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「何者かにならなければならない」という呪縛

都市計画の会社からクリエイティブの会社に転職して、もうすぐ3年が経とうとしている。(光の速さ

今の会社に入社してからの2年半は、もう本当に必死でがむしゃらで、今ではその甲斐?もあってか、プロジェクトマネジメントやディレクションのカケラをようやく掴みつつあり、少しずつ手応えも生まれてきた。

特に、コンセプトをクリエイティブに落とし込むところに面白さを感じた私は、今更感はあるものの、もう少し体系的にデザイン、特に建築を学びたいと思い、働きながら4月から通信制の大学に通うことにした。

学校に行くことをほとんどの人は応援してくれたけど、「いいじゃん!」の次の言葉はほとんど「それで、宮本はその後何になるの?」だった。

まあ確かに、周りがそう言いたくなる気持ちもわかる。学生時代はお金の仕組みを学び、新卒で都市工学の世界に飛び込み、その後デザインの仕事をしていて、さらに建築の学校に行きたいと言っている。私からしたら全てつながっている話でも、領域的には別に近いことはしていない。

それでもなんだか、友人たちの「それで、その後何になるの?」に、私は違和感を覚えた。

もちろん、「こうなったら良いな」という理想の未来はぼんやりある。でも、その未来はまだ明確に道筋が見えているものではない。「建築家」という社会的にわかりやすい肩書きを手に入れたくて学校に行くわけではないし、1番初めの理由としてくるものは、「興味が湧いたから」だった。

でも、「興味が湧いたから学校に行く」と言うと、大体の人はキョトンとする。(逆にそれを言うとさらに応援してくれる人もいる)

・・・

今回自分に降りかかったこの出来事は、暗やみ本屋ハックツという活動を通して10代のこどもたちと接する中で、よく聞く話と一緒だなと思った。

この国は、1つのことを続けることを美徳とする風習がある。またその分、1つ1つの学びへのハードルが高い。つまり、周りも納得するような明確な理由がないと、なかなか一歩を踏み出しにくい環境が多いということだ。

そういう考え方を否定するものでは全くないけれど、"普通"という言葉や今世の中に存在している肩書きの中だけで物事を捉えようとすると、本当の自分がどこにいるかわからなくなる。私の場合このような行為は、結果的に自分を苦しめる思考なのだあと、改めて思う。

自分がどこに向かうなんて、わからなくても良いじゃないか。「何になるか」じゃなくて、「こうあって欲しい未来」を想像しよう。そうすればきっと、もっと楽に、道を拓くことができる。ような気がする。

そう言い聞かせて、明日からも愉快に生きていく。




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