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憂鬱な曜日の果てに待つ「月曜日よりの使者」の世界:『月曜JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』

https://www.tbs.co.jp/radio/ijuin/free/pc/


 「ブルーマンデー」「サザエさん症候群」という言葉が表すように、一番嫌われている曜日はおそらく月曜日だろう。休息を終え、また労働に追われるウィークデーが始まる。
 『月曜JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』は95年の番組開始から月曜の25時台(火曜1時台)に放送しているが、伊集院光ほど月曜日という憂鬱な曜日の終わりにふさわしいパーソナリティはいないような気がする。週末はまだまだ遠い。しかし一番の気が重い場面はなんとか乗り越えることが出来た。耳だけで聴くことのできるラジオは日常の生活リズムと密接な媒体であるが、暮らしの中のそうしたタイミングで、伊集院がラジオの向こうで「待っていてくれる」風に思える、そんな大きな存在だと思う。


 教養系の番組で博覧強記ぶりを見せることも多い伊集院だが、『深夜の馬鹿力』での伊集院はむしろパンクロッカーのような激しい一面も見せている。
 流行のアイテムに覚えた違和感を江戸っ子言葉で鋭く吐き出すこともあれば、かなりマニアックなアダルトビデオでしか耳にしたことのないエロワードで大はしゃぎすることもある。その「激しさ」は実際にラジオブース内でパンツ一丁になってO.A.することもあるほどだ。
 時事ネタから自らの下半身の粗相の話にいたるまで全身全霊でリスナーに絶叫する姿は、NHK『100分 de 名著』で専門家に物腰柔らく質問する姿とは正反対の印象を受けるかもしれない。

 伊集院本人が嫌がっている呼び方であり、私もあまり良い言葉だとは思わないのだが、この番組でのキャラクターを「黒伊集院」と形容されることもある(昼のほうを「白~」とも)。だが伊集院のペルソナ的キャラクターはもっともっと複雑で、「白・黒」だけでは割り切れるものでは無いように感じる。
 前述した教養系番組で見聞したことを不登校のような形で都立高校を中退した立場から見つめたり、深夜ラジオという元々若者文化であったスペースで「ベテラン」になっていくことに向き合ったり、奥さんとの仲睦まじいエピソードと深夜番組らしい童貞・非モテエピソードを矛盾なく並列にしゃべりの題材に昇華させていく。
 「黒」とされる『深夜の馬鹿力』のなかでも、そうした二つの側面に挟まれて何を思うか?というトークが繰り広げられがちなのだ。「ペルソナ」の語源は役者用の仮面であるが、伊集院はいくつもの仮面を抱ている。そして仮面もその下の素顔も出し惜しみすることなく白も黒もすべてひっくるめてしゃべり倒すのが、この『深夜の馬鹿力』における伊集院の姿である。

 人間誰しも外っ面と本音を持ち合わせている。だが伊集院のようにその両面を言葉に託し、さらにはその中間にあるいびつで煮え切らない感情までもさらけ出すことは容易ではない。胸の内にある形ないものを世の中に「代弁」してくれる伊集院の力強さこそ、彼が月曜日の果てという複雑な時間帯にふさわしい理由なのではないか。
 

 この番組に『少しおもしろい』と『空脳アワー』という二つのコーナーがある。
 『少しおもしろい』は文字通り、わずかに「フフッ」となるだけのネタメールを募集するコーナーだ。面白さを制限される機会は少ないと思うが、このコーナーのミソは「面白すぎない」部分である。ちょっと自慢させてもらうと私も

「馬鹿よ貴方は」の対義語、「I’m perfect human」

 というネタメールで採用されたことがある(あの時は本当に嬉しかった~)。こうした「爆笑」を目指すのとは方向性が違うネタに、「不意打ち」のような笑いが沸き起こるコーナーである。
 対照的に『空脳アワー』は複雑なコーナーだ。幼少期のどうしても腑に落ちない記憶や、いくら思い返しても整合性のとれない矛盾した思い出を、「空耳」ならぬ「空脳」として募集するコーナーだ。当事者である投稿者すら納得がいってない変な記憶を真夜中に電波を介して共有するのはなかなか奇妙な体験である。「スカッと」という体験を募集するテレビ番組も存在するが、このコーナーは「スカッと」どころか「……え? それで、結局どういうこと?」というつかみどころのない不思議な後味ばかり残して終わる。
 

 「面白すぎない」と「不思議」。どちらも確固たる着地点がない分、リスナーの想像が膨らむ余地が大きく広がっている。わざと不安定な枠組みを規定して、その分だけ受け手の想像する楽しさを増幅させるという前衛文学のような手法であるが、これを放送で成立させることができるのは伊集院光以外には出来ないだろう。大胆さと繊細さを持ち合わせ、なによりラジオという音だけのメディアの魅力を知り尽くした人間にしか出来ないオンリーワンのやり方だと確信を持って言える。

 過剰とも言えるほどに情報を得ることができる現代、五感全て使って楽しめる娯楽も、その対価として心身共に疲れてしまったり億劫さを感じてしまうこともある。
 一方で自分の想像の世界に没頭できるラジオは、激しさもゆるやかさも自分の脳内のさじ加減で自由自在だ。音声だけのラジオが決して古くならないのは、自分だけの世界を脳内の持つことが出来るからだろう。人間が言葉から想像を膨らませることが出来る動物である限り、ラジオは今後も私たちの耳に寄り添ってくれるはずだ。

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