私の先祖は明智光秀と判明した過程。その8

本能寺の変の起こった天正10年。
光秀の孫である三宅藤兵衛はわずか二歳。

山崎合戦で明智軍が秀吉軍に敗北を喫した時、藤兵衛の父・明智秀満は安土城の守備にあたっていました。
光秀敗死の報を知った秀満は、明智一族の居城である坂本城に向かいました。

この時敵の追尾を切り抜け、琵琶湖を愛馬にまたがったまま渡りきった「左馬助の湖水渡り」伝説が生まれます。
その様子は歌舞伎の一場面にもなり世に広まりましたがおそらく湖水渡りはフィクションでしょう。
そんな勇壮な逸話が生まれるほど優れた武将だったんだろうと思わせる伝承が、いくつか残っています。

坂本城に入った秀満は、妻倫子を含む光秀の家族たちを手にかけたあと、城に火をかけ自身は切腹。
美しさを讃えられた水城、坂本城はあとかたもなく消え去りました。
近代になり発掘調査もおこなわれましたが、どのような城であったのかはほとんど何もわかっていません。
何十年に一度かの渇水で琵琶湖が干上がった時、
一瞬その基礎部分であった石垣が姿を現すことも
ありますが、確かな位置や規模も今となってはわからない幻の城です。


秀満の嫡男藤兵衛も、その母や一族とともに坂本城で短い生涯を終えたかのように思われていましたが、実は藤兵衛は生き延びていたのです。

家を残すことが何より重要だったこの時代、藤兵衛以外にも光秀の親族で生き延びた人がいるという伝承が各地に残っています。
明智一族の遺体が発見されたり、捕まって処刑されたという確かな記録もないため、そのような伝承が生まれたのでしょうか。

わたしが家系調査を始めた当初、うちのような平凡な一般庶民の家が明智一族だなんて、たぶんただの間違いだろうと思っていました。
ですから出てくる話をすべて片っ端から疑って、まず否定することから調査をはじめました。
そうやって否定しても次から次へと裏づけのとれる事実ばかりが残っていき、現在に至っています。

三宅藤兵衛が落ち延びた話も最初はもちろん疑ってかかりました。
それがわたしが島原へ調査に行ってみると、藤兵衛は確かに本能寺の動乱を生き延びていたという証拠がいくつも見つかったのです。
そのうちの一つが島原の図書館で見つけた資料です。

『耶蘇征伐記』という資料に、「三宅藤兵衛は
本能寺の変の時に2歳で、父の明智左馬助(秀満)が藤兵衛を黄金50両とともに姥に預け、坂本城から落ち延びさせた。
姥は坂本と京の間にある八瀬の里に隠れ、八瀬の
里人は喜んで藤兵衛を匿った。」とあります。

この「八瀬の里」というのが信憑性を高めるポイントです。
その詳細はいずれまた……

島原で見つけた史料をもう一つ。
藤兵衛の家臣であった吉浦家に伝わる覚書には、「藤兵衛は坂本城から姥に預けられて落ち延びた。
京の商人、大文字屋に育てられていたが、のちに
細川家に引き取られ、ガラシャ夫人に育てられた」と記されています。

この『吉浦郷右衛門覚書』に登場する「京の商人・大文字屋」が存在するのかと調べたところ、信長、光秀と同時代に大文字屋という豪商のいたことを知りました。

大文字屋こと疋田宗観は、所有していた名物の茶器「初花肩衝」(はつはなかたつき)を、献上という名で信長に召し上げられた人物です。
もちろん光秀とも関わりがあります。

京で匿われたのち藤兵衛は細川家にひきとられ、
ガラシャはじめ細川家の人々に大切に育てられました。
この事実は細川家に正式な文書として、藤兵衛の出自が遺されていることを知りました。
ガラシャの遺書にも「藤兵衛のことをよろしく頼む」と書かれてあります。
ガラシャが藤兵衛を明智一族の形見として、いかに大事に思っていたかが偲ばれます。
藤兵衛はガラシャの影響でしょうか、キリシタンとなりましたが、のちに棄教しています。

ガラシャ亡き後、理由は不明ですが、藤兵衛は細川家を離れ、唐津藩寺沢家に仕えました。
寺沢家の藩主夫人は光秀と同族である土岐一族の
人であること。
秀満の家臣であった天野源右衛門が、明智家滅亡の後寺沢家に仕えていたこと等が、唐津藩に赴くことになった理由だと推測されています。

唐津藩士となった藤兵衛は重臣として遇されるようになり、妻も娶り跡継ぎの男子も生まれ、順調に唐津藩士としての日々を過ごしていたようです。しかし唐津藩内では外様として、また早い出世を妬まれることもあり、苦労した様子があります。
まるで信長に仕えてあっという間に家臣団のトップといわれる地位に上り詰めた祖父光秀のようではありませんか。

唐津藩では富岡城を預かる者として藩側と領民の間に立ち、追い詰められたような気配もあります。

そんな時に起こった天草・島原の乱で、藤兵衛は
富岡城を守ろうとして出陣。
多勢に囲まれてしまい、最期は切腹して果てました。

藤兵衛の墓は、亡くなった場所に近い広瀬村という土地にあります。
ここは藤兵衛の知行地の一つでもありました。
その墓前には慰霊のために立てられた石碑があります。
その石碑には藤兵衛の家紋、つまり明智家の家紋(そしてわたしの家の家紋でもある)桔梗紋と共に、碑を献碑した者として「有馬三宅一族」という文字が刻まれています。

その有馬三宅一族こそ、わたしの父の一族なのです。

家系図というものはさかんに偽系図が作られたこともあり、それだけではすぐに信用することはできません。
しかし石碑、しかも当人の墓に建てられた石碑というものは、勝手に偽造できるものではありません。
墓地を管理する寺の許可を得た子孫だからこそ、碑を建立できるのです。

この石碑には「有馬三宅一族」として、戸籍に出自が記されたわたしの祖父や、その先祖たちの名前がしっかりと彫られてあります。
墓を管理する寺、石碑、そして戸籍簿という公文書によって、(もちろん他にも幾種類もの系図や史料もあります)わたしの一族が明智光秀直系子孫であることが、厳然と証明されていたのです。
これは本当に驚きでした。

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