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言葉の多さは色鉛筆

「敬語ってなんで使うのー?」とか、「俺、尊敬してる人しか敬語つかわねーから」みたいに、敬語はあって当たり前の人と、敬語とか意味わからんみたいな意見は、多からず、かれこれ数十年は聞くことがあったので、きっとこれからも提案されるテーマにはなるんでしょう。

今の仕事でもある医療・福祉系の中での会話は、患者さんや家族に敬語は当然のことのように思いますが、田舎なだけあって、方言混じりの仲良し言葉を耳にすることもたびたび。ただ、なぜか学生さんや新人さんはそれはご法度なんだけど、ベテランさんはどうみてもタメ語であっても『私はいいの、信頼関係が出来てるから』と謎のポジショニング。もちろんそれを嫌だと感じるケースばかりではなくて田舎の病院ならではの高齢者との仲の良いコミュニケーションとして受け入れられているのがほとんどですが。

まあ、こういうのもありつつ、敬語の事については自分がかつて飲食系のサービス業にもいたせいか敬語が上手に使える方を見かけると「エレガントだなぁ」と思ったりします。なかなか普段から使う場面が無くて敬語が苦手だという方は、「敬語=かしこまる努力が必要」なのでできればいつも通りに楽にしゃべりたいんだろうと思います。それから、「敬語は出来て当たり前!」を信じている人もそれはそれでやっかいで、「なぜ必要か」は経験上そうしてきたからというのがあって、理由は後付けに近いような。だから信頼関係がどうのとか、尊敬の気持ちをどうのとか、距離感がどうのといったものの結局、「だからなんで?」の問いに「もー、なんででも!」に近い感じで強いることがある気がします。

自分もいろいろ接遇マナー研修や、医療系のコミュニケーションの本を読んだりもしてきましたが、多いのは「人は第一印象で判断する」「丁寧に言い換えてみましょう」「お互いほめてみましょう」みたいなの。大事なんだろうけど、なーんかしっくりきてなかったんですよね。だから、敬語じゃないけどちゃんとコミュニケーションとれるならもうそれでいいのかなーと思ったりもしてました。

そこで今思う事としては敬語ってこういう事なんじゃないかなーって思う事があります。

それは、言葉って『色鉛筆』なんじゃないかと。

仮に、きれいな花の絵を描くとして、黒の鉛筆しか持っていないとき、とりあえず花の形は描けるし、何を描いたかは分かる。もし、それに赤と緑の色鉛筆もあったら、ざっくりと色を塗って黒の鉛筆のときだけよりちょっと花らしさが増える。さらに茶色と黄色と黄緑も持っていたら濃淡や彩光や少し背景も描ける。

言葉とコミュニケーションの関係でいうと、まず言葉の役割は「情報」を伝える事。『情報だけ』なら黒の鉛筆で何を描いたかは伝えられる。「敬語なんていらない」と言う人も、黒の鉛筆で描いた花を「花を描いたのはわかるでしょ?」と言う感じかな。ただ、言葉にはそれ以外にも「感情」を伝える機能がある。「感情」や「思い」や「距離感」も乗せるなら色鉛筆が多いほうが、より自分の感じているものに近い表現で伝える事が出来る。それが「コミュニケーション」が上手だということ。

もともとの『敬語は必要か?』というテーマはそもそも「敬語を使わなくても情報は伝わる」が「言葉の言い回しはたくさん使える方がよいコミュニケーションを取りやすい」ということを軸に考えるのいいのかなと思う。会話の中の言葉って自分が思ったより伝わってないことがある。伝えたい情報、感情、ニュアンスに近い言葉を知らなければ近くにある似た言葉で済ますことになってしまう。であれば、色鉛筆の種類も原色、混合色、パステル、温暖色、とあるように言葉もいろんな言い方を知っていると便利だ。敬語だけじゃなく、専門語用語、カタカナ語、慣用句、ポジティブ語、ビジネス語などのように相手との関係も含めていいチョイスが出来る方法がある。知らないよりは知っていて使える方が逆に激ヤバでWin-Winではござらんか、と思います。


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