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宝塚雪組『ひかりふる路』  わたしがこの「物語」に乗れない五つの理由

1月7日 15時30分

■物語の案内役は誰?

大劇場で観て以来の観劇。ヒロインのマリー=アンヌを演じた真彩希帆ちゃんをはじめ、芝居の熱が抑えられ、作品全体が引き締まった印象を受けた。

とはいえ、作品に対する印象は、初見時からほとんど変わらず、やはりこの作品は好きになれないのだと悟った。

理由はいくつかある。まず一つは、物語のよりどころとなるような、観客が素直に感情移入できる人物がいないこと。

特に、今回のような、主人公に感情移入しづらかったり、複雑な歴史的背景をもった物語の場合はなおさら。観客が「この人について行けば安心」と思える、物語の案内役がほしい。はっきりとした狂言回しである必要はないのだけど、例えば、上田久美子先生の『神々の土地』のジナイーダ(純矢ちとせ)のように、ニュートラルな存在で、時代を正しく捉える知性をもった人物がいると、物語をたえず平行な地平に戻してくれ、観客に安心感をもたらしてくれる。

ところが『ひかりふる路』はというと、「案内役はもしかしてこの人?」と、目をつけると、ロラン婦人とタレーランのように、覇権争いで主人公と敵対する存在だったり、マリー=アンヌのように共感しづらい設定になっていたり、サン=ジュストのように幼い色恋に走ったりと、ほとんど誰も信用できない(笑)。

(個人的には、ダントン(彩風咲奈)かデムーラン(沙央くらま)あたりの扱いを変えて、観客目線の人物をつくる道もあったんじゃないかと思う)

物語に対してニュートラルな存在がいないということは、物語に軸がないということだ。

ただでさえ主人公のロベスピエール(望海風斗)は、行動に一貫性がなく、歴史的にも擁護できない人物だというのに、そのまま結末に向けて突き進むので、物語はゆらいだままだ。さらに、登場人物は多いけれど、群像劇というほどそれぞれの人物が描き込まれているわけではないので、小さな軸がたくさん出現してくるような状態になってしまう。主人公のロベスピエール同様、誰もが揺らいでいるので、この物語の船に乗った観客に、落ち着いて物語の行方を追うという楽しみが与えられることはない。

この作品がロベス・ピエールを主役にしてつくられると聞いたときから、ロベス・ピエールの行った恐怖政治を美化することなく、観客にニュートラルな歴史的判断をさせることができるかどうかが鍵になってくると思っていたのだけれど、生田大和先生はそこを避けてしまったのかもしれない。

もしも、歴史的事実だからということで省略せずに、愚直に思えても、ロベス・ピエールを「路を踏み外してしまった者」として、観客に分かりやすく伝えることができていたら、物語の軸はもっとはっきりしたように思う。

もちろん、物語に軸がなく、登場人物が全員迷走しているような混沌とした状態こそ「リアル・フランス革命だ」と捉えることもできるだろう。けれど、宝塚歌劇の世界にそれはちょっと冷笑的だし、そういうリアルな志向で行くのならば、登場人物たちの「情」の問題を持ち出す前に、もっときっちり「革命」と「思想」を描いてほしかった。

■マリー=アンヌの人物設定

観客が共感する、ニュートラルな視点をもった人物なら、マリー=アンヌということになるのだと思う。

のではあるけれど、主人公との恋愛が絡んでくるので話が込み入ってくるし、そもそものマリー=アンヌの設定に無理があるので、感情移入をするのが難しかった。

この「マリー=アンヌの人物設定」が、わたしがこの物語に乗れない理由の二つ目だ。

マリー=アンヌは、貴族の家に生まれ、家族から愛されて育ってきたということが冒頭で示される。そんな娘が、革命派に家族を殺されたという理由で、「革命」を憎み、その中心人物となっているロベス・ピエールを「殺そう」と決意し、たった一人でパリの巷で生きていこうとするだろうか。オスカルでも、ジャンヌでもない、大切に育てられた貴族の娘が、そんな考えを持ち、二本の剣を操る技術を身につけるとは、素直に信じられなかった。

その場面でマリー=アンヌは、なぜ自分がロベス・ピエールを殺さなければならないかを独白する場面があるが(真彩希帆の演技は東京に来て、ぐっとよくなったけれど)、理詰め過ぎるし、自己との対話は病的で、聞けば聞くほど「いやいや、それは無理だから(笑)」と、気持ちが物語から引いていってしまった。物語に入り込んでいないうちに、こうした無理な設定が一つでもあると、乗りそこなってしまうのは個人的な悪いクセなのかもしれないけれど、ここは本当にいただけない。

マリー=アンヌが、聡明な女性として描かれていることには好感を持った。でも、この作品に描かれているほどの聡明さがあるのならば、自分の出自と「階級」について考えることも、清廉だったロベス・ピエールが胸に抱いていてた「革命」への理想に共感することもあったはず。そういう場面をぜひとも描いてほしかった。

プログラムに掲載されていた生田先生の解説によると、マリー=アンヌについては、ジャン=ポール・マラーを暗殺した「暗殺の天使」シャルロット・コルデ、ロベスピエール暗殺未遂犯のセシル・ルノーをイメージしたということだった。

なるほどー。そもそも「暗殺の天使」を演じさせたかったのか。でも、微妙に改変しているから、つじつまが合わなくなってしまったのか。その前に、話が複雑になりすぎるし、自分の思いを入れすぎると、やっぱり見えなくなってしまうんだなあ。……て、生田先生がまさに、ロベスピエールでありマリー=アンヌであるという……。いや、もうやめておきます(笑)。

■もっと楽しい場面を

物語に乗れない理由の三つ目は、楽しい場面がほとんどないことだ。

もちろん、フランク・ワイルドホーンによる楽曲をキャストたちが歌うシーンは、楽しさ、幸せの極みです。さすがはホイルドホーン。『スカーレット・ピンパーネル』の世界観をそのまま使った曲といい、アレンジもきれいにハマって、ミュージカル的な満足感はとても大きい。

それがこの作品の一番の見どころになっているし、だいもん、まあやのパフォーマンスも申し分ない。その満足感があればいいと考える人も多いのだろう。

でも、わたしはそこに腹が立って仕方がない。ミュージカルナンバーさえよければいいの? ミュージカルって、そんなに簡単なもの? そんなことはないはずなのだ。

例えば、冒頭にロベス・ピエールが歌う「ひかりふる路へ」の扱いがもったいない。『スカーレット・ピンパーネル』の「ひとかけらの勇気」風の壮大な曲で、だいもんがその曲を、ていねいに、ていねいに歌って、青年ロベスピエールの夢と理想を聴かせてくれる。ここは本当に胸にしみる。

だからこそ、まだ盛り上がっていない冒頭で、これを出しちゃいますか? という気分になる。初見のときも、え? もう? いや、またラストにも歌ってくれるんだよね? と思っていたのだけど、残念ながらリプライズはなく、それが本当に寂しかった。一番印象的な主題歌は、お話がバーンと盛り上がるところで入るからいいのでは? ここで出してしまうのは、あまりにももったいないし、タイトルの「ひかりふる路」の意味合いが通りにくくなると思う。

ここで「ひかりふる路」を歌ってしまったら、後は、ロベスピエールは苦悩し、「革命」に取り憑かれていく。いさかいを起こし、恐怖政治で粛清するだけ。

楽しい場面をつくることもできたと思う。

例えば、尺の問題があると思うから、まず、観客に恐怖感しかもたらさない(本当にぞっとした)「至高の存在の祭典」の場面をバッサリ行きましょう(笑)。

それから、いい場面ではあるのだけど、物語の本筋と絡んでいるわけではないので、とってつけた感が否めなかった女性革命家たちの場面を、なんとか本筋とリンクさせたい。ダントンがごちそうを引っくり返す場面が不快なので、「パン」の問題と絡められたらよかったんじゃないかなあ。フランス革命といったら「パン」でしょ。女性市民革命家たちが、料理やパンを盗みに行ったりするような、「市民生活」と結びついた楽しいナンバーもほしい。

あとは、印刷所の場面も楽しいナンバーになりそうだし、王族たちの場面もほしい。ロベスピエールとダントンの場面は、子供っぽい友情話はほどほどにして、ミュージカルらしくかけあいの歌にすればいい。

ロベスピエールとマリー=アンヌも、つまらないディベートばかりしていないで、たまには、街の酒場でダンスくらいしたらどう? 愛すみれちゃんあたりが、そんなおせっかいおばちゃん役をしたっていいよね?(笑)

楽しい場面なんか、いくらでもつくれるはずなのだ。これが歴史再現ミュージカルでないのなら。

もちろんミュージカル場面には大満足なのだけど、あまりにも楽しい場面がない構成が、本当につらかった。ベタだけれど、プロローグをロベスピエールの死から始めて、過去を振り返り、もしかしたらこうだったかもしれないパラレルワールドをラストで示してみせるような構成じゃダメだったのかな。それなら、最後に主題歌「ひかりふる路へ」をバーンと持ってこられるんだけどなあ…。

■「革命」と「情」と

理由の四つ目は、「革命」「革命」と言い過ぎる問題。

印象として、東京に来てから若干緩和された気はしているけれど、それでも、「革命」という言葉が何度も出てくるのが気になって仕方なかった。

実際に当事者たちが、あんなに高らかに「革命が」「革命が」と言うものだろうか(笑)。「世界を変えること」くらいの言い方のほうがずっとしっくり来る。

「革命」の問題と「友情」の問題をごっちゃにしているのも気になった。

『ロミオとジュリエット』のような、年若い者たちのお話ならまだわかるけれど、仮にも、国を動かそうとしている活動家たちの会話として、あまりにも幼稚なのも気になった…。友情が革命をなんとかしてくれる? 本気で思ってる?

ダントンがロベスピエールに食事をふるまう場面も、もしかしたら史実なのかもしれないけれど、思想がなくて「情」ばかりを押してくるので、ダントンはただのマッチョ、ロベスピエールも無能な男に思える。サン・ジュストが巡らせる策謀も幼稚すぎて、あんな見え透いたお世辞になびいてしまうロベス・ピエールって、なんだか情けない。

■ロベス・ピエールとは何者だったのか

そもそも、ロベスピエールとは何者だったのか。

いま、あえて、ロベスピエールを主役にしてミュージカルをつくるのなら、少なくとも、「ロベスピエールはなぜ、恐怖政治に取り憑かれてしまったのか」という問いに対する作者としてのオリジナルな答はほしい。結局、この作品からは、それが何も見えてこなかった。これが、わたしがこの物語に乗れなかった理由の五つ目だ。

マリー=アンヌが最後に、ロベスピエールに背中を向けて去って行くことがすべてなのだろう。もちろんそれは分かるのだけど、きっちりとした答えがほしい。でないと、観客も「恐怖政治」を乗り越えられない。

そもそも生田先生が「なぜロベスピエールを描きたかったのか」「フランス革命とは何だったのか」という観客の問いに、答えられていないと思う。

登場人物たちのその後が中途半端なのも気になる。物語が終わっていないのだ。

■ミュージカルは難しい

ほんとうに、なぜこの題材だったんだろう。生田先生が個人的にロベスピエールが好きだったとか、だいもんに合っているという判断なのかなあ。

生田先生の思い入れがすごいことは伝わってきたけれど、それだけではいいミュージカルは作れない。

この作品が決まったとき、ロベスピエールが主役というところに疑問は残るけれど、音楽はワイルドホーンだし、「スカピン』の世界観をそのまま使えるし、面白いものになるのは間違いない。というようなことをTwitterに書いたと思う。

それに対しては、半分正解で、半分不正解かな。ミュージカルを作るのって大変なんだなあと。

『SHALL we ダンス?』のエラのセリフ「音楽を聴いて。楽しむのよ」の変奏になるけれど、こんなひと言を。

「もっとミュージカルを見て。楽しむのよ」

わたしはというと、こうやって書いたおかげで、物語の構造や設定、戯曲に関するモヤモヤ感はスッキリした。最後は、雪組の出演者たちのパフォーマンスに集中して楽しみたいと思う。




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