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一律の時間割を作らない、を貫く理由

今回は、長野県小諸市で今年4月からオープンしたばかりの地域のつどい場【みんなの家タブノキ】の日々の紡ぎ方を「時間割」視点でお伝えしたい。

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■ 僕たちは、時間割を積極的に作らない。

時間割の話をするとき、必ず頭の中に何人かの顔が浮かぶ。時間割が必要な人の顔だ。彼らは、時間割が提示されないとうまく生活できない。落ち着かない。そういう人が一定数いることは、理解している。

もしかしたら学校の先生や経営者など職業的な傾向があるのかもしれないが、それは僕自身が抱えているADHD気質と同じように「ある一定数いる」という以外、捉えようがない気質的特徴なのではないだろうか。

時間割がないと落ち着かない人達がいる。彼らへの配慮は必要だ。

その上で、あえて書こう。

僕らの運営するつどい場において、その気質的特徴を持った人達のために、その日その場に居合わせた全員が守るべき一律の時間割なんて、作る必要はない、ということ。

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ところが僕の知る限り、福祉の現場において、この一律の時間割を持たないという事業所の方が圧倒的少数派であるように思う。この数は時間割がないと落ち着かない人の比率とも、あきらかに乖離しているように思う。

理由は簡単に推測できる。時間割があれば少ない人数で事業所を管理しやすいからだ。

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時間割を作る、ということはイレギュラーを認めない、ということ。その日の調子や天気や用事などによって、予定を変更することをよしとしない、ということ。時間割を必要とする人からすると、この予定変更がしんどいのだ。それは、わかる。予定を決めたほうが、動きやすい。わかるわかる。

僕は、とてもあまのじゃくだ。僕らが時間割を作らない理由は、全然そこではないのだけれど、グラデーションとして突き詰めて考えれば必ずその人達の存在にたどり着くことがわかっているから、書きながら、悩む。

わかるけれど、ここは絶対に譲れない。詳しく理由を分解して説明したい。

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■ 時間割通りに動く施設で、失われてしまう暮らしの要素がある

誰か一人のための時間割であるなら、何の問題もないと思っている。それが複数集まっていたとしても。全く同じ時間割りにはならないはずだから。

しかしそれが同一の、業務を効率よく回すために必要な時間割だった場合、どんどんと生活を圧迫し、場合によって暮らしを犠牲にしてまで時間割を守らなければならない強制力を発揮する。

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朝、送迎にいって事業所に大勢の人が同じくらいの時間に集まってくる。わらわらと体温と血圧を測り、お風呂に入る人の順番が決まってお昼の時間までの分刻みの時間との闘い。そして午睡中に記録を終わらせるための段取りを組み三時になるとレクや体操をしてお茶の時間。夕方落ち着かない人をなだめて送迎時間までやり過ごす。。。

これはびっくりするほどデイサービスの良くある一日。本当に、びっくりする。経験はないが、おそらく細かい違いはあっても福祉の現場でこんな動き方をするのは施設の形態にかかわらず傾向として同じではないだろうか。

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もし、あなたが福祉の現場を全くのぞいたことのない方であったら、この時間割の何がいけないのか、わからないかもしれない。

職員であるあなたは当たり前に知っている。この流れ以外の身動きが全く取れないということを。つまり別のことをしたい、といった人がいても対応できないので我慢しなければならないケースがほとんどであるということを。

これはイレギュラーが起こると不安になってしまう、というレベルの話ではない。イレギュラーを認めるとシステムが機能不全に陥ってしまうのだ。

どうしてもイレギュラーケースを突き通そうとすると必ず壁にぶち当たる。そしてなるべく波風立てないよう、イレギュラーを見なかったことにするようになる。全体の為に、個はかき消される。

施設を利用する誰かが、ごくふつーに普通の暮らしを叶えようとする、ただそれだけのことが、どれほど特別なことか想像できるだろうか?

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■ はじめから、~ねばならないを徹底的にうたがう。

様々な切り口から、この時間割をずらして無化する方法を、素敵な先生達が実践のなかから導き出している。

大好きな先輩たちが全国のあらゆる施設で現実のものとされているのだから、これは決して不可能な事ではない。でも、実際に自分達が実践するには、様々な壁が立ち上がる。やんのか?やれんのか?と。

だからこそ、改めて僕は疑う。今目の前にある~ねばならない、の全てを。

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?本当にお昼やお茶の時間は決める必要があるのか?(ないよね)

?やることの順番を固定化する必要はあるのか?(ないって)

?そもそもこれは本当にやらなければならないことなのか?(どうかな)

?それは、やってて楽しいことなのか?(楽しくなきゃね)

?逆算してできることしかやってなくないか?(手抜きしてるかな)

この問いは、誠実であればあるほど永遠に続く。むしろ続かないのならただの自己満足で終わってしまう。

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■ 時間割を手放してできること

時間割を手放してできること、それは用事をつくることだ。

僕が個別の時間割はOK、一律の時間割はNGとする理由がここに集約される。個別の時間割には、用事が組み込まれる。でも一律の時間割には、その人にとっての用事を組み込むことがとても困難だ。

じつは法律の上でも、こんなことが決められている。

福祉の仕事にはそれぞれ介護保険法や児童福祉法、障害者総合支援法などの法律により「計画」の実施が義務付けられている。その人にとっての課題を解決するために必要な分だけサポートをすべき、ということになっている。施設や業務上の都合によってスケジュールを立てるべき、とはどこにも書いていない。ここに現実とのギャップが海溝並みに深く横たわる。

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用事は、仕事と趣味の中間にある概念。あるいは分類が不要の概念。

昔の日本では、用事で物事が動いていた。だれから頼まれたものでも、自分で好きにやることでも、その中間でも、用事という言葉を使った。

資本主義が台頭するなかで、いつの間にか、都合の良い社会の潤滑油だった用事という概念が、シビアな仕事という概念にとって代わられ切り捨てられてきた。主語をはっきりさせなければならない西洋の文化の影響だ。

僕らはこの「用事」を取り戻すために、「時間割」を手放す。

なぜか。ここで前に書いた2つの記事に戻る。それこそが自分達の暮らしやすさを実現することに他ならないのだ。お互い様の関係づくりには、用事が欠かせない。自分達の居心地にも。誰もが安心できる場であるためにも。

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■ いつも、ここから

僕らはまだ歩み始めたばかりのよちよち歩き。どんな言葉にも重みがない。

人は相手を行動でしか判断しない以上、実績がなければ評価はされない。そんなことは重々わかっている。それでも、一日一日が僕らにとっては宝物であり、大切な用事の積み重ねなのだ。今、この瞬間を更新し続けること。

もうすでに、目の前には入り江を抜けた海原が広がっている。

どこに向かって歩いていくのかで、たどり着く場所は全然違うと思っている。きっとたくさんの困難が待ち受けているだろう。人と違うことをやれば進むほどに反対の声が大きくなるだろう。

いつだって、今日だってすべてこの瞬間を全力で。

うまくいかない時もある。でも、曲げられないものを持って突き進むことが応援してくれている皆さんにお応えする唯一の方法だと僕は信じている。

10年後、20年後の自分達に向けた、これは手紙だ。さあ、未来の僕よ、読み返すがいい。しどろもどろになってでも、君は今を楽しめているかい?

後悔のないよう、やりきっているかい?

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おやすみなさい。

。。。それでは今日はこの辺で。皆さん読んでくれて本当にありがとう。

そのうちまたnoteでお会いしましょう。ごきげんよう。


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