放デイスタッフとして私が見た最悪の指導


行為なき理念は空虚だが理念なき行為は暴力である byカント

お世話になっている歯医者さんの待合室に貼ってある言葉です。歯科医術の事を指しているらしいのですが、教育にも同じ事が言えるとつくづく思うのです。

関西関東にいた頃に、お受験塾と放課後デイでバイトした経験があります。大阪の貧困地区の小学校で支援ボランティアした事もあります。教師になろうとしたけど、行く先々で見る指導に、自分の中の抑えようのない違和感に悩んでしまい、結局どこにも行くべき場所が見つかりませんでした。その違和感というのが冒頭の言葉でよく表せるものでした。

歴史上の有名な教育理論家でも、晩年には神智学に傾倒して行ってしまった方も多いですがね。教育学は学問じゃないのかも、もう深入りは辞めとこう、と何度思ったことか。


私が現場で多く見かけたのは

子どもの逸脱を徹底して防ぐ。未然に絶え間なく取締り、常に教師の威厳を知らしめる

そんな指導でした。

知的に重い子はそれでもまだ良いのですか、知的に低くない子どもは眉毛を歪ませて、自尊心を踏みつけられて傷ついている表情をずーっと見せていました。

私には通じるはず、と思われたのか、私を選んで反発し突っかかりまくる子どもが、居ました。

バイトリーダーになんて進言したらいいのかと悩み、あの子は「愛情」不足だと...思いませんか?と意を決して投げかけてみたこともあります。この場のスタッフの力関係の中では越権行為だ、と察しながら。

「え、私は全然そう思わないけど」

華麗にスルーされただけでした。

そらそうでしょうよ!あなたには子どもの"言葉なき言葉"が見えてない、そもそも見ようともしてないんだから!

あなたに見えているものが世界のたったひとつの真実なんかじゃ、ない。これぞ無知の無知!


そのリーダー格の指導員は「掌握」という言葉を盛んに取り上げていましたが、ある日突然「うちはアットホームでいきたい」と公言。えぇっ!?と思わずうわずった声が出てしまいました。

ここでいうアットホームとは
"子どもたちみんなが自分の家のようにくつろげる場所"ではもちろんありません。

"ここは私の家。ルールに縛られる事なく私の機嫌次第で好きにやらせてもらう"という意味になります。自分が完全に主導権を掌握した事を確信して、独裁ファシスト宣言を行ったに過ぎないのです。

やがて私には雑用ばかりが回ってくるように。重要事項の伝達漏れも相次ぎ、現場レベルでそれとなく排除されているのを感じました。

状況に苛立っているのは私だけ。他のスタッフも管理職も経営者も、現場を仕切ってくれるリーダーを心よく思い、頼みにしていました。企業全体としての教育理念に欠いていました。

誰も何一つ違和感すら感じず、リーダーの采配をむしろ礼賛して付き従っていました。

たしかに業務はスムーズになり、負担が軽くなったから。安心したスタッフはペープサートを作り、静まり返った子どもたちに向かって意気揚々と、自分達のやりたい保育をはじめました。先生達は夢中でキラキラしている様に見えました。

自由遊びは最長20分に留め、時間に余裕がある時でも子どもが夢中になり過ぎないよう、切り上げました。

矢継ぎ早に運動やダンスや出し物、おやつにトイレに公園へおでかけ、と子どもたちをひっきりなしに急かし立て、余計な間を与えないよう工夫しました。

ぐずったり切り替えに時間のかかる子には恥を植え付け、ことさら冷ややかに応対。荒れるようであれば別室に隔離して楽しげな集団から外しペナルティとする...

あまりにもよく出来た管理支配システム。見かけだけはどんどんそれっぽくなっていきました。

私には理論なき暴力にしか見えませんでした。日々管理支配のシステム構築が進むのが本当に胸糞悪かった、でもそんな風に感じているのが、あの場では私しか居なかったのです。
知的に高い子は一人、また一人と別事業所へ移っていきました。知的に重い子、御しやすい子だけが残り、低年齢でその中間領域にいる子どもは...本当に気の毒でした。

連絡帳に、送迎の時に、母親に直接言いたかった。この事業所はこの子に合わない、と。なによりもこの子の目つき、表情、言葉こそがこの子にとっての真実なのだから、軽くみて無視せず見逃さず信頼してあげてほしい、と。残念ながら私はその二つの業務から外されていたので叶いませんでした。



以上、これがレッジョエミリア幼児教育に夢中になる私の背景です。

猫被り気味やったんで、ちょっと挑発的なテキスト投下してみました。

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