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「言葉を選んだ本音」を講談師が語るということ:『問わず語りの神田伯山』


 金曜の21時30分。ラジオから『問わず語りの神田伯山』のテーマソングである、ジョー山中の『人間の証明のテーマ』をバックに、講談師の六代目・神田伯山がリスナーに語りかける。

 

 子供のころ、私にとってラジオは、大人の本音が聴ける場所でした。
 今ならネットで本音はあふれていますが、人に届く本音、言葉を選んだ本音を聴けるのは、私にとってラジオだけだったと思っております

   山中の力強くも物憂げな歌声は、そのままこの番組のパーソナリティの個性をそのまま表しているかもしれない。“講談界の風雲児”としてテレビで他ジャンルのタレントやお笑い芸人に埋もれることなく力強く存在感を示し、講談を知ってもらおうとする姿はパワフルであり、対照的に高座ではテレビで見せる姿とはまた異なるひややかな声で怪談や侠客伝を演じることもある。


 『問わず語り…』は30分の「ひとりしゃべり」の(厳密には「笑い屋」はいるが)ラジオである。講談の世界には古くから<講釈師 見てきたような 嘘をつき>という川柳が語り継がれているほど、臨場感を大切にしている芸であるが、このラジオの「ひとりしゃべり」の臨場感はどんなラジオとも異なる引き込まれ方がある。
 2018年9月16日に放送した子供が生まれた直後の伯山(放送当時は松之丞)夫妻を語った回では、もはや「引き込まれる」という次元を超えて、「話に閉じ込められる」というくらい真に迫る語りだった。出産後伯山夫人が体調を悪くし、生まれたばかりの赤子を抱えながら慌てふためく様子を、緊迫感のなかに諧謔を交えて流れるように言葉を紡いでいく、圧倒の30分だった。“神回(かみかい)”という表現はあまり好きではないのだが、聴き終わってからすぐに「これは後世にまで語り継がれる回になるな」という風に感じたのをよく覚えている。
 講談は落語と比べても会話ではない「地の文」の部分が多い、まさに「ひとりしゃべり」の芸能だが、その凄さが余すことなく詰まっていた回だったように記憶している。


 随所にそうしたほかの番組にはない、「切れ味」の鋭い語りが聴けるラジオなのだが、特にこのラジオについて書く上で外せないキーワードがやはり「本音」だろう。先ほど触れたこのラジオの「マクラ」ともいうべき口上にも「本音」という単語が繰り返し登場している。
 伯山は番組開始時から心の底にあるもやもやした感情や、理不尽な出来事に対しての愚痴を言葉のエンターテイメントにしてきた。テレビ番組ではストレート過ぎるような内容の話も、視聴者との距離が近いラジオで、それも痴情のもつれの末に師匠の絵師・菱川重信を殺め、その絵師が化けて現れる怪談『乳房榎(ちぶさえのき)』と同じトーンで語るとなると、凄味がドンと伝わってくる。

 もちろん本音を言うということは「正直」である反面、むき出しにした感情を相手にぶつけることになり、時として人間関係のゆがみを作ることもある。伊集院光からは直接『深夜の馬鹿力』で「あいつとはもうない」と絶縁宣言をされてしまった。
 しかし伯山がストレートな本音を語り続けるのは、伯山本人の言う「しゃべり屋の業」なのかもしれない(21年3月12日放送分参照)。目先の損得にとらわれず、話したいことをそのまま電波にのせて、心の内をリスナーに出し惜しみなく見せていく。
 仮に齟齬を生むことがあったとしても、等身大の自分をさらけ出し、リスナーと深い部分での共感を目指す伯山のスタイルは筋の通った強い矜持があるように思うし、前述の『人間の証明のテーマ』の山中の歌声と同様の「力強さ」と「物憂げさ」を感じるのは、この本音の凄味と全員にいい顔をしない部分に起因するのかもしれない。


  東京を拠点とする落語家が約600人ほどであるのに対し、講談師はその10パーセントほどの人数である。しかもその「10パーセント」である講談師の男女比を覗くと、約7割を女性講談師が占めている。伯山も自嘲的に自らを「絶滅危惧種」と称しているが、その一方で講談は気付かれていないだけで、多くの魅力が埋まっている「宝の山」とも語っている。果たしてこの先どんな宝物を見せてくれるのか。今後とも耳が離せないラジオであることは間違いない。



※<講釈師 見てきた…>の古川柳の部分については神田松鯉『人生を豊かにしたい人のための講談』(2020年・マイナビ新書)も参照しました
 

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