Miya

追想と記録。発見と探求。思考と創作のポートフォリオ。1993 twitter: htt…

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追想と記録。発見と探求。思考と創作のポートフォリオ。1993 twitter: https://twitter.com/MiyaRichtung

最近の記事

映画『逆光』

 舞台は尾道、1970年代ごろ。若者たちの恋愛映画。  正直、地元の尾道が舞台でなければ、観ることはなかった。それどころか、存在すら知らなかっただろう。公開されてからも鼻につく、町中に貼られたポスターの数々に辟易して、なかなか観る気は起きなかった。周りの人にそそのかされて、先日ようやく観に行った。  結論から言えば、細部の粗さは目立つものの、全体としては試行錯誤する実験的試みを感じられるいい作品だった。個人的な感想を言えば、映画は前半と後半に分けられる。 前半では色んな

    • 書くこと

       書きたいことはたくさんある。しかし、書き出してしまうとすべてが消えてなくなってしまいそうで恐ろしい。不整脈を打つ体に思い出す美しさがある。  理性では余裕を感じているようで、そうではない。以前のような無垢な輝きはない。落ち着いて対象を観察することができる。  飲み込まれる感情の激流から逃れ、月夜の海へと漂い浮かぶ。私の理想を高めるため、そうではなく、理想から離れる手段はなんであるのか。  私、いや君、彼、彼女。人称を変えると、私の気持ちは私から離れていく。君は理想を抱

      • 記録と現在

         欧米研究室で昔の写真を見る。昔といっても2000年であったため、年号の感覚でいうと、さほど遠い日のことではない。ただ、その雰囲気は今の空気とは全く異なるものであった。私の知っている現在は、ただそこに横たわっているだけなのかもしれない。  写真は今を過去に閉じ込める技術だと誰かが言った。あながち間違いではないだろう。今こうして、書いている日記も今の私を過去に閉じ込める作業である。人間は記録を取ることで今のものを未来へと託してきた。しかし、人々は種の歴史としてだけではなく、個

        • 「門」

           門に入ること、それは難しい。人はみな、それぞれ、門の前に立っている。大きく開かれた門があれば、狭き門もある。最初の門を入ることができたとしても門はその先、無数に存在している。多くの人にとって初めの門をくぐることさえ非常な困難を伴う。人は何を求めて門の先へ挑もうとするのだろうか。門に気づかぬ人は幸せだろうか。  門番は言った。  「この門は誰にでも開かれている。もしあなたが望むならば、私は引き止めないと。」  アリサは幸せ以上に大切なものは「聖らかさ」だと答えた。  

        映画『逆光』

          「丸」

           絵描きは今日も仕事に精を出していた。絵描きと言っても彼の仕事は絵を描くことではない。ただ眺めること、それが彼の仕事だった。  絵描きの前には椅子の上に置かれたリンゴがある。丸い赤いリンゴだ。絵描きはリンゴをじっとみつめる。次第にリンゴは姿を変えていく。表面には細かな凹凸があり、色彩も緑や青が混ざっていることに気づく。  絵描きは観察を続ける。窓から照らす太陽の光は時間を追うごとに形を変える。影の濃淡は一時として同じ瞬間はなく、終いには暗闇に覆われてもなお影は動き続ける。

          「丸」

          「キツネの歌」

           一匹のキツネは道に迷っていた。キツネはドングリを見つけると、見つけたそばから駆けっていった。森の中には大きなキツネの集落がある。キツネたちは群れをなし、親は子を産み、子もまた親となった。迷子ギツネはドングリが大好物であった。ドングリを一つ一つ集めては並べて眺めた。形のいいドングリ、ツヤのあるドングリ、ぶさいくなドングリ、決して一つとして同じものはない。だが、集落のキツネたちにとってドングリはただの食料でしかなかった。ドングリを集めては食べることもせず、ただ眺めているだけの迷

          「キツネの歌」

          ある心象風景

          文章を書くのは苦手だ。 文章を書くときはいつも内臓を吐き出すような気分になる。 文章はもう一人の私だ。 いや、外面を取り繕はない分、私より私らしいと言える。 作文は苦手だった。 先生に私の心の内側を見られるような気がして、外面ばかりの言葉で書き綴った。 小さい頃は文章を人に見られるのが怖かった。 いや、今でも怖い。 それでも文章を書くのはやめられない。 文章は私の生きた証。文章は私の思想の記録。 日記は好きだ。 日記は私だけの秘密だから。もう一人の私との

          ある心象風景