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【小説】ヘンシン

 ある夜、フランツ・カフカの『変身』を読み終えると、ベッドのなかで身を震わせているじぶんに気がついた。

 連休の終わりのこの日、明日から仕事だと思うと気が滅入ってしまい、なかなか寝つけないでいた。そのとき、友人から感想を求められていた本があったことを思い出し、気晴らしに手に取ったのが、午後10時。今 時計の短針はわずかに右に傾いている。

 『変身』は、販売員をしている青年がある朝突然、巨大な虫になってしまう話だ。

 冒頭から身の毛のよだつ想像を展開してしまい、恐怖のあまり、本を閉じようと思ったのだが、ページをめくるその手はとまることなく、そのまま読み進めてしまい、ついに読了してしまった。

 それからは抑えてきたものがとめどなく溢れ、頭のなかを駆けめぐった。

 だって、もし眠ってしまい、朝目覚めて虫にでもなっていたら、そんなことを考えるととても眠れない。

 バカなこと言っているとじぶんでも思うが、かのジュール・ベルヌは「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」という名言を残している。

 虫にならない、などという補償はどこにもないではないか。

 昔からそうだ。私は人よりもこういう性格なのだ。

 例えば、飛行機が轟音とともに上空を通り過ぎようとしていたら、そこから爆撃が始まるんじゃないか、そんな想像が湧き起こって、身をすくませてしまったり。橋の上で車が停車したとしたら、この瞬間、橋が崩れ落ちてしまったら、と思わずにはいられず、脱出のため、窓を明け、ロックを解除し、いつでも飛び出せる準備をしたり。

 そんなことを常日頃から想定している。

 数少ない貴重な友人にこの話をすると、それは危機管理能力が優れているからで、決して悪いことではない、と肯定されたことがある。それ以来、唯一の親友として信頼をよせ、本の貸し借りだってしている。

 そうだ、親友に本の感想を伝えよう。思い立ち、電話をかける。

 1コール…2コール…

 眠ってしまっただろうか。

 3コール…4コール…

 まさか、虫になっていやしないだろうか。

 何度かのコールのあと、電話を切る。

 親友の無事を祈りながら、本を読んだ旨をメッセージで送った。

 送り終わったあとに、こんな時間に電話をしてしまったことに対する罪悪感が芽生えた。

 もしかして、恋人との甘い夜を邪魔されて怒っていないだろうか。

 私との絶交を考えてはいないだろうか。

 思えば、この小説の主人公は私と似ている気がする。だからこれほどまでに恐怖を抱いてしまうのかもしれない。
  
 彼は冒頭、仕事への不満を募らせていた。

 私はといえば、無気力な上司と生意気な部下に囲まれ、気苦労が絶えない。見合う対価が与えられることはなく、責任ばかりが増していき、真っ当な評価を受けることはまずない。

 業務改善のため、意見を出しても、上司はそれに取りあおうとせず、問題さえ起こさなければよい、という事なかれ主義に徹する。

 と思えば、部下の勝手な判断で起こしたミスの尻ぬぐいをする羽目になり、無駄な残業を強いられる。それなのに、私が庇っていることなどどこ吹く風で、不平不満を口にしてくる。

 私が愚痴をこぼすと父親は「文句があれば転職すればよい」と言ってくるが、仕事自体に不満があるわけではなく、むしろ、幼いころから憧れを抱き、念願叶って就職した仕事だ。なぜ、他人のせいで辞めなければならないのだ。

 

 そう、家族だってあまりに無理解だ。

 小説では、両親が商売に失敗し、多額の借金を携えてしまい、息子である彼が一家を支えることになってしまう。それなのに、虫になった彼に対して、家族は忌避するようになる。唯一、彼の世話をしていた妹も、やがて彼を見放してしまうし、最終的には父親が投げつけたリンゴが原因で衰弱死してしまう。それなのに、彼は最後まで家族への愛情を思い返していた。そんなの、あまりにも惨めだ。

 ここまでひどい家族関係ではないが、もしかしたら、なにかをきっかけに、同じような事態に陥るかもしれない。

 家族構成は彼と同じ、両親と妹の4人家族。父は何を言っても否定してくる人で、幼い頃から嫌悪感を抱き、言葉を交わすことはほとんどなく、まだ会話のできる母と妹とはたまに会う程度。今は家を出て一人暮らし。それほど遠いわけではないので、週末にでも帰ろうと思えば帰れるのだが、疲れた身体に鞭打って帰省したところで、身も心も癒されることはない。それならば部屋で休息を取った方がどれだけよいだろう。そう思うと帰る気も起きなくなる。

 でも、もし今、虫になったら、誰にも見つかることなく、身動きも取れないまま死んでしまうのだろうか。

 それはそれで恐ろしい。

 でも、信用できない家族に発見され、粗末な扱いを受けるよりはマシか。

 親友が見つけたらどうだろう。突然、連絡が取れなくなったので家を訪ねると、巨大な虫が占拠していて、私の姿はない。弁解しようにも言葉が通じないと、どうにもできない。

 虫に食べられてしまったと思うだろうか。

 虫に変身してしまったと気付いてくれるだろうか。

 友人からの返信がないか確認するが、まだ通知されない。

 この物語が胸糞悪いのは、それまで家族を支えてきた青年に掌を返し、邪険に扱った家族だ。彼らは青年が息絶えると、お手伝いの女に片づけさせ、じぶんたちは気晴らしにでかける。青年が虫になってからの日々はまるで、じぶんたちだけが不幸であったかのように、そして、彼らを縛っていた呪縛から開放されたかのように、新たな生活へと出発する。

 これまで青年に強いてきたものなどなかったかのように。

 私はそんなふうにはなりたくない。

 虫になるくらいなら、明日、仕事へ行くことのほうがどれほどよいだろう。

 仕事で起こる理不尽のほうがずっといい。

 はやく夜が明けてほしい。

 仕事へとでかける時間になってほしい。

 このまま、虫にならないでほしい。

 返信を通知する音がなる。私はメッセージを開く。

「おはよう。どうだった?」

 親友から届いたのは、本の感想を尋ねる簡素な文章だった。

 私は、募らせた思いの丈を一気に書き綴り、読み返しもせず送り返した。

 すぐに返事が届く。

「それでどうだい、虫になった気分は?」

 そのメッセージを目にした途端、動悸がとまらなくなる。

 身体を起こそうにもうまく動けない。

 気付けば外は明るくなりはじめていた。

 どうする?

 どうしたらいい?

 混乱する頭で、私は友人に、家族に、同僚に、手あたりしだいにメッセージを送る。

 私は虫になった。

 家にいる虫は私だ。

 どうか殺さないでほしい。

 そうこうしているうちに、うまく指まで動かなくなって、通信端末を落としてしまう。

 胸元に落ちた衝撃で意識を失う。

 目を覚ますと、外はまだ薄暗い。

 端末の画面には友人からのメッセージが届いていた。

「おはよう。どうだった?」

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