note始めました。

皆さま初めまして。
日本プロ麻雀連盟37期・宮田雅也と申します。
文章の勉強として始めましたが、機械オンチなので使い方が難しいですね。

1・自己紹介

東京生まれ・埼玉育ちの39歳。3姉妹の父親でもある。
好きなもの→麻雀・競輪・ネコちゃん・ワンちゃん
嫌いなもの→人混み・生臭いもの・セロリ・虫

面識のある方は私の事を『まともなおっさん』と思う方が多い様です。
実際は中卒ですし、そこそこアホな人生送って来てます。

ノリと勢いで何とか生きてます。
練習をかねて少しばかり半生を書いてみます。

2・生い立ち(幼少期)

ギャンブル狂の父と、まぁ普通の母を持ち、幼少期は今では考えられない時期を過ごす。
休みは母が起きる前に父に連れられ、2人でパチンコ店に。
常連だった事もあり、景品のお菓子は食べ放題だった。
床に落ちている玉をたくさん集めて、花火と交換してくれたりと良い思い出。

そんな生活を母は我慢できなかったようで、小学2年生で離婚。
そらそーなるわ。
家を出て行く当日、離れたくないと泣きじゃくる私を抱きしめる父。
それを見て涙を流す母。父が耳元で最後に言った言葉は

『新装開店だからもう行かなきゃ』

3・生い立ち(少年期)

母と2人で極貧生活にも慣れて来た頃、いつの間にか知らんおっさんが家に居座る様になった。再婚相手らしいが、私とはほぼ喋らないし父という感覚も持てず嫌いで仕方なかった。

しかし妹が産まれた事だけが救いだった。
可愛くて仕方なく、ランドセルに入れて学校に連れて行こうとしたくらいの溺愛していた。

妹が産まれしばらくすると、おっさんは家に帰って来ない日々が続き、いつの間にか居なくなっていた。

母の男運のなさは天性のものだなと悟った。

4・生い立ち(青年期)

小学3.4年を平穏に過ごしていたが、5年になったばかりの時だった。
元々引っ込み思案だった私が、イジメのターゲットにされたのだ。
今ではネットなどですぐ炎上するだろうが、昔は体罰すら当たり前の時代だ。
いくら担任に相談しても埒があかない。
『台風だっていつかは過ぎ去る』とか
『止まない雨はないから』
などの名言で納得させようとしたのだろう。

私は
『その雨や台風がもう耐えられないんだよ』
と怒鳴り散らし、不登校を決めた。
母は理由を聞くなり
『そんな学校なら行かなくていい。だが働け』
良かった、これで地獄から解放される。

(ん?働け??)

結局、母のツテで工場勤務。2年間・時給500円で1日8時間ずっとボルトに穴を開けてました。
ここでの経験が今の私の土台となり、考え方を変えてくれた《トトロ》と呼ばれていたヤンキー上がりの兄ちゃんに今でも感謝してる。

5・麻雀との出会い

小学校を卒業し中学に入るも学校には行かず、家で勉強をする事を条件にバイトを続ける。

ある日、社長が全自動卓を購入。その日から仕事終わりの麻雀が始まった。
ルールどころか、何をしているのかすらわからないが楽しそうだった。
後ろで見ていると、覚えてみるか?とトトロが言うのでお願いした。
ルールブックを買ってもらい、細かい事は観ながら覚えろというスタンスだった。

3ヶ月ほど過ぎたある日、初めての麻雀を経験する。
もちろんルールも曖昧しか覚えてなく、当たり前のように負けたが悔しくて堪らなかった。
次の日から学校の勉強ではなく麻雀の勉強に代わっていった。

同級生が英単語を覚える中、私は役を覚える
因数分解を解いてる時、牌効率を考えてた
歴史を暗記してる時は、符計算の練習をする
そんなひどい中学時代だったが毎日が楽しかった。

もちろんマトモに学校に行ってないので高校進学は出来なかった、する気もなかったのだが。

麻雀店で働こうかと思ったが、年齢で断られてしまった。
渋々だったが、寿司が好きだったので就職先は親元を離れ、住み込みの寿司屋へ。
世間とは思っていたより厳しく、寿司屋で働いたとて寿司は食べれるわけではなかった。
麻雀が打ちたくともフリーで打てるわけもなく、セットやるにも近所には友人もいない。
今みたく健康麻雀などもほぼ無く、麻雀のために休日は1時間30分かけて地元に帰っていた。

6・雀荘メンバーになる

18歳になると店を辞め、雀荘に入り浸る様になった。
そのお店のメンバーは全員上手かったが、店長と主任がバケモノのように強かった。
毎回のように待ちを言い当てられ、なんなんだこの人たちはと驚愕していた。
今考えれば当たり前の事でも、当時の私には牌が透けてるんじゃないかと思うほどだった。

毎日のように教えを乞うていたら、そんなに麻雀が好きならメンバーやりなよと誘われたのだった。
そして、次の日には寮に引っ越して、夜には出勤していた。
人生に分岐点があるならば、まさにこの時だったと今でも思っている。

今では辞めてしまっているが、当時お店には3人のプロがいた。
最高位戦に1人・連盟に2人、うち1人は女流だった。
その子たちの話を聞いているうちに、私自身もプロに興味を持ち、試験を受けようかと思い始めた。

だが、付き合っていた彼女が子供を授かり結婚となる。
こうなってしまってはプロどころの話ではない。
その日暮らしの様なメンバー生活だったので、お金が全く無いのだ。
雀荘の時給750円では家族を養えるわけもなく、お店を後にするのだった。

その後、諦めきれずに何度か受験しようとするが、2人目・3人目と神様の贈り物は続いたのである。

余談ではあるが、結婚式の2次会を雀荘を貸し切って開催したのは、私以外にそうはいないだろう。

7・プロテスト

プロを目指すならば連盟と決めていたが、気づけば37歳。年齢的にも半ば諦めていた。

突然の訃報。
尊敬する小島先生がご逝去されて、1度もお会いする事が叶わず後悔で涙が止まらなかった。

子供達も大きくなり、多少なりとも余裕が出来た。
ここを逃すと一生悔いが残ると思い、妻を説得し、ラストチャンスを掴み育成合格に滑り込む。
半年の研修、そして再試験を経て無事に受かったのである。

8・その後から現在

早いものでプロ2年目突入
仲の良い同期たちが放送対局やタイトル戦決勝など活躍するなか、私はリーグ戦でE1からD3に昇級したくらい。

プロ活動の方は、麻雀講師の資格を取るために研修したり、こういった文章の書き方を教えて貰ったりと充実している。

昨今の麻雀界はMリーグや芸能人のプロ雀士誕生など、大いに盛り上がってきています。

微力ですが、私なりに愛すべき【麻雀】の普及をしていきたいと思ってます。
これからも応援して頂けたらありがたいです。

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