに――、
「ビジネスをするならタイでした方がいいよ。タイは固定資産税も相続税もないから、金持ちになったら金持ちのままずっといられるから」
「え、そうなんですか・・・・」
 ぼくは知りませんでした。
「お前タイに住みたくなってきたのか」
「いや、まあ・・・・」
「でもね――」パットさんは付け加えました。「ビジネスするときは役人に賄賂を払わないと上手くいかないよ。タイではエラい人とコネがないと難しいの」
「賄賂ですか・・・・」
 国によって常識が違うようです。
「正太朗さんはタイへ行ったことがあるんですか?」
 パットさんはぼくに興味を持ってくれたようで気さくに話しかけてくれます。
「いや、行きたいのですが・・・・、母もタイにいるので・・・・」
 そのときぼくはふと店の時計を見ました。もう店を出なければいけない時間です。
「お前、面接の時間大丈夫か」
 ゲンさんもぼくの顔を覗き込んで訊ねてきました。
「いや、あのう・・・・」
 どうしてこんなときに限ってバイトの面接なんかあるのでしょうか。せっかくこんな美しい女性と楽しい会話ができるチャンスだというのに・・・・。ぼくは約束を厳格に守る几帳面な性格でしたが、このときばかりはバイトの面接をキャンセルしようかという横暴な気持ちがわき起こりました。
「面接の時間、何時から?」
 パットさんまで心配しだしました。
「ええ、まあ・・・・、そろそろ・・・・」
 ぼくが後ろ髪を引かれる思いでトボトボと店を出ていこうとすると、
「またお話しましょう」
 パットさんはやさしく言ってくれました。
「は、はい、こちらこそ、今度タイのことをいろいろ教えて下さい」
 そう言ってぼくは店を出たのでした。
――パットさんか・・・・。
 ぼくはパットさんのことがいつもまでも頭から離れませんでした。ぼくは面接が大の苦手でいつもガチガチに緊張してトンチンカンなやりとりをするのが常でしたが、このときはパットさんのことで陶酔していたので、むしろスムーズに話すことができました。話す内容はもちろん薄っペラなものでしたが、ドモってしまう癖も出ず、面接を無事終えることができたのでした。

    
 この数日間バイトが受かったかどうかよりも、パットさんのことが気になって仕方がありませんでした。毎日隣人カフェに行けばパットさんに会える可能性がありましたが、いかにも自分がそれ目当てで通っていると思われるとゲンさんにイジられそうなので、行くのを我慢していました。そんな折、面接を受けた会社から採用連絡がきて、正式な手続きと仕事内容の説明をしたいとのことで会社に呼ばれました。会社へ行くついでにカフェに立ち寄ったという大義名分ができたので、ぼくは悦び勇んでリクルートスーツを着て、早い時間にアパートを出たのでした。
 パットさんが来ていることを祈りながら、外から店中を覗くと、ゲンさんと西洋人の男性がカウンター席に座っていました。
――来てないのか・・・・。
 西洋人男性は海賊のような髭面で古びたTシャツ、七〇年代のヒッピーを思わせるイデ立ちです。ぼくはそんな方と顔を合わせるのがなんだか怖くて引き返そうとしましたが、ゲンさんがぼくの姿を目ざとく見つけ手招きしてきたので、おずおずとためらいながら入店しました。
「お、少年、今日もサラリーマンコスプレをして何の面接だい?」
 ゲンさんがカラかうように訊ねてきました。
「いや、あのう、この前面接した会社の初仕事みたいな感じで・・・・」
 ぼくは曖昧にこたえました。
「あ、あれ受かったんだ。おめでと」
「ただのバイトですから大したことありません」
 西洋人の男性はぼくのことを微笑みながら見ています。
「トミー、彼は正太朗君。世界中に日本酒を売り回るビジネスをするハイパー大学生だ」
 ゲンさんがぼくを大袈裟に紹介しました。
「ハイパーではありません」
 ぼくはボソボソと打ち消しました。次にゲンさんは西洋人男性をぼくに紹介してくれました。
「彼はジャンキーのトミー、英語の先生。アジアの国々を渡り歩いている流れ者さ」
「ジャンキーではない」
 トミーさんもゲンさんの失礼な紹介をボソッと打ち消しました。
「英語の先生だけじゃなく、シェアハウスの大家さん、環境活動家、農業――、いろんなことをやってる。要するに百の姓があるという意味で“百姓”だな」
「ヘエー、百姓ってそういう意味があるんだ。いい言葉だね。百の姓で百姓ねえ・・・・」
 トミーさんは向学心旺盛なようで、学んだ言葉を噛みしめるように頭に入れていました。
「トミー、正太朗君はね、借金しながら大学に通う苦学生なんだよ。最近奨学金をもらえなくなって、貧乏にあえいで困っているんだ」
「あ、ちょうどいい。私のシェアハウスね、一人出て行ったから今部屋が空いてるよ。部屋代二万円、安いよ、どう?」
「二万円ですか・・・・」
 確かに激安でした。いまぼくが住んでいるアパートの三分の一です。これだけ安くなれば生活費がグンと浮きます。引越しのことなど頭の隅にもありませんでしたが心が揺れました。
「場所はどこでしょうか?」
「この近く。自然に囲まれてるいいところだよ」
 トミーさんをパッと見たときは野蛮な人に見えましたが、話をすると穏やかな話し方をする紳士的な人でした。
「トミーはね、自然栽培の農業もやっていて、ほぼ自給自足の生活をしてるんだ。災害や飢饉が起きてもトミーのそばにいれば生き残れるぜ」
 ゲンさんが付け加えました。
「食べ物だけじゃなく、水もエネルギーも全部自給自足してるよ」
 トミーさんは自慢げに言いました。
「エネルギーもですか?」
「そう太陽パネルで電気を作っているし、生ゴミを発酵させてガスを作る機械もある」
「それはスゴイですね」
 都会育ちで都市生活に慣らされた身の上として尊敬の念を抱きました。
「明日にでも見においでよ」
「ええ、是非、お伺いします」
 ぼくはトミーさんに頭を下げました。なんだかおもしろそうです。
「――コンチワ」
 そんなときパットさんが店に入ってきました。
「来たッ!」
 ぼくは彼女の姿をチラと見ただけで血圧が一気に上昇しました。
「お、パット、学校サボったのか」
「だから、春休みだって」
 ゲンさんはお馴染みの会話をしてハハハと笑いました。
「正太朗君はパットのことに恋い焦がれて待っていたんだぞ」
 ゲンさんは冗談として成立しないイジり方をしてきました。
「え、そうなの?」
 パットさんは迷惑がる風でなく笑ってぼくを見つめてきたので、ぼくは「いやいや・・・・」と顔を赤くしてうつ向くしかありません。
「バイトはどうなった?」
 パットさんがぼくに話しかけてきました。
「おかげさまで採用されました。今から会社へ行くところです」
 ぼくはスーツを着ていることを心の中でほくそ笑みました。いかにも仕事ができるビジネスマンのフリができたのです。
「へえ、よかったじゃない」
「あ、それにコイツね――」ゲンさんが口を挟んできました。「トミーのところに引っ越すらしいよ。『トミーズ・ファーム』に弟子入りするんだって。明日だっけ?」
「いや、いや、まだ決まったわけではなく・・・・。明日は内見するだけです」
 ぼくはうろたえるように訂正しました。パットさんもトミーさんの家に興味を持っていたらしく、
「トミー先生、明日わたしも見に行っていい?」
「うん、是非きてよ」
 トミーさんはやさしそうに言いました。
――じゃあ、パットさんと明日も会えるのか、ウフフ。
 ぼくは思わず口元が緩みました。
「あれは? 正太朗君、ビジネスはどうなった?」
 パットさんが訊ねてきました。
「コツコツとやっています」
 ぼくはそう言いましたが、実はこの数日間まったく何もしていませんでした。やらなければいけないと焦る気持ちはあるのですが、どういうわけだかまったくやる気が起きません。とことん追い込まれてお尻に火がつくまで“やる気”というやつは起きないのでしょうか。
「トミー、彼は大金持ちになりたいんだってよ。どうやったら金持ちってヤツになれるんだい?」
 ゲンさんがトミーさんに皮肉っぽく訊きました。
「大金持ちかあ・・・・、人生は金儲けのレースだって、神様が決めたんだったら、それに向かって突っ走っていけばいいだけだから簡単なんだけどさ、でも、そういうわけじゃないからね。お金はあくまでも生活のための一手段だってことをきちんと認識しておく必要があるんじゃないかなあ。そうしないと金儲けが人生の目的にされてしまって、大切なことを見失ってしまうから。若いうちに人生は何のためにあるのかって、よくよく考えた方がいいよ」
 トミーさんのアドバイスは哲学的なものでした。
「はい、よくよく考えます・・・・」
 ぼくは真剣な表情で深く頷きました。
「だから人生は何のためにあるんだよ?」
 ゲンさんが意地悪に突っ込んできました。
「え・・・・、いや・・・・、人並みに・・・・」
 ぼくは何も答えられませんでした。
「何だよ、人並みにって――」ゲンさんはしつこく攻めてきます。「正直に言えよ、スティーブ・ジョブズ先生みたいになりたいんだって。そんな大金持ちになる方法をおれが教えてやろうか」
「そんなものがあるわけないじゃないですか・・・・」
「資本主義を読み解けばあるんだよ。要するに借金をするんだ、メイッパイな。百万や二百万の話じゃない、ウン億の話だぞ。さらにその借金を担保にして借金をする、できるだけ、可能な限り」
「そんなに借金して何のビジネスをするんですか」
「馬鹿だなあ。ビジネスなんてメンドーなことするもんか。それで派手に遊ぶんだよ。いろんな有名人や権力者を巻き込んでな」
「破産するだけじゃないですか」
「債権者は、権力者や有名人が知り合いとわかると、さらに金を貸してくれるだろ。借金は何十億、何百億と膨らんでいく。それだけ借金がある奴が破産すると債権者も困るだろうから、債権者は“返せない”ことから目をつぶるようになる。債権者は債権者を紹介してくれ、さらに金を借りて遊んで浪費する」
「もう返さないんですか」
「もちろん。そうやって死ぬまで派手に遊ぶ。そうすれば金持ちになったも同然だろ、ハハハ」
 ゲンさんは愉快そうに笑うのでした。
「そんなの犯罪じゃないですか。何の参考になりませんよ・・・・」
 ぼくは呆れたように言いました。
「でも、それが資本主義って奴の正体なんだ。魅力的な夢を語って投資を募り、ビジネスして、利息を足して借金を返す。そんなまどろっこしいことをするんだったら、ビッグな夢を語って投資を受けるだけ受け、ただ遊んで何もしない。こっちのほうがシンプルだろ」
「“ヤルヤル詐欺”ですね」
「ま、詐欺と言えば詐欺なんだけどさ、本当の“経済的な悪”というヤツは金を貯めて使わないことにある。それは血液が循環しないで止まっているようなものだから。この世に使わないで放置されている金がどれだけあることか。金の半分以上は富裕層や巨大企業が持っていて、その大半の金がまったく動いていない。だからそういう奴の金をなんとか吐き出させて、社会に還元させるってことは大切なことなんだ」
「確かにそうかもしれませんが・・・・。でも、富裕層ってそもそも何に投資したがるんでしょうか」
「お金で買えるものはすべて持っているだろうから、子供じみた大きな夢に惹かれるじゃないのか。例えば、月面移住計画とか、大地を掘り進めて地球の裏側へ行くトンネル事業とか、海底のマグマを利用した永久発電所とか」
「自然環境を壊す巨大ビジネスをされるぐらいなら、借りた金で遊んでいてくれた方がよっぽどいいよね。水も大気も土壌も汚して、大型生物が生きてゆけない危険レベルになってるっていうのに、それでも “経済成長”なんて言って自然環境をさらに破壊していくんだから。息も吸わず水も飲まずに、金と利便性を求めてどうするんだろう・・・・」
 トミーさんが嘆くように呟きました。
「お金を右から左に移動させるだけで国家規模の私財を築いている奴らがいる一方、額に汗して働いている大多数の労働者が貧乏にあえいでいる。巨万の富がある奴らが権力を持ち、勝手な法を作り、法を守りましょうって、ずいぶんな世の中だよ」
「そうですねえ・・・・」
 ぼくたちがそんな話に夢中になっていると、パットさんがぼくの顔を心配そうに覗き込んで言いました。
「正太朗君、仕事は何時から?」
「あっ――」時計を見ると集合時間はとっくに過ぎていました。「遅れた!」
 初日から遅刻です。ゲンさんは半笑いでぼくを眺めて言いました。
「どういう言いわけをするかが勝負だぞ。もしかしたら、これは雇用者に強いインパクトを残すチャンスかもしれないからな」
「こういうのどう?」トミーさんもぼくをからかってきました。「電車が事故になったから走ってきましたって裸足で行くの。なんかよくわからないけど頑張った感じは出るでしょ」
「それいいね、両手に靴を持ってゼイゼイ息を切らしてさ」
 三人はぼくをネタにして大笑いするのでした。

    
 トミーさんのシェアハウスはわかりにくい場所にありました。街中から外れ、鬱蒼とした丘の中腹にキノコが張り付くように建てられている古びた民家です。雨の降る中、傘を差し、滑らないよう足元に気をつけて急な坂を上り、さらに階段を上ってようやくたどり着きました。
「よく来たね。後で皆んなでご飯を食べようよ。さっき捕ってきたんだ」
 トミーさんは台所でザリガニを茹でていました。
「これを食べるんですか・・・・」
 ぼくが恐る恐る訊ねると、
「これもね」
 と、バケツの中の大きなミドリガメも見せてくれました。トミーさんは自然農法で家庭菜園をやっている他、山や用水路などで狩猟採集もするようでした。
「お腹を壊さないのでしょうか・・・・」
「食品添加物まみれのコンビニ弁当より安全さ」
 トミーさんは自信満々言うのでした。そんなことを話していると、二階から小太り眼鏡の男性がノッソリと眠たそうに下りてきました。シェアハウスは客室が二部屋あるらしく、もう一方の部屋に住んでいる人でした。トミーさんが紹介してくれました。
「あ、彼ね、中国人のトントン、ユーチューバーやってる」
「――あ、新しい住人?」
 トントンさんが気だるそうにぼくを見つめて言いました。
「今日は内見にきました・・・・」
「あ、そう。ユーチューバーっていっても、おれの場合は登録者一万人ぐらいのカスみたいなもので、全然喰えていないんだけどさ。ユーチューバーというより、はっきり言えばニートだよ。アニメオタクのニートって思ってくれていい。親のスネカジリのどうしようもないニートだよ、ハハハ」
 トントンさんは自虐的なことを言って愉快そうに笑いました。使う言葉は汚いのですが裏表のなさそうな人に見えます。
「――コンチワ」
 雨の中、パットさんもやってきました。
「こんなところに家あるんだ・・・・。山小屋みたいなところね」
 パットさんは呆然とした表情で家の中を見回しています。
「今日は雨が降ってるから畑は見せられないけど、ま、取りあえず鍋パーティーしようよ」
 早い晩ご飯となりました。アメリカ人、中国人、タイ人、日タイハーフと、国籍がバラバラですが、親戚の家にきたようなアットホームな感じです。自由に生きている人たち特有の開放的な空気があり、一緒にいてまったく圧迫感を感じません。
「どう? ここ気に入った?」
「はい、とても気に入りました。今月の末に引っ越したいと思います」
 いつも何かを選択するとき、優柔不断で時間がかかるのですが、このときはなぜか即断していました。ぼくは、モダンでオシャレな生活ではなく、こうしたミドリガメを食べるような泥臭い生活を無意識的に求めていたのでしょうか。
「このキッチンとダイニングは自由に使える場所で、洗濯機や冷蔵庫も勝手に使っていいよ。引っ越しは私の軽トラを使っていいし」
 トミーさんは何から何まで親切にしてくださるのでした。
「正太朗君はどうやってトミーさんと知り合ったの?」
 トントンさんが訊いてしました。
「トミーさんとはコーヒーショップで知り合いました。ゲンさんという人に紹介して頂いて」
「あ、ゲンさんと知り合いなんだ――」トントンさんが意味深に笑いながら言いました。「あのオッサン、強烈でしょ。ニート詩人、いや、外ゴモリ詩人」
「先生のこと悪く言わないでよ」
 パットさんがゲンさんを擁護しました。
「先生?」
「そう私の日本語の先生よ。タイの大学にいたとき、日本語を習ったのがゲン先生だったの。とってもいい先生よ」
「あの人が先生か・・・・」トントンさんが小馬鹿にしたように言いました。「そのときも作務衣着て、下駄履いて教えてたの?」
「そのときはちゃんとした恰好、皺のないYシャツ着て、黒のスラックス履いてたと思う。教え方も上手だったよ。だけどどこかやる気がなさそうで、しょっちゅうアクビしながら教えていたから、日本ってそういう文化なんだろうって勝手に思っていたけど、日本に実際来てみたらアクビしながら教える先生は誰もいなかった」
「ゲンさんらしいですね――」ぼくは思わず笑ってしまいました。「ゲンさんって、隣人カフェ以外にいるときは何をしているんですか」
「隣人カフェにいないときは家の改築してるよ」
 トミーさんが教えてくれました。
「家の改築ですか?」
「私と同じようにボロ空き家をタダ同然で買い取って、一人でコツコツ改築してる。今も家の中でテント張って寝起きしているんじゃないかな」
「ゲンさんってそんな人だったんですか・・・・」
 詩人を名乗るぐらいだから、もっと典雅な生活を送っているのかと思っていたら、見かけ通りワイルドな生活を送っているようでした。
「本人から何も訊いていなかったの?」
「まったく知りませんでした」
「おれなんかさ――」トントンさんが言いました。「道であのオッサンと顔を合わせると、『お、デブのヒマ人、運動するか』って手を引っ張られ、大工仕事の手伝いさせられるぜ。だからおれはゲンさんから逃げ回ってるんだ」
「詩ばっかり書いているわけじゃないんですね」
「最近は『創作モードに入った』って、隣人カフェに入り浸っているけど・・・・。何を考えているのか、あの人、ホントわけがわからないんだよ」
 “わけがわからない”というのがゲンさんに対する皆んなの一致する意見でした。ゲンさんは粗野で横暴な一面と、詩を書く繊細な一面があり、どういう素性の人なのかと思っていましたが、タイで日本語を教えていたり、孤独に空き家に住んでいたりと、社会一般のレールから大きく外れており、多分ぼくと同様、“社会不適応”のケがあって、苦労して生きておられるのだろうと想像できました。
 宴が終わり、ぼくとパットさんはシェアハウスを出ました。雨はやみ、外は暗くなっていました。パットさんは歩きながらぼくの家族ことをいろいろと訊いてきました。タイ人の血を引く者同士、気になるのでしょうか。
「正太朗君は家族によく連絡するの?」
「いや・・・・、あまりしません。というかほとんどしません・・・・」
「そうなの? わたしは毎日連絡するよ。どうしてしないの?」
「いや、ぼくの家庭は複雑ですから・・・・。両親は離婚していますし」
「離婚していても正太朗君にとっては大切な親でしょ」
「ま、そうですが・・・・」
 ぼく自身、どうしてこう疎遠になったのか、よくわかっていません。
「お父さんはどこにいるの?」
「父は福島で働いています」
「会いに行かないの?」
「行ったことがありません。父とは中学生のときからでしょうか、かれこれ五年はまったく会っていません・・・・」
「家族なのになんか変な感じね」
「変ですかねえ・・・・」
「会って話したいと思わないの?」
「何を話していいんだか、よくわかりません・・・・」
「何を話していいんだかって、どういうことなんだろう・・・・」
 家族は自然な感じで離散したので、自分としては変と思わないのですが、確かに客観的に考えみると、家族のことを家族が何も知らないというのは異常なのかもしれません。特に父との関係は子供の頃から希薄で、口数の少ない父との会話は、生まれてから今日までの会話内容を原稿用紙にすべて記したとしても、十枚あれば事足りると思える程です。父とは一体どんな人間で、何を考えているのでしょう・・・・。
「ベンチで座ってもっとお話しましょうよ」
 公園の前を通りかかったとき、パットさんが提案しました。
「は、はい・・・・」
 ぼくたちは肩が触れ合う距離でベンチに座りました。夜の公園はシンと静まっていて、もちろん誰もいません。ぼくは女性と二人きりで話すのは初めてのことだったので、ドキドキしました。――ああ、こんなドラマみたいなことがあるんだなあ・・・・。ぼくは現実と夢の狭間におかれたような気持ちでした。
「正太朗君はお母さんが今タイのどこに住んでいて、何をしてるか知ってるの?」
「いやあ・・・・、何も知りません」
「知らないの・・・・。ダメじゃない、お母さんを大切にしなくちゃ」
 パットさんはとにかく家族思いな人でした。それはタイの文化なのかもしれません。
「連絡をしないのは理由がありまして・・・・、どうしてかと言いますと、母のラインは持っていますが、母は日本語の読み書きが上手くなく、ぼくはタイ語の読み書きができなくて・・・・、だから放ったらかしになっていまして・・・・。あ、そうだ、母からもらった文章があります。タイ語でなんて書いてあるのか・・・・」
 パットさんにそれを見せました。
「これはタイの住所よ。“パヤオ”っていうタイの北部の町の住所が書いてある」
「あ、パヤオは母の実家です。子供のとき聞かされました」
「お母さんに連絡してあげようよ。きっと喜ぶよ。私が打ってあげるから」
「えっ・・・・、今ですか?」
「うん」
 パットさんはぼくのスマホをタイ語設定にし、タイ文字を素早く打ち込んで送信しました。
「何て送ったんですか?」
「お母さん、元気?って、それだけ。――あ、返ってきた」
 母もスマホを眺めていたようでした。
「元気よ、正ちゃん、タイ語勉強したのって。ハートマークがたくさん入ってる。お母さん突然のことで興奮してるんじゃない」
 パットさんが笑って言いました。
「ぼくが自分でタイ語を書いてるなんて、信じているのかなあ」
 パットさんは何やら長い文章を作って再度送りました。
「何て書いたんですか?」
「今度タイに遊びに行きたいんだけど、お母さん、今どこに住んでるの?って」
「ぼくがタイへ?」
「正太朗君、どうせ行くでしょ」
「タイですか・・・・」
 タイへ行こうなどという大それたこと考えたことがありません。
「あ、きた――」すぐに返ってきました。「今バンコクのアパートで親戚の人と住んでるって。ツーリスト向けの健康マッサージの仕事をしてるんだって」
「お母さん、バンコクでマッサージの仕事をしているんだ・・・・。そんなのやったことなかっただろうに・・・・」
「正ちゃんいつ遊びに来るの?って訊いてきたから、まだわからないって送っておいたよ」
 二年近く会っていない遠くに霞んでいた母の姿が目の前に明瞭に浮かび、心がゆらゆら揺れるのを感じるのでした。

   
 ぼくはロクにお金もないくせに列車に飛び乗ったのでした。パットさんに家族のことを指摘され、ぼくの中に眠っていた何かが目覚めたのでしょうか。ぼくのような臆病者が衝動的に行動するなんて今までなかったことです。一昨日の晩、父に思い切って連絡したのですが、父は突然の電話に驚き――、いや、驚きを超えてウロたえたような声になっていましたが、ぼくは強引に父に会いたい旨を伝えたのでした。なぜ今、父に会わなければならないのか、それによって何が得られるのか、さっぱりわかりませんでしたが、なぜだか自分はそうしたのでした。
 昼過ぎに南相馬市の駅に着くと、駅の改札口の前で父が待っていました。
「あ、お父さん――」
 どれぐらいぶりに見る顔なのでしょうか、父は髪の毛に白いものが多くなって皺が深くなっていました。長い月日が過ぎ去ったことが感じられます。父はギコチない笑い顔をつくろい、ゆっくりと近づいてきました。
「正ちゃん、大きくなったね。大人になっちゃった。会わなくなって五年ぐらい経つんだから、そりゃそうか」
 父の照れくさそうな表情を間近で観察すると、顔の肌色が赤黒く変色し、少し疲れているように見えます。
「忙しいところをすみません、なんだか突然会いたくなりまして・・・・」
 ぼくが機嫌を窺うようなことを言うと、
「ハハハ、そうか」
 と、父は性急に距離を詰めてこようとせず慎重に応じました。お互いが無口な性格なので会話はすぐに途切れ、父はその気まずい間を埋めるように慌てた感じで言いました。
「なんか旨いものでも食べに行こうよ。ステーキでも食べに行こうか」
「は、はい」
 ぼくはそんな贅沢するのは申しわけないような気がして、「もうちょっと安い店で」と口から出かかったのですが、父の精一杯の好意を遠慮するのも失礼に思え、曖昧な返事をしたのでした。
「車で行くの?」
「そうだよ、会社の車だけど一日貸し切ったからどこでも連れてってあげるよ。行きたいところがあったら行ってね」
 父のやさしい口調は昔と変わっていませんでした。ぼくのことを一度も叱ったことも声を荒げたこともなく、いつも「そうか、そうか」と曖昧に笑って何も言わなかった昔の父そのままでした。
 ステーキハウスでの食事中でも、その後の観光中でも、二人の会話はまったく盛り上がりませんでした。ぼくは自分の中のモゴモゴと沈殿している気持ちを、どう言葉にしていいものか考えていましたが、父に対する気兼ねなのか、それとも不信感なのか、どうしても言葉になりません。父も同じような気持ちだったのか、「大学で何を勉強しているの?」とか「いい友達はできた?」みたいな、表面をなぞるようなことを訊ねてくるだけで、核心部分を避けているような感じでした。
「正ちゃんはギャンブルなんかしないよね。父ちゃんの趣味はパチンコぐらいしかなくて、ホントに駄目な人間だよ」
 車を運転しているとき、父がそんなことを言って力なく笑いました。そのときぼくは気づきました。自分の言い表せない気持ちとは、端的に言えば“お金”なのだと。だけどそのことを父に相談できそうにありません。
「今日は泊まっていくんでしょ」
「は、はい。そのつもりです」
「どこかホテルに予約してあるの?」
「いいえ、まったく・・・・」
「父ちゃんの部屋に泊まりなよ。部屋は狭いけど、客用の布団を会社から借りられるようだから」
「は、はい」
 夕暮れ時、スーパーで晩飯用の食材、――お寿司やら焼き鳥やらを大量に買い込んで、父の寮へ行ったのでした。テレビとちゃぶ台、冷蔵庫があるだけの四畳ほどの狭い部屋、壁のハンガーには数種類の作業服がかけられていました。父はタバコが好きなので、壁にはニコチンの臭いが染み込んでいます。
「――豪勢な料理だ。さあ、食べよう」
 ちゃぶ台の上に食事を並べ、父はワンカップの酒を飲みだしました。
「ああ、旨い」
 お酒の入った父はポツポツと本音を話し出しました。
「ホントに正ちゃんには苦労かけてきた。何にもしてあげられなかった。本当に申しわけない。父ちゃん失格だ。お母さんにも苦労ばかりかけてきた。本当に申しわけない」
 父は懺悔するのでした。
「いや、そんなことないよ。ぼくはお父さんが頑張って働いてくれたおかげで成長できたんだから、感謝しています」
 ぼくがそう返答すると、
「正ちゃんは立派だなあ。立派に育ってくれてよかった。それに引き換えオレはこんな歳まで何をやってきたんだろう・・・・。若い頃、本気を出せば何にでもなれるんだって、思い上がっていたけど、結局何者にもなれなかった・・・・。妻や息子に迷惑をかけるばっかりでホントに情けない・・・・。嗚呼、酔わないとやってられない。ごめんな、正ちゃん、一人で飲んで。父ちゃんはいつまで経っても馬鹿な酒飲みだ。もう一本頂くよ」
 父は眼に涙を溜めて、ワンカップの酒をグビグビと一気に飲み干すのでした。
「そろそろ寝ようか――」
 十時頃になると父は後片付けを始めました。
「明日も朝早くから仕事だから早く寝ないと。――そうそう、仕事の前に正ちゃんを駅に送らないといけないから五時には起きないとな。正ちゃん、起きれるか」
「はい、大丈夫です」
 狭い部屋に二枚の布団を並べて敷くと、スペースがまったくなくなりました。
「あ、測ったようにピッタリだ。じゃあ、電気消すよ」
 部屋は真っ暗闇になりました。ぼくは父に会った興奮のためか、知らないところにいる不安からか、目がキンキンに冴えて眠れそうにありませんでした。父の方からもいつまで経っても寝息が聞こえてきません。
「正ちゃん、もう寝たか」
 しばらくして父がささやくように訊いてきました。
「ううん、まだ寝ていません」
「そうか・・・・」
 しばらくの沈黙の後、父がボソボソと話し出しました。
「よかったよ、正ちゃんの顔見れて・・・・。毎朝目覚めると、子供の頃の正ちゃんの顔が必ず頭に浮かんできて、元気にしてるかなあって、ずっと思ってた・・・・。正ちゃんが小学一年生の頃かな、夏に公園にセミを捕りに行ったこと覚えてる?」
「いいや・・・・」
「父ちゃんは木の上ばっかり見ていたんだけど、正ちゃんは下を見ていて、石をひっくり返したりしていた。ある石をひっくり返したら、おっきなムカデが出てきてね、離れるように手を引っ張るんだけど、正ちゃんは捕まえたいって泣き出したんだ。だから父ちゃんがムカデを追って木の枝で動きを押さえると、正ちゃんはムカデの足を『一本、二本』って数え出すんだ。それを見てね、この子は大人になったら賢い学者さんになるぞと思ったんだよ」
「フフフ、学者さんになんてなれませんよ」
「そんなことはない。今日大人になった正ちゃんを見て、やっぱりあのときの直感は間違ってなかったって思った。知的な雰囲気が出てきているから。それか、立派なお坊さんになるのかなあ」
「お坊さん?」
「正ちゃんは子供の頃から他人思いのやさしい子だった。誰とも喧嘩をしないし、お母さんのお手伝いをよくするし、誰の悪口も絶対言わないし――、自分の子供ながら、なんてよくでいた子なんだっていつも感心してた」
「喧嘩が弱かったから、人と争いたくなかったんだと思う・・・・」
「いや、正ちゃんは生まれつき徳が高いんだ。この子の前世はお坊さんだっていつも思ってた。だから父ちゃんみたいな肉体労働者には絶対ならないよ。今日会ってそれは確信した」
 父はやみくもに褒めてくれるのでした。
「本当は、父ちゃんも家族の喜ぶ顔が見たくて、家族にたくさん仕送りがしたくて、福島に働きに出てきたんだ。頑張っていたんだけど、人間の弱さなんだな、ストレスが溜まってお酒ばかり飲むようになっちゃった。パチンコ通いもヒドくなるし、鬱の薬も手放せなくなるし・・・・。そしたら家族の喜ぶ顔じゃなく、悲しむ顔ばかり頭に浮かんできて怖くなって、家に帰れなくなっちゃって・・・・。最後はすべて放り出すという一番やってはいけないことをやってしまった・・・・。本当に申しわけない。父ちゃんはどうしようもない駄目な人間だ」
 父は胸の中のわだかまりを吐き出したのでした。
「今さら弁解したってどうしようもないんだけど・・・・。あ、こんなこと話していたら朝になっちゃう。もう寝よう・・・・」
 シンと静まりました。ぼくは父に背を向けるよう壁側に寝返りをうつと、無造作に山積みにされている父の蔵書の背表紙が見えました。文学、医学、心理学、社会学、民俗学、人類学、宗教学――、様々なジャンルの本の背表紙が薄っすらと見え、勉強家の父の一面を知ったのでした。
 まだ暗い明け方、父に起こされ身支度を整え、昨日の残り物を食べて腹ごしらえをし、車で駅まで送ってもらいました。父は車から下り、待合室まで見送ってくれました。田舎の早朝の待合室は誰もいません。
「こんなに早く来ちゃって、ゴメンね」
「いいえ、仕事があるんだから仕方がないです。いろいろありがとうございました」
 父は昨日会ったよそよそしい態度とは違い、穏やかな表情になっていました。
「正ちゃんから突然電話をもらったときは、心臓が止まるほどビックリした。福島に来たいって言うのを聞いてストレスを感じた。正直、来なくていいと思った。だけど、結果として会ってよかった。会って話ができて本当によかった。正ちゃんの顔を実際見たら、淋しい気持ちがパッと晴れた。本当に来てくれてありがとう・・・・」
 父はそう言うと、ポケットから封筒を出して、
「何にもできないけど、コレ、取っといて」
 ぼくはその封筒を無造作に受け取ったのでした。
「ありがとうございました。ぼくもいろいろ話が聞けてよかったです」
「いいえ、こちらこそ。また気が向いたらフラリと来てね。何にもできないけどさ。それじゃあ」
 父は数メートル歩き出し、何かを思い出したようにピタリと足を止めて振り返りました。
「お母さんに会ったら謝っといて」
 最後にしぼり出すようにそう言い、去って行きました。
――お母さんか。
 ぼくは母にも会わなければいけないのでしょうか。タイは遠いのです。バイト、ビジネスの手伝い、春季のゼミも始まるのです。 
「――ああ、何だったんだろう」
 列車に乗り込み、移りゆく車窓風景を眺めていると、父と会ったことが夢の中の出来事のように思えるのでした。何も考える気が起きなくボンヤリするばかり。ふっと父から受け取った封筒のことを思い出し、無造作にポケットに突っ込んだままの封筒の中身を確認すると、現金が入っていました。
――三十万円
 大金でした。ぼくは慌てました。父はぼくが来るということで、こんな大金を銀行から下ろしてくれていたのでした。嗚呼・・・・、胸が痛くなりました。今思い返してみると、ぼくは父に気の利いた言葉の一つもかけていませんでした。父は家族に対する責任感ゆえに鬱になり、家に帰ってこられなくなったというのに、ぼくは父にいたわりの言葉の一つもかけていませんでした。三十万円は父にとって大金に違いありません。もしかしたら貯金のすべてかもしれません。ぼくはそんなことをまったく考えもせず、軽率にホイと受け取っていたのです。
「三十万円か・・・・」
 ぼくは福島に来る前、父のことを記憶の中から消そうとさえしていました。だけど父はぼくのことをいつまでも大切に思ってくれていたのです。放射能除染という危険な労働で得た貴重なお金をポンとくれるなんて、そんなことを誰がしてくれるでしょう。赤の他人はそんなこと、絶対にしてくれません。
「ありがとうございます」
 ぼくは父に感謝の言葉を念じました。父の耳に届いてくれたらいいのですが・・・・。そのとき、ふっと思いました。幸せの意味ということを――。幸せとは、大きなものではなく、野心を満たすようなものでもなく、皆んなに自慢するようなものでもなく、アスファルトの隅に咲く小さな白い花のように地味で人知れないもの、そんなささやかなものではないだろうかと。自分の身の回りにいる人を助けたり協力したりして癒やしたりして、ちょっと笑顔にしてあげる、そんなささやかなものではないかと。
 手の中にある封筒に熱いぐらいのぬくもりを感じるのでした。

    
 ぼくは福島の菓子折りを持って、ゲンさんに会いに隣人カフェへ行ったのでした。
「なんだよ、憑き物が落ちたみたいなスッキリした顔して」
 ゲンさんはぼくの顔を一目見て、霊能力者みたいなことを言いました。
「福島に行ってきたんです」
「福島?」
「五年ぶりに父に会っていろいろ話をしてきました。これはお土産です」
 菓子折りを渡すと、ゲンさんは、
「お前はこういうことは気が利くんだな。で、これは甘いのか」
「はい、餅菓子です」
「要らねえ、おれは甘いものは食べねえんだ――」突っ返されました。「砂糖ってヤツはネチネチと誘惑してきてしつこいだろ。だからやめたんだ。おれは禁糖主義者なんだ」
 ゲンさんはどこまでも自由な人なのでした。
「そうかあ、父ちゃんに会ったのか。そこで強烈な一撃をもらったってわけだな。そんな顔になるんだから」
 ゲンさんはトボけたような顔をしながら本質を見通してくるから油断なりません。
「ゲンさんにいろいろアドバイスを頂いたので、その御礼と思ったのですが」
「アドバイスなんかしたっけなあ・・・・」
「本当にゲンさんのお陰だと思っています。ぼくを変えてくれました。今週中には引っ越しもする予定です」
「トミーのところに行くのか」
「ええ、この前見学に行ったら、ザリガニとミドリガメをご馳走して頂きました」
「さすがトミー、容赦ないな。あそこに行けばもっと逞しくなるよ」
「ぼくもそう思いました」
 そのときかばんの中のスマホがブーブー震えました。ぼくはその音を察知したのですが聞こえないふりをしました。
「いろいろ考え、ぼくはもっと強くなる必要があるかと・・・・」
 話している途中、またスマホが震えました。
「なんかブーブーいってるぜ」
 ゲンさんに気づかれてしまいました。
「あ、これは・・・・、多分ビジネス仲間からだと思います・・・・」
「出ないのか?」
「ま、まあ・・・・」
 ぼくは彼らの連絡をずっと無視していました。体が拒否反応を起こしてしまい、どうしても見られなかったのです。
「なんかモメたのか」
「いや、モメたわけではなく・・・・、なんか怖くて・・・・」
「ハハハ、体の正直な対応だな。だけど、逃げ回ったってしょうがないだろ」
「ま、まあ・・・・」
「どれ見せろよ。おれが代わりに読んでやるよ」
 ゲンさんは、ぼくのラインの未読スルーしている大量のメッセージを順番に開けて読み出しました。
「仕事の催促ばかりだな。お前やっているのか」
「ぜんぜんやっていません。というか、やる気が起きません・・・・」
「そうか、ま、人間なんてそんなもんさ。ロボットじゃねえんだから。――日が経つごとに奴らの言葉がムキ出しになってきたぜ。ボロカス言ってきてる。正体を現した感じだ」
「ぼくが悪いのですが・・・・」
「おっ、今度は『訴える』って言ってきた。タダ働きさせておいてコイツ何を言ってるんだ。弁護士を雇う金があるんだったら、賃金払えって話だよな」
「そんな怖いことになってるんですか・・・・。どうしましょう・・・・」
 ぼくは震え上がりました。
「放っとけよ。お前には何の罪もないよ。もしお前に言いがかりをつけてくるようだったらおれに言え。おれがそいつらをブン殴ってやるから」
「そんなことしないでください。警察に捕まりますから」
 ゲンさんはぼくのスマホをポンとテーブルに置いて、フーと息をつきました。
「どうしましょう・・・・」
「スマホ断食しろよ。情報なんて見なきゃ存在していないも同じだから」
「スマホ断食ですか・・・・」
「まずは一か月も断食すれば気分がスッキリすると思うぜ」
「毎日習慣的に見ているものですから難しそうですが、やってみます。四日後ぐらいから」
「今からじゃなく、どうして四日後からなんだ?」
「引っ越しがあるので、そのときは何かと連絡を取らないといけませんから」
「なかなか慎重だな。その慎重さんがお前の長所なんだろうけど、それがお前を苦しめているともいえる」
「それ以後は絶対最低一か月はスマホを見ません。ゲンさんに誓います」
「おれに誓われてもなあ・・・・。お前が勝手にやれよ」
「でも・・・・、スマホ断食してぼくの気持ちから彼らの存在が消えたとしても、彼らのぼくに対する怒りは消えないと思いますが・・・・」
「お前が奴らを完全に忘れてしまえば、そんな考え方も変わっていくさ」
「じゃあ、会ってしまったら・・・・」
「逃げてりゃいいだろ」
「逃げるっていっても・・・・」
「ま、この詩を読めよ。最近書いたんだ」
 ゲンさんはまた自作の詩を見せてくれました。

    遠くへ
   
 どこか遠くへ行きたいな
 恥ずかしくって恥ずかしくって
 どこか遠くへ行きたいな
 申しわけなくって申しわけなくって

 人の誰もいない
 広々とした野原の
 大木の木陰の下
 蝶々がヒラヒラ翔んでいて
 小鳥がピーチクさえずっていて

 そんな遠くへ行けたなら
 こころは浄化されるだろうか
 愚行は精算されるだろうか

「どうだスッキリしたろ」
 ゲンさんは得意げに言いました。
「どこか遠くへ、か・・・・。遠くへ行けばいいってことでしょうか」
「そんなこと書いてあったか?」
「――コンチワ」
 会話中、パットさんが店に入ってきました。ぼくはゲンさんとの会話をさっと打ち切って、パットさんに合掌をしてタイ式の挨拶をしました。
「サワディーカップ、お疲れさまです」
「正太朗君、来てたんだ」
「パットさん、ちょうどよかった。これ福島のお土産です。父に会ってきました」
「ありがとう、嬉しいなあ。正太朗君、お父さんに興味なさそうだったけど、会いに行ったんだ」
「パットさんのアドバイスが心に響いて会いに行きました。会ってよかったです」
「それはよかった」
「パット、コイツは近々トミーの所へ引っ越しもするんだってよ」
 ゲンさんが横から会話に入ってきました。
「うん、知ってるよ。で、いつ引っ越すの? 私も手伝うよ」
「なんだよ、お前たち仲がいいんだな。もしかして、付き合ってるのか?」
「か、か、からかわないでください」
 ぼくは顔が赤くなるのでした。
「そこまで自分を変えたいんだったら、大学も辞めろよ」
「いや、それは・・・・。社会的な信用は大切なので・・・・」
「相変わらずケツの穴が小さいな。前も話したろ、猫も杓子も大学に行く時代、資本主義がマネーゲームと化している時代、貧富の格差が極端になっている時代、そんな時代に学歴に頼ってどうするんだよ」
「じゃあ、どうすればいいのでしょうか・・・・」
「座り心地のいい椅子は自分で作るんだよ。トミーみたいに」
「トミーさんみたいにですか・・・・」
「考えてみろよ。トミーは誰にも依存していないだろ。食べ物は自分で作るか、採ってくる。現金収入は、家賃収入、英会話のレッスン料、講演料、原稿料――。こういうことだ」
「ああ、確かに・・・・。でも、ぼくにそんなことができるでしょうか・・・・」
 そのときまたラインにメッセージが入ってきました。またビジネス仲間からの脅しかと思い、怯えながら画面をそっと覗くと母からでした。
「なんて書いてあります?」
 パットさんに読んでもらいました。
「いつタイに来るの?って」
 パットさんが母にメッセージを送ってから、頻繁に母からメッセージがくるようになっていたのですが、ぼくはタイ語が読めないのでそれをスルーしていました。そのことをゲンさんにも説明しました。
「じゃ行けよ、ちょうどいいじゃねえか。ビジネス野郎からも離れられるだろうし」
「あ、確かに・・・・」
 ぼくはそのときチカっと運命のようなものを感じたのでした。ぼくには父からもらった軍資金があるのです。
「で、でも、ぼくが海外なんて・・・・、そんな遠くへ、どうやって行ったらいいかわかりませんし・・・・」
「大丈夫よ。簡単だよ」
 パットさんが格安チケットの買い方をレクチャーしてくれました。
「意外と安く行けるものなんですね。新幹線と変わらない」
「LCCだからね」
 ぼくはその場の勢いでポチッとクリックして航空チケットを購入してしまったのでした。
「お、買ったのか。父ちゃんに会ってこんなスッキリした顔になったんだから、母ちゃんに会ったらスッキリを通り越して空を飛べるようになってるかもしれないぞ」
 ゲンさんはそう言って笑うのですが、ぼくはそれがまんざら冗談とも思えず、真剣に空を飛べるほどの勢いを胸の奥に感じるのでした。

     八
 ぼくはトミーさんにテレビは絶対に持ってこないよう強く言われました。トミーさんはどうしてもNHKの受信料を払いたくないようなのです。他の電化製品に関しても、このシェアハウスはソーラー発電による電気しかないので電力不足になって使えないようでした。しかし冷蔵庫も電子レンジも共同のものを使用すればいいので不便はないとのことです。
 トミーさんに軽トラを借り、パットさんにも手伝ってもらって引っ越しは難なく終えました。引っ越しは業者さんに頼むものという観念があったのですが、何のことはない自分でも簡単にできたのです。荷物を移動させるだけですから当たり前といえば当たり前のことですが、ぼくはそんなことすら知りませんでした。
 ここに引っ越してきて知ったのですが、トイレがすこぶる強烈なのでした。便座の下にバケツが置いてあり、そこに直接排泄物を入れるというシステムでした。排泄後は“便”におがくずをかけて臭いを消し、拭くときは葉っぱを使います。どうやらその排出物は庭のコンポストで一年ほど熟成させた後、畑の肥料に使いたいらしいのです。それを聞いたパットさんは、「私はココは絶対ムリだわ」とドン引きしていましたが、ぼくはそのことに関してはさして不快に思えず、むしろ生態系のために自分から率先して協力したいという気持ちになりました。
「畑を紹介するよ」
 トミーさんに言われて外に出ました。トミーさんは自分のお気に入りの自然農法の畑をどうしても見せたいようでした。斜面を問わず周辺の空いているスペースはすべて畑になっているとのことですが、素人目には雑草が生い茂っているだけで、どこに農作物が植えられているのかわかりません。これがトミーさんの実践する無肥料、無農薬の自然農法なのでした。トミーさんにいわせれば、雑草が生えていたり、虫がいたりすることが重要なようで、それによって土に細菌が繁殖し栄養補給をしてくれ、さらには、作物自身が虫や雑草に打ち勝たねばという意志が芽生えることによって丈夫に育つようです。
「この葉っぱをゆっくり引っ張って」
 葉っぱを引っ張ると、土から大根やカブが出てきます。
「カメラ回していい?」
 パットさんが言いました。なんでもパットさんもトントンさん同様、最近ユーチューブデビューしたようで、気が向いたことは何でも撮っておきたいようでした。ぼくは、パットさんとトミーさんが作物を収穫したり話したりする様子を撮影する手伝いをしました。
「カラスとかに食べられたりしないんですか」
 パットさんの質問に対し、トミーさんは、
「そんなことしたら撃って食べてやるよ」
 と笑いながら答えていました。トミーさんが言うと冗談だか本気だかわかりません。
「かわいそう」とパットさんが言うと、
「それが生きるということさ」
 トミーさんは、生物が生きるということは命のやりとりの上に成り立っているということを理屈ではなく体験として深く認識しているのでしょう。小さな言葉でしたが、重く胸に響きました。
 野菜を収穫した後、この前と同様、収穫した野菜を使った鍋パーティーとなりました。今回のタンパク質はカエルらしいのですが、数が捕れなかったらしく、どこに肉が入っているのかわからないあっさりした味つけになっていました。
「実は明後日、タイに行くことになりまして早速留守になります」
 ぼくはトミーさんに報告しました。
「あ、そう。お母さんに会いに行くの?」
「はい、二年ぶりに会います」
「それはよかったね。タイはね、私も住んでいたことがあるから知ってるんだけど、中毒になったみたいにタイを好きになって帰れなくなる人がいるんだ。それをチマタでは“タイタイ病”っていうんだけど、実は私もゲンさんもタイタイ病に罹って帰れなくなったことがある。一か月以内にはちゃんと帰ってきてね」
「タイタイ病ですか・・・・。そんなに長くいませんから安心してください。十日の予定です」
 食事が終わると、パットさんが帰るというので、夜道の安全を考慮してぼくに送らせてもらいました。
「なんかぼくは人間が変わってきたようなんです」
 ぼくは歩きながらパットさんに話しかけました。
「どう変わってきたの?」
「ぼくはこんな風に気軽に人と話したりできなかったんですが、なんか自然にできるようになってきたんです」
「そうなんだ」
「見知らぬ人と話すとすぐにお腹が痛くなったんですけど、それもまったく起きなくなって」
「強くなったんだね。――あ、そうだ、お母さんからなんか連絡あった?」
「何かきてます?」
 パットさんに自分のスマホを見せました。
「特に何もないよ。お母さんに飛行機の到着時刻を連絡しておいたほうがよさそうね」
 パットさんはタイ語でメッセージを送ってくれました。
「あっ、返信がきた。当日空港に迎えに来てくれるらしいよ」
「あ、それはよかった」
「お母さんに会ったら甘えるの?」
「もうぼくは成人した大人ですから、そんな甘えるようなことは・・・・」
「でもタイでは、息子が母親に愛情を示すことは変じゃないよ」
「へエー、そうなんですか」
「こんな風に――」
 パットさんはフザけた感じで、ぼくの腕を抱えるようにして体を擦り寄せてきました。
「ウッ・・・・」
 女性慣れしていないぼくは、今までだったら恥ずかしくって、いや恥ずかしさを通り過ぎて恐怖すら感じ、そのまま走り出したかもしれませんが、今のぼくはゲンさんとトミーさんからの影響からなのか、“野生性”が活性化してるようで、逆にパットさんの腕を掴んで彼女の体を引き寄せたのでした。パットさんの顔が間近に迫り、ぼくはパットさんの体温と匂いを感覚器官を全開にして吸収しました。
「痛たいよ・・・・」
 パットさんの小さな声が聞こえ、ハッと我に返って力を緩めました。
「あ、あ、す、すみません・・・・」
 なんと乱暴なことをしてしまったのでしょうか。ぼくはパットさんから後退りし、深々と頭を下げて謝罪しました。
「フフフ・・・・」
 パットさんはぼくの怯えた様子を見て笑いだしました。
「もう見送りはここでいいよ。タイで何かあったら連絡してね」
 パットさんはそう言い、手を振って離れて行きました。パットさんは怒っていないようでした。まさに彼女は天使なのでした。離れていく天使を見送っていると、再びぼくの中の野生性が燃え上がってきてパットさんを追いました。
「あのう・・・・」
「何?」
 パットさんが足を止めて振り返りました。
「あのう・・・・」
「だから何?」
「あのう・・・・」
 ぼくはゆっくりとパットさんに近づきました。
「パ、パ、パットさんのこと、好きになってもよろしいでしょうか」
 ぼくは思い切ったことを言ってしまいました。心臓がハードロックのドラムのように速まっています。
「好きになってもよろしいって・・・・、どいうこと?」
 パットさんはぼくの日本語を文法的に考えてしばらく間をおき、ぼくの表情を見てポッと頬を赤らめました。
「何よ、その変な言い方は」
 フフフと照れくさそうに笑った瞬間、ぼくのホッペに素早くチュッとしてきました。
「タイから帰ってきたら連絡してきてね。絶対だよ」
「は、はい・・・・」
 パットさんは小走りで去って行きました。
「タイから帰ったら連絡か・・・・」
 ぼくはフワフワした足取りで、夜道をどこまでも遠回りして歩いたのでした。

   
「どこか遠くに行きたいな・・・・」
 ぼくは初めて乗る飛行機の中でゲンさんの詩を口づさんでいました。遠くに行くこと――、以前のぼくだったら、それは恐怖以外の何ものでもなかったのですが、今のぼくは違いました。タイで何が起きるのか、さっぱり予測がつきませんが、そんな状況が心を大いに刺激してくるのです。乗客が寝静まる機内、ぼくは一人パッチリ目を開けて興奮していました。
 飛行機は空港に着陸し、ぼくはタイの地に降り立ちました。人波に押し流されるように入国審査や税関チェックを抜け、広いロビーに出てきました。
「――さて」
 キョロキョロと周りを見渡しても母の姿はありません。取りあえず両替所で両替をしていると、「――正ちゃん」と声が聞こえたような気がし、振り返ると母が遠くから手を振っていました。異国で見る母の姿――、母は日本を出たときより幾分ふっくらしているように見えます。重そうなお尻を揺らしながら駆けてきました。
「ああ、正ちゃん・・・・」
 母は体当りするように抱きついてきて、人目を気にせず涙を流しました。思えば母との別れは二年前、ぼくが高校を卒業してすぐのことでした。空港まで見送りに行った日、「正ちゃん元気でね」と消え入るような声で言い、ハンカチで涙を拭きながらしょんぼりと去っていく母の姿が思い出されます。あのとき、母とはもう一生会えないのではないかと思ったものでした。
「昨日、正ちゃんに何回もメッセージ送ったのに全然返信がないから、どうなっているんだって心配してたのよ」
「あ、ゴメン見てなかった。最近スマホ見ないようにしてたから。それにお母さんからメッセージがきてもタイ語が読めないから」
「えっ、読めない? じゃあ、あのタイ語は何?」
「あれ、実は、タイ人の友達がぼくのフリしてメッセージを送ってたんだよ」
「あれ友達だったの、ヤダ・・・・、正ちゃんのイジワル・・・・」
 母はそう言って、ぼくの体をベタベタと触ってくるのでした。
「今日はバンコクを観光しましょ。お母さんね、仕事休みにしたから、どこでも連れて行ってあげる」
 空港からタクシーで母の住んでいるアパートへ行き、荷物を置きました。アパートはワンルームの小さな部屋で、一緒に住んでいる親戚の人はぼくが来るということで、今晩は別のところに泊まってくれ部屋を空けてくれたようでした。
 街を歩くと南国の日差しが強烈に照りつけてきました。日本との極端な気温差もあり、汗がとめどなく流れてきます。排気ガスとクラクションの音が相俟って、「タイに来たんだ」という実感が湧いてきました。
 チャオプラヤー川の水上船を使って移動し、キラびやかなお寺を拝観しました。タイの仏様は金色に装飾された台座の上にゴロンと悠長に寝転んで笑っていらっしゃって、ぼくに「自然体でいていいんだよ」と語りかけてくださっているようでした。
 足マッサージを受け、フードコートで麺をすすり、市場でタイの食材を覗き見し、緑豊かな公園でスナックをつまみながら池の鯉を眺め――、一日で様々なところを巡りました。母は混沌とした街の空気にひるむことなく、表通りも裏通りも縦横無尽に案内してくれました。日本にいたときの母は、どこか頼りなく遠慮がちに小さくなっていましたが、ホームグラウンドにいる母は別人のように堂々とし、水を得た魚のように生き生きとしていました。
 晩御飯は、香辛料の効いた美味しいシーフード料理を食べて、部屋に戻ったときは夜の九時を回っていました。昨晩は飛行機内で過ごし、今日は朝から一日中観光し、もうクタクタです。水シャワーを浴びて汗を流し一日の疲れをとりました。
「正ちゃんがベッド使って」
 母に言われました。部屋にはベッドが一つしかないので、どちらかが床で寝なければなりません。しかし、もちろん、若者の自分がそんな言葉に甘えるわけにもいかず、ぼくは「床で寝てみたいよ」と言って、筵を敷いた床の上に横になりました。硬いタイル張りの床は腰や肩が痛み、寝心地がよくありません。眠ってしまえば痛みも感じないだろうと思いましたが、母はぼくのギコちない寝姿を見て「それじゃあ、寝れないよ」と、ベッドを替わってくれました。母の前では、ぼくは何歳になっても甘えん坊の子供なのでした。幸いなことに母はそんな地べたの生活に慣れているのか、固い床の上でもラクそうに横になっていました。
「タイの一日はどうだった?」
 母は、部屋の明かりが消されても話が止まりません。
「いろんなことがありすぎて、言葉がまとまらないよ」
 ぼくがそうこたえると、
「正ちゃんは昔からそうだね。何にも話せないところが変わらないね」
 母に笑われました。
「たくさん歩いて足が疲れたよ」
「お母さんも疲れた。でも正ちゃんは丈夫になったね。子供の頃、体が弱くて病気ばかりしていたけど、こうして一人でタイまで来れて、観光できるようになったんだもの」
「お腹はたびたび痛くなるけどね」
「まだ痛くなるの・・・・」
「普段は大丈夫だよ。全然問題ないよ」
 母は過剰に心配するので、迂闊に正直なことは話せません。
「お金は大丈夫?」
 母の慎重な声の出し方から、このことを一番気にしていることが伝わってきました。
「あ、うん・・・・、頑張ってバイトしてるから普通に生活してるよ・・・・」
 本当は貧乏のドン底であえいでいて、さらに奨学金が打ち切られたなんて、口が裂けても言えそうにありません。
「大学はちゃんと行ってる?」
「もちろん行ってるよ。頑張って勉強してるよ・・・・」
 休みがちになっていることも決して話してはいけません。ぼくは母を安心させるため、ビジネスのことを話そうと思いました。思い出したくもないことなのですが、ビジネスのことを話せば、いかにもデキる大人のようでカッコつけられると思ったからです。
「それに今、ビジネスもやってるんだ。日本酒を世界にプロデュースするビジネスだよ。近々会社を立ち上げる予定なんだ」
「ビジネスを? 正ちゃんがそんなこと? スゴイわねえ。オフィスはどこにあるの? きれいなところ?」
 母は興味津々になって細部を深堀りしてきたので、マズイと思いました。
「まだ正式な会社になっていないし、メンバーもぼくを合わせて四人しかいないから、そんなに期待するようなことでもないんだけどさ・・・・」
 必死でゴマかしました。
「正ちゃんは将来お金持ちになって、お母さんに大きな家と車を買ってくれるのかなあ」
 母は物質的な繁栄を求めるゲンキンなところがあり、それが露骨に現れました。そんなに期待を抱かせても、ぼくは決して“お金持ち”になんかなれそうもないので、ハードルを下げさせなくてはいけません。
「でも、多分、ぼくはずっと貧乏なままだよ・・・・。正直言えば、詩かなんか書いてノンビリ暮らしたいんだ・・・・」
「詩って何よ、フフフ」
 母は冗談ととって笑うのでした。
「ああ、眠くなってきちゃった。正ちゃんともっと話したいけど・・・・」母は安堵したように深く息をつき、「久しぶりに日本語を話して日本に戻ったみたい・・・・。福島に逃げたアイツのせいで、日本を飛び出したけど、正ちゃん元気かなあ、悪いことしたなあって、いっつも心配だった。正ちゃんに会えて、夢見たい。また日本に行きたくなってきた。美味しいラーメンといなり寿司を食べたくなってきた・・・・」
 母は半睡の状態で、ポロッと父に対する恨みをこぼすのでした。父は決して逃げたわけではなく、むしろ責任感ゆえに精神を病み、帰って来れなくなったのに、そんな大事なことをぼくは説明できないのでした。
 翌日、夜行の寝台列車に乗ってタイの北部へ移動しました。母の実家のパヤオへ里帰りです。田園の集落にある母の実家に着いたとき、お昼はとうに過ぎていました。質素な高床式の家に祖母が一人で住んでいて、ぼくは祖母に初めて会いました。皺だらけの祖母はぼくの腕をギュッと握ってきて、「ショーチャン、会いたかったよ」と言って涙を浮かべました。母からぼくのことをいろいろ聞かされていたようです。
 その晩はどこからともなく人が大勢集まってきて、ご馳走が用意され、パーティーになりました。母は三人姉妹の真ん中で、姉と妹がおり、その子供たち、いわゆるぼくの従兄弟がたくさんいることを知らされました。
「お母さんのお姉さんの名前はミント、地元で結婚して子供が三人いるのよ。皆んなもう結婚している。彼女は長女のジョイ、彼は長男ボイ、彼は次男キック――。あの人は死んだおじいちゃんの兄弟の息子さんのゴル、彼女はその奥さんメグ。お母さんの妹のパールはバンコクに住んでいて、子供が二人いるんだけど離婚しちゃって、その二人の子供は・・・・」
 親戚関係の人たちの説明をいっぺんに受けても、名前と顔が覚えにくく、まったく頭に入ってきません。ただ一つ共通点としてわかったことは、皆さん人生でどこかツマズいているということ。離婚したり、怪我をしたり、会社をポッと辞めて無職のままブラブラしていたり――。他にはゲイの方、“心は乙女で、体は男性、外見上は女性”の方もいて、タイではそんなことは特別なことではないらしく、彼女自身も劣等感を抱いているようには見えず、大きな声でしゃべったり笑ったりしていました。一般的にいわれている“普通の人生”とは何なのか、ツマズかない人生は実現可能なものなのか、いろいろ考えさせられるのでした。
 母はお酒を飲んで気持ちが高揚したのか、そんな親戚一同に、ぼくのことを有名大学に通う成績優秀な賢い学生で、すでにビジネスもしていて、将来は大富豪になるだろうなどと言い散らすのでした。そんな嘘ッパチを信じられたら困ると、
「ぼくはツマらない人間なんです」
 タイ語で正直なところを釈明するのですが、そのタイ語がどう聞こえるのか、皆はゲラゲラと笑い出すのでした。
――ピピピ、チュチュチュ、ゲコゲコゲコ
 毎朝、鳥たちのさえずり声で目を覚まします。ぼくは祖母が裏の畑で農作業をしているのを見かけると率先して手伝いました。祖母は「ショーチャンはいい子だ、いい子だ」と過剰に褒めてくれます。道を散歩すれば、ガイジンのぼくの噂が村に広まっているらしく、子供たちからも「ショーチャン、ショーチャン」と声をかけられます。ぼくの顔を見かけた近所の人たちは「お入り、お入り」と家に招いてくれ、ぼくがツタないタイ語で何か話をすると、皆んな大仰に笑ってくれます。そんな一日一日がゆっくりと流れていくのでした。この田舎に数日いるだけなのに、長い期間暮らしているような気分です。日本の所謂“現実生活”というもの、――満員電車に乗って学校へ行き、コンビニ弁当と抹茶スイーツを食べるような生活が、ここから見ると、まるで映画の中の出来事のように思えるのでした。
 母も、誰彼かまわずおしゃべりをし、タイ料理を作り、楽しそうでした。思い返せば母は日本にいるとき、特に父が帰ってこなくなったとき、パートの仕事を掛け持ちして働きまわり、今思えばボロ雑巾のように疲れ切っていたはずですが、それでも不貞腐れることなく頑張ってこれた理由がわかった気がしました。それは母には故郷があって、帰れば迎え入れてくれる仲間がいたからではないかと。心から安らげる故郷がある人は精神的に追い込まれても踏み耐えられるのではないでしょうか。
 この日、中庭のマンゴの木陰の下、石のベンチに座って、鶏の親子がピヨピヨ鳴きながら歩き回るのをボンヤリと眺めていました。鶏の親子は何を思ったのかぼくの足元に寄ってきて、ぼくの足にすり寄せるようにして動きを止めました。鶏の体温のぬくもりが足にじんわりと伝わってきます。その刹那、ぼくは変性意識状態に陥り、脳を突き抜けるような幸福を感じたのでした。
――何だろう、この至福の気持のよさは・・・・。
 しばらく恍惚となりました。ハッと我に返ると足元にいたはずの鶏の親子は遠くを歩いていました。不思議な体験でした。
 祖母の家での一週間は、またたく間に過ぎていきました。最後の日だというので、この日は母と菩提寺へお参りに行きました。このお寺は修行僧が見習い僧も含めて十人ほどの小さなお寺で、本堂で僧院長から直々にお経を唱えてもらいました。母によれば、ぼくの健康を祈って頂いたようです。
 儀式が終わった後、寺の庭の木陰で母と向い合せで椅子に座って休憩をしていると、そばに汚らしい野良犬が寄ってきてゴロンと呑気に横になりました。
「これはお寺の犬なの?」
 母に訊ねました。
「誰の犬でもないよ。勝手にお寺に住み着いているんじゃないの」
 あっけらかんとしたものです。誰かに飼われているわけでもなく、完全な野良犬でもなく、微妙な立場の犬のようでした。どうやら道端の野良犬でいるよりも、お寺にいた方が安定してエサをもらえるというので住み着いているようでした。それに僧侶は『殺生してはいけない』という戒律があるので、犬は身の安全が確保できるようです。ペットとして生きればエサが充分に与えられ長生きできますが、自由がありません。野良犬として生きれば自由は得られますが、常に飢えの苦しみにさいなまれます。このお寺の犬はペットでも野生でもなく、両者のいいとこ取りで賢く生きているようでした。
「お前はエライなあ。おれなんかお国から奨学金というエサをもらっていたけど、ビジネスに頭を突っ込んだら、エサをもらえなくなっちゃったよ。両者の悪いとこ取りだ・・・」
 犬にボソッと話しかけたらその言葉を母が聞いていたらしく、いつもは呑気そうな母の顔色がサッと変わりました。
「えっ、どういうこと? 奨学金、もらえてたんじゃないの?」
「あ、あ、あ・・・・、実は、単位を取り損ねて、停止されちゃったんだよ・・・・」
 ぼくは馬鹿正直なところがあり、嘘をつくのが苦手なのでした。
「それでどうするの? 卒業できるの?」
「卒業はするつもりだよ・・・・」
 母は大学を中退しているので、学歴に対する劣等感があり、どうしてもぼくに学位を取らせたがるのでした。学位を持っているというのはタイではステータスなのです。
「バイトでやっていけるの?」
「バイトもするけど、それだけでは大変だから、教育ローンでお金を借りるんだよ」
「借りる? 借りるっていくらぐらい?」
「二百万ぐらいかな」
「二百万・・・・」母の表情が固まりました。「それはダメよ! 借金は絶対ダメ!」
「ダメも何も、もう契約したから」
「えっ・・・・」
 母は目を白黒させました。どうやら母は借金に対するトラウマがあるようでした。母は日本へ出稼ぎに来る前、チェンマイで大学に通っていましたが、日本で働き口があると知り、いてもたってもいられなくなって大学を辞め、親戚中から借金をして日本へ来たのです。父に知り合う前の三年間は働き詰めで、結婚してからもバイトを続け、苦労に苦労を重ねてようやく借金を返済できたのでした。
「正ちゃん、帰りの航空券の日付け、変えられる?」
 母はパニック状態になっていました。
「いや、知らない・・・・」
「電話してみる」
 母は航空会社に電話を入れ、日付変更が可能と知ると、勝手に三週間後に日付けを変えてしまいました。
「どうしてそんなことするの・・・・」
 ぼくは唖然として言いました。
「正ちゃん、ゆっくり考えよう」
「何を考えるの・・・・」
「いざとなったらタイに逃げよう。正ちゃんは半分タイ人だからタイ人になれるよ。タイに逃げればもう借金取りは追ってこれないから」
「そんなことできませんよ・・・・」
 母は頭がおかしくなってしまったのでしょうか、常軌を逸しています。母は鋭い眼光でぼくを睨みつけ追求してきました。
「でも、正ちゃんはどうしてお金がないのにタイに来れたの?」
「実は・・・・、父に会って・・・・、お金を援助してもらいました」
 ここでもぼくは愚直に本当のことを言ってしまいました。
「アイツ、私にはお金を止めたくせに・・・・」
 母は怒りが爆発し、声が大きくなりました。母は感情が高まると、どうにも抑えが効かなくなるのです。横で寝ていた犬はビックリして吠えだしました。
「お母さん冷静になって。お父さん病気だったんだよ。苦しくなって仕事ができなくなって。だから帰ってこられなくなったんだよ」
「そんなの私は聞いてないよ。アイツ、何を訊いても黙ってた」
 母は暴れ出さんばかりです。
「お母さん、落ち着いて。ぼくはどうにかなるから。友達もいるし」
「そういう問題じゃないわ。きっと正ちゃんはイイ子だから悪霊に取り憑かれたのよ。悪霊が憑いたから、あの男に会ったり、借金したり、単位が取れなくなったりしたんだ。正ちゃん、悪いこと言わないから出家しよう」
「出家?」
「タイでは出家は人生の転機に皆んなするの。――正ちゃん、もう一回、僧院長に会いに行きましょう」
「ちょっとお母さん、何を言ってるの、冷静になって」
「正ちゃんこそ冷静になりなさい」
「ゴメン、お腹が痛くなってきた・・・・」
「ほら、やっぱり悪霊だ。大変だ・・・・」
 母はどこにそんな力あるのか、ぼくの手を強く握ってグイグイと引っ張って、また僧院長の前に連れ出しました。出家の話を聞くと、ちょうど明日が出家の日で、他に二人の人が出家するようでした。
「うちの息子も出家させたいのですが、どうか面倒をみてやってください」
 母は僧院長に深々と頭を下げるのでした。
 
    十 
 タイの仏教は”上座部仏教”といい、原始仏教の形態をそのまま受け継いでいるとされている仏教です。上座部仏教は万人に門が開かれており、出家の儀式に参加すれば誰でも僧侶になれるようです。もちろん僧侶の生活は厳しいもので、二百二十七もの戒律を厳守して生活しなければなりません。戒律には、『嘘をついてはいけない』という道徳的なものから、『音楽を聞いてはいけない』『午後は食事をしてはいけない』『柔らかいベッドで寝てはいけない』のような、日常生活に関する細かいことまで定められており、それらを破れば破門となります。
 タイの緩い民族性の影響なのか、一生僧侶として仏道に精進しなければならない、というような気負ったところはなく、僧侶を辞すること、所謂“還俗”も自由にでき、さらには、“出家ー還俗”を繰り返し三度まで許されています。タイでは成人した男性は誰もが生涯一度は出家するといわれており、人生の厄払いであったり、身内が亡くなったときであったり、貧困家庭の子供の教育のためであったり、様々な理由で一時的に出家するのが一般的なのでした。
 ぼくは母が急遽用意した“お坊さんグッズ”、――オレンジの袈裟、黄色いバケツ、日常履くゴムサンダル、托鉢の鉢、などを持参してお寺に行きました。出家の儀式に参加し、バリカンできれいに坊主頭にされ、眉を剃られ、袈裟をまとい――、ぼくはインスタント僧侶となったのでした。さしあたって必要なことは、托鉢のとき僧侶らしくふるまうために、パーリ語のお経を覚えなければなりません。
 出家の儀式が終わると、親戚の方々がぼくの周りに集まってきて、「立派な僧侶になったね」と口々に褒めてくれるのですが、ぼくとしては正直なところ、頭がスースーするだけで、当然のことながら今までの自分そのままなので、褒められても違和感を覚えるばかりでした。
「二週間後に迎えに来るから、頑張ってね」
 母は満足そうにそう言って帰っていきました。ぼくは早速、先輩僧侶に連れられて僧房に案内され、一日の生活の説明を受け、僧侶生活をスタートさせました。この日はもう午後なので食事を取ることは許されません。質素な個室は板張りのベッドと机と椅子があるだけです。ぼくはベッドにゴザを敷き、枕にカバーを被せ、取りあえず寝る準備を整えました。フッと一息つくと、自分が僧侶姿をしているということが不思議でなりません。ほんの昨日まで、そんなこと頭の片隅にすらなかったことなのです。しかし考えてみれば、父に「お坊さんになる」と予言され、それは図らずも当たってしまいました。父は予言者としての資質があるのでしょうか。
 早朝に起き、本堂で読経と瞑想をし、ときにはグループごとに別れて托鉢に連れ出され、午前中に二度の食事をし、午後にもう一度読経の時間があり――、僧侶の一日の生活は大体そんな感じでした。他は取り立てて用事もなく、空いている長い時間、特に若い僧侶たちは気だるそうにスマホを眺めています。
 ぼくが祖母の家で感じた“ゆっくりとした時の流れ”が、ここでは“ゆっくり”を超えて、地球の自転が止まってしまったんじゃないかと心配になるほど時間が遅々として進まず、重苦しくて重苦しくて、“狂”の一文字が頭によぎるほどでした。
 そんなあり余る時間の中、ぼくも同僚僧侶の皆さんと同様、スマホを使いたくて使いたくてたまらない気持ちになりましたが、ゲンさんとの約束があるし、そもそも僧侶がスマホにウツツを抜かしていいのだろうかという道徳的な気持ちもあったので、個人的にスマホを遠ざけました。二千五百年前の古代インドにスマホはなかったわけで、現代にお釈迦様がおられたら、必ず“スマホ禁止”を戒律に書き加えていたと思うのです。戒律には“音楽を聞いてはいけない”があるぐらいですから、その十倍、いや百倍も強力な刺激を持つスマホが許されるはずがありません。 
 だけど・・・・、出家した翌々日には、ぼくはスマホをカバンからとり出して、両手に包み込むようにして握りしめていました。スマホは享楽を与えてくれるものでもありますが、勉強として使えるものでもあるのです。パーリ語のお経を覚えるのに、スマホの録音機能を使えば効率的に勉強ができます。ぼくの中の“スマホ禁止”の戒律は一段階緩和され、録音のみ使用できることにしました。
 さらに一日二日と過ぎてゆくと、録音だけではモノ足りなくなってウズウズしてきました。禁断症状が出てきたのです。――パットさんに連絡したい。日本へ帰国しない理由だけでも伝えたい・・・・、そんなことで頭がいっぱいになりました。幸運なことに僧院にはWIFIがありインターネットに繋ぐことができます。だけど迂闊にラインをすればビジネスメンバーの怨念に憑かれ、落ち着いてきた精神を乱されてしまう危険もあります。
――でもなあ・・・・、パットさんはぼくが帰国しないことをどう思っているだろうか・・・・。何か一言だけでも・・・・。
 ぼくは自身の身体に住み着く“自己正当化の魔”の誘惑に抗いきれず、スマホをネットに繋げ、パットさんに『出家しました』と写真を付けて送ってしまいました。
「送っちゃった・・・・」
 すぐに電源を切ればいいのですが、パットさんからどんな返信がくるのかソワソワして、もう他のことが考えられません。僧院の静かな生活を送っている身の上としては、この程度の刺激でも異常に興奮が高まるのです。もうスマホから目が離せなくなりました。
『ビックリ! いつ帰ってくるの?』
 パットさんからすぐに返信がきてドキッとしました。
――パットさん、やっぱりビックリしてる、ウフフ。
 ぼくは笑いが止まりませんでした。
『このままずっとここにいようかなあ』
 と、フザけた感じのメッセージをもう一つ送りました。楽しくて楽しくてしょうがありません。
「ん?!」
 個室に一人でいるのに、フッと誰かに見られているのような気持ちになり、周りを見回しました。もちろん誰もいません。ハッと我に返りました。
――ぼくは何をやってるんだ、僧侶なんだぞ。ダメだ、こんなことしてちゃ・・・・。
 スマホを手元から遠ざけました。
――『このままずっとここにいようかなあ』って送ったけど、本当に、老いて死ぬまで僧院にいなければならなくなったら・・・・。
 二百二十七の戒律を守り続け、ミイラのように干からびた自分の姿が頭に浮かびました。自分が送った何気ない言葉が自分に対する呪いとなって返ってきて、なんだか現実化しそうです。――いや、いや、そんなことはないだろう・・・・。ぼくは自分が出家し続けることによって周りの人たちがどう影響を被るのかを想い直しました。――大学は自動的に退学となり、トミーさんに預けた荷物は処分され、借金はウヤムヤになり・・・・、多くの人たちに多大な迷惑をかけてしまいます。
 しかし本当に僧侶として生きることは地獄なのでしょうか。よくよく考えてみると、母が言ったように誰が追ってくるわけでもなさそうですし、僧院にいる限り“衣食住”は保証され、確実に生存してゆけます。もう金儲けに頭を悩まされることもなくなり、世間体も気にしなくてよくなり、将来の人生設計も考えなくていいのです。競争の激しい日本で生活することと、タイで僧侶でいること、果たしてどちらがラクなのか・・・・。ぼくの思考はそんなところに流れていきました。だけど、この出家生活というものは、寄進してくださる方々に支えられて成り立っているわけで、そんな利害損得を秤にかけて僧侶をするような輩は下衆の極みであり、寄進してくださる方々に対する冒涜でもあります。
――とにかく、こんなスマホなんかで遊んでいてはいけないんだ。
 ぼくはスマホの電源を切ろうとしましたが、そのときフッと、パットさんが「ユーチューブをやっている」と言ったことを思い出しました。彼女はどんな動画を上げているのだろう。トミーさんのところで撮った農作業風景はアップしたのだろうか。新たな邪念がフツフツと湧いてききました。
――少しだけ、もう少しだけお許しください・・・・。
 ぼくは手を合わせて神仏に許しを請い、『タイ人 留学生 パット』で検索してみました。
「コレだ!」
 すぐに彼女のチャンネルを見つけることができました。ぼくはニヤニヤしながら彼女のチャンネルの自己紹介文に目を通しました。
『日本に住むタイ人留学生パットです。ゲイの女の子です。チャンネル登録お願いします』
「ゲイの女の子・・・・」
 意味がよくわかりませんでしたが、背中に冷たいものを感じました。
「ゲイの女の子・・・・」
 ゲイの意味はわかります。女の子の意味もわかります。二つ合わさったとき、どういう意味になるのか・・・・。もしも“女の子”と書きたいなら、“ゲイ”の文字は要りません。“ゲイ”という文字があるということは・・・・、いや、そんなことはない・・・・。ぼくは頭がクラクラしてきました。
 アップされている動画は、農作業動画を含めて四本しかありませんでした。その動画のコメントを読んでみると、『本当に男?』とか、『ブスと付き合うぐらいなら彼女と付き合うわw』というような下品なコメントが並んでいました。――いや、そんなはずはない・・・・。パットさんの声は女性特有のかわいらしい声だし、胸だって確かに膨らんでいたのです。だけど・・・・、よくよく考えてみれば・・・・、タイのゲイの方々は一様に胸が膨らんでいます。女性ホルモンの注射などを打つのでしょうか・・・・。
 ぼくはゲンさんのことを思い出しました。ゲンさんは彼女の日本語の先生だったのです。ゲンさんはラインはしませんがメールはします。ゲンさんに訊こう。じゃあ、どうやって訊こうか・・・。話の枕として、今の自分の状況などをいろいろと報告する必要を感じましたが、とにかく気持ちが急いていて、不躾も承知で単刀直入の質問をポンと送りました。
『パットさんはゲイなのでしょうか?』
 ゲンさんのことだから返信は時間がかかりそうです。もしかしたら、へそ曲がりなゲンさんのことだから返信してこないかもしれません。――クソ、イライラする・・・・。が、数分後、返ってきました。隣人カフェにいて、パソコンをちょうど使っていたのでしょうか。
『だからどうした?』
 それだけでした。
――だからどうしたって何なんだよ。答えになってないじゃないか・・・・。ん? これは答えなのか? 
 ぼくの胸にブーメランが突き刺さってくるのを感じました。確かに「だからどうした」なのかもしれません。ぼく自身が日タイのハーフということもあり、昔から人種差別のことに対しては敏感になっていましたが、性差別に対しては関心がありませんでした。どうでもいいと思っていました。どうでもいいというか、自分には差別意識がないものと思っていました。だけど・・・、今の今、ぼくは気づきました。ぼくの中に、確実にゲイを差別する意識があるということを。だからこそ、パットさんがゲイだったことに対し、これほどまでに動揺しているのです。ぼくは自分自身の愚かさに気づきました。人種差別、性差別、職業差別、身分差別、障害者差別――、差別意識は自分の中に見えない形で巣喰っていたのです。自分の倫理性を正当化したいがために、それを押し隠していたに過ぎなかったのです。ぼくは自分自身の愚かさと卑怯さに愕然としました。そういった個人個人の差別意識が弱い者イジメを誘発し、社会を分断させ、不公正をはびこらせ、さらにそれが大きくなれば戦争に発展し、人が人を殺して当然となるのです。
「ハァー・・・・」
 ぼくは深く息をつき、床にヘタヘタと座り込んで、口をポカンと開けて、ボンヤリとしました。何も考えたくありませんでした。すべて忘れてしまいたい気持ちでした。部屋が暗くなってもボンヤリしていました。いつしか部屋の窓から月の光が差し、自分の頭の影が壁に映っていました。
――無我
 先日、僧院長から無我の思想を教わりました。“我”をなくすことが仏教における最高の境地で、あらゆる苦しみは“我”があることによって生ずると。そうに違いありません。“我”なんかなければ、差別も苦しみも起きようがないのです。“我”を消し去る生き方こそが仏道と呼ばれるのでしょう。
――我を忘れてしまったら楽になるんだろうなあ。
 そんなことを思ったとき、ゲンさんの『忘れびと』という詩を思い出しました。ぼくはスマホからその詩を探して読み返しました。――そうでした。そうなのでした。そこまでいかなければ人は苦しみから逃れられないのです。
 ぼくは今の気持ちを詩にして、ゲンさんにメールで送りました。

    阿呆の坊さん

 小舟に乗って流されて
 遠く遠くへやってきて
 ぼくは阿呆の坊さんになりました

 強い光に照らされて
 やさしい人に囲まれて
 時の恵みを得た坊さんは
 ますます阿呆になりました

 真面目にも、潔白にも、賢くもなれず、
 酩酊し、自惚れ、毒を吐くのは、
 ぼくの体に阿呆が住み着いているからです

 すべてのことを忘れよう
 阿呆が主人とならないように
 ぼくはさらなる阿呆になりました

 ゲンさんから翌日返事がきました。
『エラくなったネ』
 初めてお褒めの言葉を頂きました。
                                 了

2020年制作
 
 


お布施していただけるとありがたいです。