【連載企画2009】旭化成構造転換の波動「野人伝 後編」
【連載企画2009】旭化成構造転換の波動「野人伝 前編」
旭化成の遺伝子に決定的な影響を及ぼした創業者・野口遵。既存の価値観にとらわれない野人の一生は、行く先を決めない旅のようなものだった。世界的な不況に世の中が萎縮している今だからこそ、延岡新興の母がたどったワイルドな知的冒険の旅に出る。(文中敬称略)
12 ”大戦時の利益が原資” 延岡進出
旭化成が延岡に進出した際もそうだが、野口遵が新工場を構えるパターンは山中に発電所、海沿いには化学工業の生産拠点を造る―と決まっていた。
出発点の曽木発電所と水俣工場もそうだったし、完成当時の1914(大正3)年時点では国内最新鋭であるカーバイドから硫酸アンモニウムまでの一貫製造工場も、水力発電所を熊本県大津町に建設し、生産拠点は港が近い熊本県八代市鏡町に立地した。
この工場が操業を始めたのは、第一次世界大戦が始まった年でもある。鏡工場での硫酸アンモニウムの生産コストは1㌧70円ほどで、市場価格は130円だった。それが大戦開始後、日本市場を支配していた英国産硫酸アンモニウムの輸入が途絶えたために急騰し1917年には400円台の大台に乗り、高値は翌年まで続いた。
野口の日本窒素肥料は、原料である石灰石を地元で調達し、さらには自家発電を利用していたために生産費が上昇することはなかった。硫酸アンモニウムの年生産能力が2万㌧だった鏡工場は1918年には5万㌧にまで拡充。しかも製品は飛ぶように売れた。
大戦で野口が手に入れた膨大な利益が後に、カザレー式合成アンモニア法の特許を獲得し、延岡に進出する原資となるのである。
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