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『ドッグファイト』を観て考えたこと

男たちの連帯

  映画やドラマの中で、男同士が集まると、性体験の世話をしたがるのって何なんだろう。最近でこそそうした場面はあまり見なくなったし、心地よいホモソーシャル関係を維持しようとして、間接的に同性愛嫌悪(ホモフォビア)をアピールする振る舞いともいえるのだろう。くらいのことは、長く生きてきたおかげで思いつくようにはなったけど、ああいう見ている女性の気持ちを考えない(どころか、共犯関係にさえしようとする)男たちの連帯場面を見るのは本当に苦痛だった。
 去年観た舞台『サイドウェイ』がそうだったし、ミュージカル『ドッグファイト』の冒頭もそんな場面が延々と続いて、これにはげんなりした。

  もうさんざん見てきたのだ。映画やドラマで、男同士の馬鹿な遊びを肯定的に描いたり、男性側の勝手な思い込みで女性が描かれたり、女性が屈辱的な扱いを受ける場面を。「映画として優れているから」とか「おもしろいと思えない映画からも学ぶところがある」なんて言い聞かせたり、「男とはそういうものなんだ」「普通なこととして受け止められない自分は狭量なのかもしれない」というような後ろめたささえ感じながら。
 振り返ると、そうやって、苦痛を感じた場面をやり過ごしてきてしまった過去の自分が情けないし不憫だし頭にくる。
 怒っていいところだったのだ。あんな場面やあんな場面やあんな場面にいたたまれなくなっていたのは、自然な反応だった。
 そう気づいてしまったからには、新しくつくられる作品ではおとなしく付き合う気はない。これ以上ガマンはしない。そういう場面は見たくない。男のロマンはうんざりなんだ。

「ドッグファイト」とは

 まあ、そんなわけで、『ドッグファイト』の冒頭は、ホントに観ているのがつらかったわけです。

 タイトルになっている「ドッグファイト」とは、元は犬のけんかのこと。それが、戦闘機どうしの空中戦を表す軍事用語になり、アメリカ海兵隊員たちの間で代々繰り広げられてきたある「遊び」の名前になったらしい。
 戦地に赴く海兵隊員たちが、街で引っかけてきた女の子のイケてなさを競う逆コンテストを行って(もちろん連れてこられた女の子たちの同意は得ていない)、最高にイケてない女の子をつれてきたヤツが賞金をもらうのだ。こんな女とおつかれさん…的な報奨金なんだろうと思う。

 そんな最低最悪なゲームではしゃぎ回っているのが、新米海兵隊員の三人組、エディ(屋良朝幸)、ボーランド(藤岡正明)、バーンスタイン(大久保祥太郎)。ファミリー・ネームが全員Bで始まることから「bee(ハチ)」にかけて「Three Bees スリー・ビーズ(3匹のハチ)」というチーム名をつけて、「ちょっとベトナムに行ってくるから」なんて言って盛り上がっている。

 ちなみに、パンフレットの中で脚本を書いたピーター・ドゥシャンは「ドッグファイト」についてこう書いている。

 『ドッグファイト』はアメリカ海兵隊に実在する伝統であり、私たちはその慣習を、他者の人間性を無視するやり方を学ぶための方法だと考えています。登場人物たちはデート相手の女性たちを、感情を持つ人間というよりもむしろモノとして扱うのですが、それは戦いの中で彼らを待ち構えている現実に対する準備だと見なすことができます。
『ドッグファイト』パンフレットより

  ひどいことだ。戦争はどれだけ人の尊厳を踏みにじるのかと思う。でも、そのからくりは舞台では語られない。スリー・ビーズの三人も、本当は戦地で待っている職務に対して思うところはあったのかもしれないけれど、舞台でそんなそぶりは見えなかった。

ローズとエディの恋物語

 「ドッグファイト」に参加することになったスリー・ビーズが見つけてきた三人の「最低な彼女」が、ダイナーで母親と一緒に働く、フォークソング好きな冴えない女の子ローズ(昆 夏美)。セックスワークをしているはすっぱなマーシー(壮 一帆)。ネイティブアメリカンの衣装をまとったルース(池谷祐子)だ。

  ヒロインのローズは、なぜここまで? というくらい太っておどおどとした姿で登場する。ルックスこそ万人好みとはいえないけれど、フォークの父と呼ばれたウディ・ガスリーの音楽に心酔していて、自分でもギターの弾き語りをする少女。自己肯定感は低そうだけど、状況認識能力は高く、とても賢い。

 ドッグファイトのからくりがわかったときから、「青春バカ映画」のパターンどおり、ローズが傷つけられる姿を見せられるのかなあ、それとも、スティーヴン・キングの『キャリー』みたいに、どこかで爆発しちゃうのか、あまり楽しいことは待っていなさそうでイヤだなあと思っていたら、どちらも違っていて、少しずつ態勢が変わっていく。

  初めてデートに誘われて舞い上がっていたローズは、マーシーから「ドッグファイト」のからくりを知らされ、エディたちにひどい言葉を投げつけて家に帰ってしまうのだけど、ここから本当の恋物語が始まる。

 エディは再び、ローズのいるダイナーの扉をたたく。

 エディは気づいたのだ。ローズに対してひどいことをしてしまったと。ローズはエディを許し、最初のデートをやり直そうと提案する。普通の恋人同士のようにレストランで食事をしたいのだと言う。

 ここからの二人のデートのやり直しが本当に楽しくすてきだった。

 二人の会話が楽しいのだ。脚本がよく書けているし、ローズが間違いを冒したエディを許すのがいい。そして、はじめに書いたように、エディの人としてしちゃいけない振る舞いを、ローズが一つ一つ、ユーモアと愛情をもって、それは間違っているのだときっちりと伝える。レストランで、お店の人に横暴にふるまうエディに辟易し、エディがしたのと同じことをやって見せるシーンは最高だった。そして、エディは変わっていく。

 ローズはすてきだ。エディのルックスがいいとか、踊れるからってだけで、なあなあになってダメなところを許してしまったりはしないのだ。
 ふっと我に返ると、エディってローズが恋するに値するような人かなあと思ってしまうけど、恋なんてそんなもの。そこが非少女マンガ的でいいのかもしれないと思い直す。ちょっと母親の役割? とも思わなくもないけど、恋のかたちはさまざまだし、ローズがあまりにも愛らしくて、冒頭でのつらい時間も忘れて、ここは観客として見守ろうと決意する。

  「なぜ、一緒に来てくれたのか」聞くエディに、「このまま行かなかったら、あなたの中でわたしはずっと最低な女の子のままになっちゃうでしょ」とローズは答える。本当にすてきな場面だった。

 ローズを演じた昆さんがすばらしかった。歌がカンペキで、60年代のフォークソングの雰囲気をあまさず表現しているのはもちろん、少し屈折した女の子の気持ちを細やかに表現していて素晴らしい。ローズの取った行動で、唯一腑に落ちないのが、エディを見限らなかったことくらいだ。

 しかし、二人の間に戦争が立ちはだかる。戦場から出すと約束していたローズへの手紙は、アドレスを捨てられてしまい、出せなかった。

  それから4年後の1967年――。オープニングアクトで明かされていたとおり、戦争によるPTSDでボロボロになったエディがサンフランシスコに戻ってきたのだった。

 ここからはエピローグ。

 スリー・ビーズの三人のうち、生きて帰ったのはエディだけだった。
 帰ってきたエディは、ローズのダイナーへ向かう。ダイナーはそのままだった。ローズは、なぜ手紙をくれなかったのとなじるけれど、二人は抱き合う。

  あまりに甘いラストシーンなので、ここはそのままは受け取れない。『ラ・ラ・ランド』よろしく、「こうだったかもしれない」世界を描いたのではないかと考えてみる。

 だとしたら、夢見たのは誰か? 

 エディの見た夢なら、ローズはあんなに太っているだろうか。もっと素敵な姿にしない? 却下。

 ローズの夢だったとしたら、ローズはジョーン・バエズかジョニ・ミッチェルみたいになっているんじゃないかと思う。そもそもエディのことをそんなに思い続けてる? これも却下。

  本当のお話というにはラストシーンはちょっと甘すぎだなとわたしは思うけれど、やはり、これは現代のおとぎ話だったのだろう。

 間違いをおかしたのはエディだけではない。

 ローズもだ。「ドッグファイト」のゲームを知ったとき、罠にはめた奴らに呪いをかけるように、彼女らしくない言葉を浴びせてしまった。
 「あんたたちなんか死んじゃえばいい」。
 どんな理由があっても、言ってはいけない言葉だったと思う。
 もし、その言葉を投げつけなかったら、ローズのアドレスだって捨てられることはなかったかもしれない。ローズだって、ひどいことを言ってしまったことを悔やみ続け、自分を許せなくなっていたかもしれない。

 人は過ちをおかすことがある。無意識のうちに差別や偏見に加担してしまうことだってある。でも、そのことに気づき、許し、向き合っている人の本当の姿を見ることができれば、乗り越えることができる。エディとローズ。二人にかけられた呪いは、ここでやっととけたのだ。

 それにしても、崑さんにあんなに肉襦袢つけて太らせなくてもよかったのにと思うけれど、「外見ではなく内面を見なければいけない」ことを教えてくれるおとぎ話なのだと思えば納得はできる。

 そういえば、崑さんがミュージカル版『アダムスファミリー』で、ウェンズデーを演じたことを思い出す。
(ついでながら、マーシーを演じた壮さんは、再演の『アダムスファミリー』で、アダムス家の母親、モーティシアを演じていた)

  そして、映画版『アダムスファミリー』でウェンズデーだったクリスティーナ・リッチがブタ鼻の少女を演じた映画『ペネロピ』を思い出す。これもまた、「外見ではなく中身が大事」「ありのままの自分で生きる」ことをそっと教えてくれる、本当にすてきなファンタジー映画だった。

 見始めたときは、最後まで見続けられるか不安になったくらいだった『ドッグファイト』だけど、観ているうちにだんだん印象が変わり、見終わってからもいろんなことを考えさせてくれる作品だった。舞台では語られないけれど、「ドッグファイト」で優勝したマーシーや、拉致されてきたルースが、どんな生活をしてきて、どんなことを考えているか。娼婦というしごとについて。戦地に行く前の心理について…。考えてみたいことはたくさんある。これでこそ、いま上演する意味があるというものだ。

 そして、登場人物の一人の名前がバーンスタインだったことから、舞台も時代も違うけど、2019年に宝塚月組が上演した『On the Town』の今日風リメイクといえるかもしれないと思った。『On the Town』は1944年のニューヨークが舞台。『ドッグファイト』は1964年から1967年のサンフランシスコ。舞台も時代も違うけど、『On the Town』の三人組の子ども世代である『ドッグファイト』では、20年の間に意識がちゃんとアップデートされていると思うとうれしくなる。

 ブレイク前のベンジ・パセック&ジャスティン・ポールがつくった曲もとってもいい。すっかり気に入って、ブロードウェイ版のアルバムをapple musicで聴いている。マーシーの曲なんか、かなり難しそうで、壮さんも苦戦しているみたいだったけど、もう一回観に行けたらよかったなあ。
 確かに一幕の男の子たちのバカ騒ぎは観るに堪えなかったけど、屋良朝幸さんはじめ、ジャニーズ事務所の役者さんたちだから、過度な生々しさは感じずに観られ、そこはよかったと思う。壮さんのマーシーもおもしろい役で、若干ハラハラしつつも楽しかった。

 再演されたら、また観に行っちゃうかもしれない。ローズにはシンガーの道を歩んでほしいけど、それもこちらの勝手な気持ちだから。

作品メモ

 オリジナルは、リバー・フェニックスとリリ・テイラーが出演した1991年のアメリカ映画《Dogfight》(『恋のドッグファイト』)。ピーター・ドゥシャン脚本でミュージカル化され、2012年にオフブロードウェイで初演。作詞・作曲は、『ラ・ラ・ランド』のベンジ・パセック&ジャスティン・ポール。


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