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ガザ停戦に世界の世論の後押しが求められている

 イスラエルとハマスの休戦合意が成立した。ハマスによる人質の解放は24日から始まると見られている。頑なにガザを攻撃するネタニヤフ政権に休戦を決意させたのは世界の世論の役割が大きい。

ダイ・インでイスラエルに抗議 サンフランシスコ・ベイ・ブリッジ 11月16日 https://www.timesofisrael.com/demonstrators-demanding-ceasefire-in-gaza-block-bridges-in-san-francisco-and-boston/


 サンフランシスコとオークランドを結ぶベイブリッジでは11月16日、50人ぐらいのグループが朝のラッシュアワーにクルマで乗り付け、停車させ、クルマのキーをサンフランシスコ湾に投げ込み、通行を妨害して、ダイ・インでイスラエル軍のガザ攻撃に抗議の意思を表明した。ワシントン州のタコマ港ではイスラエルへの軍需物資を輸送する船舶の航行を妨害する行動もとられ、またイギリス・ケントの軍需企業BAEの兵器工場からイスラエル向けの武器輸送を妨害するために港湾の封鎖が試みられた。若年層を中心とするアメリカ国内の反戦運動の高まりにバイデン大統領も応じざるを得ず、イスラエルに休戦を受け入れさせるための圧力をかけた。

イギリス・ケント イスラエルに武器を売却するBAEに抗議 https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/bae-systems-protest-hundreds-descend-31407003


 イスラエルのガザ攻撃は中東の戦域を広げることになり、イエメンではフーシ派がイスラエル関連の船舶を乗っ取った。「フーシ派」と言ってもサレハ独裁政権時代の武器や弾薬を引き継ぎ、「イエメン国軍」と言ってよいほどの軍事力をもっている。スエズ運河と紅海を結ぶイエメン沖は世界の物流の10%ぐらいが通行し、イエメンとジブチを結ぶバーブ・エル・マンデブ(「悲嘆の門」などの意味)海峡はカタールがヨーロッパに輸出する液化天然ガス(LNG)が通過し、ロシアのウクライナ侵攻以降、ヨーロッパ諸国にとっても、バーブ・エル・マンデブ海峡は「生命線」といえるような状態になっている。海峡の幅は30キロしかなく、海運や地政学上重要な「チョークポイント(締められることで、苦しむポイント)」だ。

バーブ・エル・マンデブ海峡 非常に狭い https://www.eia.gov/todayinenergy/detail.php?id=41073


 1982年6月にメナヘム・ベギン(1913~92年)政権のイスラエルは、レバノンのPLO(パレスチナ解放機構)を駆逐することを図って、レバノン侵攻を行い、ベイルートを空爆し、17、000人のパレスチナ難民やレバノン人市民が犠牲になった。アメリカは停戦の仲介を行い、停戦合意では、レバノンからPLOが撤退し、イスラエル軍が首都レバノンの外に留まることになった。

 同年8月にレーガン政権は、米海兵隊をレバノンに派遣し、またフランス軍やイタリア軍もそれに従って駐留するようになった。同じ8月下旬にレバノン・マロン派の親イスラエル民兵組織「ファランヘ党」の指導者バシール・ジェマイエルがレバノン国会によって次期大統領に選出されたが、9月14日、就任する前に彼は爆殺された。

イスラエル軍のレバノン侵攻は、イスラエルの敵を誕生させ、かえってイスラエルの安全にとっては不都合な状態を生み出した https://www.nhk.jp/p/catchsekai/ts/KQ2GPZPJWM/blog/bl/pK4Agvr4d1/bp/plmokML8xJ/


 これによってイスラエルは停戦合意を破棄して、サブラー・シャティーラというパレスチナ人難民キャンプを含む西ベイルートを占領したが、難民キャンプには数千人のパレスチナ人が暮らしていた。イスラエルのアリエル・シャロン(1928~2014年)国防相は、PLOの「テロリスト」がサブラー・シャティーラに身を潜めていると主張したが、そこにはイスラエル軍をベイルートに進駐させたいシャロンのウソがあった。ジュマイエルの報復に立ったファランヘ党の民兵たちは、9月16日夕刻からイスラエル軍の照明弾発射などの協力を得て、難民キャンプの住民たちの虐殺を行い、2000人から3000人とも見積もられる難民たちが犠牲になった。アリエル・シャロンと同様の理屈で現在、イスラエルはガザの病院や学校を攻撃するが、人道に反するイスラエルの攻撃は世界の世論の反発を招いていることは周知の通りだ。

サブラー・シャティーラ事件 https://parstoday.ir/ja/news/iran-i118792


 1982年のイスラエル軍の強硬なレバノン侵攻は、文字通り国際社会の反発を招き、国際社会におけるイスラエルのイメージを著しく低下させることになった。サブラー・シャティーラ事件の約1年後の1983年8月、ベギン首相は突然辞意を表明し、イスラエル政治の表舞台から姿を消した。それ以前の同年3月シャロン国防相も虐殺事件の責任をとって辞任した。彼らの辞任にはレバノン戦争の一連の事件によって国際的な批判を受けたことが大きく原因していたが、頑なに思えるイスラエルの右派政権も国際世論には脆い一面をもっている。たとえ微々たるものであるにせよ、非人道的なガザ攻撃には明確に「ノー」を突き付けることが国際社会の一人一人に求められている。

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