娚の一生を観て思い出した豊川さんの思い出
学生時代寮生活を送った。
体育会、文科系でも吹奏楽や応援団、詩吟部、ESS、グリークラブといった部活に所属する学生の多い硬派&バンカラ集団だった。
当然ながら楽しい寮生活にも集団生活はややも疲れることはある。
寮の前に甲山の麓に延びる狭い坂道があった。早朝馬術部の学生がトロットで馬を駆るひずめの音が耳に心地良かった。
その坂道を隔てた隣に戦後間もなく建てられた木造の左翼系学生寮があった。こちらは対照的に玄関にはヘルメットが並び、成田空港開港後もなお三里塚闘争集結を呼びかけるビラ、韓国光州事件を巡り日韓政府を糾弾するビラなどがところ狭しと貼られていた。70年代学生運動の最後の残滓だったのだろう。
その寮に豊川さんは住んでいた。ぼくは時折思いついたようにぶらりと遊びに行くことが息抜きになっていた。
強くノックすると外れそうな薄い木製の引き戸を軽く二本指でコツコツ鳴らす。
「お~、ミヤタやんけ~」
豊川さんが部屋の中からヌッと顔を出してぼくをかなり上から見下ろしてはいつもやや河内弁混ざりでそう言っては迎え入れてくれた。当時から豊川さんはやはり長身で、ぼくはやはり当時からチビスケだった。
取り分け何を話すでもなく、小一時間コーヒーを飲んだりテレビを見ては帰っていく。そんなへんてこりんな後輩を許容してくれる先輩だった。
ある日いつもと同じように訪ねて行くと、部屋の奥を振り返りながら、
「スマンな~。今彼女来てるねん。また今度な。」
豊川さんはこちらが恐縮するほど心底申し訳なさそうな顔をしてそう言った。その時の表情は今でも何故かはっきり覚えている。
その後、年末年始休暇中自分の寮から閉めだしをくらったぼくは厚かましくも留守中の豊川さんの部屋で寝泊まりをしながら蕎麦屋のバイトに通ったりもしたこともあった。
豊川さんは優しい先輩だった。
先週から始まった映画「娚の一生」 を観ながら30余年前のそんな豊川さんの優しい笑顔がツブサに脳裏に甦った。
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