宝塚雪組『ひかりふる路』*新人公演を観て考えた

結局のところわたしは、「なぜロベスピエールなのか」というところで止まっていたのだと思う。

マクシミリアン・ロベスピエール。自身が「革命」と妄信するものを推し進めるために、恐怖政治で4万人もの命を奪った独裁者。何百年、何千年経ってもその行いを許せないし、そんな人物を宝塚歌劇の主役として描いてほしくなかった。

タカラヅカで上演するなら、よほど周到に扱わない限り、「美化」につながってしまうからだ。ナチスSSの軍服をカッコイイ衣装として身につけたアイドルグループが非難されるように、ロベスピエールを主役にすることは、超えてはならないラインを越えてしまうことではないか…。

ロベスピエールを愛せない。だから苦しいのだ。

そんなようなことに気づかせてくれたのが、『ひかりふる路』新人公演だった。

『ひかりふる路』は、雪組の新トップコンビ、望海風斗と真彩希帆のお披露目作品として作られたオリジナル作品だ。新人公演では、綾凰華さんと潤花さんという、共に初主演となる二人が演じた。綾さんは星組から組替え後、初の新人公演主演となった。

綾さんのロベスピエールは、最初は、線が細く、革命を率いたり、狂った道を突き進んでいくような人物には見えなかった。

でも、それは仕方のないことだろう。ロベスピエールの演説だって主題歌にしてしまっているくらい、若き日のロベスピエールを表現できる時間は短い。そして、そもそもセリフとしてはほとんど書かれていないのだから。

逆に、だいもん(望海風斗)はこの条件下で、ロベスピエールの生真面目さ、硬直さ、そして理屈っぽさや危うさをよく表現していたもんだと感心してしまう。

新人公演の話に戻る。

誠実そうだけれど、ちょっと頼りない綾さんのロベスピエールが、ここからどう変わるんだろうと思っていたら、「恐怖政治」を打ち出したあたりから、スイッチが入った。

狂ったものであっても、一つの路を突き進む心情と、マリー=アンヌという一人の女声を愛する気持ちはつかみやすいものだから、そこに焦点を絞っていったのかもしれないし、演出的な指導があったのかもしれない。あるいは、綾さんと潤さんが、革命を背景に恋する二人を素直に演じたら結果的にそうなったのかもしれない。

ラストに向かってガーッとテンションを上げていく流れに星組育ちを感じつつも、綾さんの素直な芝居は好ましかったし、マリー=アンヌの潤さんの芝居とも方向性が合っていて、わかりやすくなったというのもある。

まあや(真彩希帆)のマリー=アンヌが、きちんと思考を重ね、感情を押さえておそるおそる言葉を口にしていたのに対し、潤花さんのマリー=アンヌは、目の前で起こることに、素直に反応していく。「恐怖政治」に対してストレートにノンを言うようなお芝居で、長身なこともあって、暗殺を企んで舞台中央に目を伏せて仁王立ちするシーンは、まさに「暗殺の天使」。そのカッコよさに目を見張った。

(潤花さん。久しぶりの大型娘役では? メイクと髪型だけが残念でした(笑)。まだ若いし、センスを磨くのは大変だけど、自分に合うスタイルが見つかるといいね)

本公演は、人数も段違いだし、だいもんとまあやをはじめ、歌や芝居のパフォーマンスは日に日に充実し、ただでさえ、くすっと笑ったり、よそ見をしたり、振り返ったり考えたりする「間」のない舞台が、ただごとではない密度の濃い舞台に出来上がっている。

一方の新人公演はというと、大劇場で一回、東京で一回だけ、下級生だけで演じる公演であり、人数的にもパフォーマンス的にも、隙間の多い舞台になる。でも、それが今回はわかりやすさにつながった。シンプルでスッキリとして、とても見やすかったのだ。

新人公演の舞台は、たとえるなら「ベルばら外伝 ロベスピエール編」だった。演じる人物に対して深くアプローチはせず、見せ場となる場面の芝居に集中して感情を解き放つ。だからラストの牢獄がとてもよかった。フェルゼンとマリー・アントワネットの「牢獄」がそうだったように、観客を素直に泣かせる悲恋物になっていた。二人を隔てているはずの哲の柵が取り去られる演劇的マジックも、不思議と自然に受け容れることができた。

そして、またしても本公演の二人を思う。

だいもんとまあや。この二人は、どれだけ、ロベスピエールとマリー=アンヌの深いところを表現しようとしているのだと。

ふたたび、新人公演の話。

潤さんのマリー=アンヌからは、葛藤がストレートに伝わってきた。

「ロベスピエール」を殺害しようとして嘘をついて近づいたマリー=アンヌだったけれど、人が安心して暮らせる社会にしたいと考える彼の理想と本質的な部分を見て、「マクシミリアン」が好きになった。でも、「恐怖政治」を勧める「ロベスピエール」のやり方は間違っている。このまま推めさせるのを見ていることはできない。

「でも、あなたを愛してしまった」

マリー=アンヌのそのひと言で氷解した。

マリー=アンヌは「マクシミリアン」を愛しているけれど、「ロベスピエール」は許せないのだ。

わたしも同じだった。「マクシミリアン」も、だいもんの芝居も歌も好きだけれど、「ロベスピエール」を愛せなかった。許せなかった。だから苦しかったのだ。

もしかして、だいもんも「ロベスピエール」を愛せないでいるんじゃないかと、ふっと思った。

この新人公演のように、ロベスピエールの一つのエピソードとして、悲恋物語風に演じることだってできなくはなかったのに。だいもんは、この作品の中で、どれだけのものを抱え込んでいるんだと恐ろしくなる。

ラストも、だいもんは「ロベスピエール」の犯した過ちをすべて受け止めて、幕をおろそうとしたんじゃないかと思う。

リアルに想像すれば、牢獄でのマリー=アンヌとの会話は、あの状態のロベスピエールには過酷すぎたと思う。新人公演のロベスピエールは、愛を抱きしめてきれいに死への路を歩いて行ったけれど、だいもんののロベスピエールは、そんなきれいな状況ではなかっただろう。

脚本にははっきりと示されていなかったロベスピエールの罪をマクシミリアンとして受け止め、演じようとしていたのかもしれない。

ダントンとデムーランを自ら断頭台に送ってしまったこと。恐怖で押さえつけ、多くの人の命を奪ったこと。

そして、愛したマリー=アンヌから告げられた衝撃の真実。あの告白で、マクシミリアンとロベスピエールは、完全に引き裂かれてしまったのではないだろうか。

人が人を裁き、人の命を奪うことの恐怖を知っただろう。

そこに愛が介入する余地はあっただろうか。

ただもう、無になりたかった。光になりたかった。そんな最期。

あれは、ある意味、ギロチン処刑を見せるよりも厳しいラストだったのかもしれない。

マリー=アンヌだってそうだ。マクシミリアンに背中を押されて、牢を出たけれど、その後に明るい希望が待っているとはとても思えないのだ。

なんというバッドエンディング。

そして、同じ脚本でありながら、ある意味ハッピーエンディングだった新人公演と並べて考えると、積み重ねた芝居によって、ここまで違ってしまうのか、役者によってこんなにも変わってしまうものなのかと驚く。

こんなことを考えたのも新人公演を見たからで、最後にもう一度観劇する予定だけれど、観終わって、「生田先生、ごめん。『ひかりふる路』大好きだよ」とか書いていたりして(笑)。

舞台で何が起こるか、そこから自分が何を受け取るかは、本当に観てみないとわからないから。

やっぱり、冒頭に戻ってしまうけど、「なぜロベスピエールなのか」という疑問に対する納得できる答えは見つけられないだろうと思う。

それは個人的な思いとして、『ひかりふる路』を素晴らしいという人がたくさんいるというのはよく分かる。実際に、いいなあと思う場面もたくさんあった。

例えば、マリー=アンヌの回想シーンなんかきれいで大好き。無残な回想だけど、むやみにきれいで、新人公演も楽しかった。まあやがその中にいたりしてね。

新人公演については、ロベスピエール(綾凰華)、ダントン(叶ゆうり)、デムーラン(永久輝せあ)のバランスがよかったことも書いておきたい。三人三様で、それぞれやっぱり「ベルばら」っぽく(笑)、カッコよかった。

本公演の三人(だいもん、彩風咲奈、沙央くらま)も好きなんだけど、どうもしっくりこないというか、ダントンの咲ちゃんがバランスを取るべく損な役回りになってしまっているような気もして。まあ、そこは好みかな。好みでいえば、ダントンをコマちゃんにして、デムーランが咲ちゃんだと、お話的にもわかりやすくなったと思う。

なぜこの三人だったのかという場面もあったらよかったなと思う。ダントンとマクシムの食事の場面も、あくまでも二人の問題だと言いはったけど、そうは思わない。「革命」に対する理念があって友情は成立したはず。革命、革命、友情、友情と大きな声で言い合うんじゃなくて、感情が触れ合ったり、ぶつかったり、すれ違ったりする瞬間こそが見たいのです。

全然関係ないんだけど、少し前にTwitterで、小さい男の子はなぜか棒を持つという話で盛り上がっていて面白いなあと思ったんだけど、生田先生にしても原田先生にしても、男子はなぜ歴史と戦争を目指すのでしょうね。女性のお客さまが多いタカラヅカの舞台で。

それにしても、タカラヅカではただでさえ稀少なオリジナル作品で、最近ラブロマンスやラブコメが足りないわあ。だいもんとまあやでスクリューボール・コメディなんか観たいんだけどなあ。

(もうすでに『ひかりふる路』の話からは遠く(笑))

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?