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その時、どんな表情にさせるべきか─。演出家はそれを考える仕事だと思う。

ここ何年か、八月がザワザワする。
広島、長崎、沖縄、終戦記念日……。
年々、戦争が遠くなっていくのか近くなっているのか分からなくなる。
気候変動の猛暑の中、高校球児のひたむきさに特攻兵の自己犠牲を重ねてしまい、甲子園を無邪気に楽しむ事ができない。終戦記念日、靖国神社に集うグロテスクなコスプレ。沖縄に甘え押し付け続けている私の暮らし……。

そんな中、金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」が放映しており、久しぶりにチラ見した。普段、仕事以外のアニメ鑑賞は避けがちだったので、どこか懐かしかったのだと思う。

作品がどんなテーマを内包しているのか──


実は、監督や作り手自身がその事を完全に理解している訳ではない。
特にアニメ制作では全てが想像世界なので、過去・記憶・歴史を拠り所にする事が多くなる。
特に、宮崎駿監督の作品はイメージボードから創造が始まる。妄想・記憶の断片から物語が編まれる。そして、監督自身が把握していないような思想や時代性が映画に立ち現れてくる。

左『天空の城ラピュタ』 右『風立ちぬ』

この二つのイメージは、同じ記憶から導き出されたイメージボードだ。
どこか半自伝的な要素も感じる「風立ちぬ」という作品を経て、この「天空の城ラピュタ」を鑑賞すると宮崎駿監督自身がアニメ制作を通じて自分の生きた時代と向き合い続けていた事が分かってくる。

竜の巣を抜け、パズーとシータがラピュタに到着してからの描写にザワザワした。
ロボット兵は零戦に似ている。あの孤独、悲しさ。王がいなくなった浮島ラピュタを今でもずっと一人で守っている。どうしても靖国に祀られている(と言われている)特攻隊員を重ねてしまう。

財宝を盗んでまんまと逃げようとするゴリアテに対して、自爆攻撃を仕掛けるロボット兵の虚しさ。
今更、ラピュタの王となる虚妄に取り憑かれたムスカに、シータが言い放つ。
「国が亡びたのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ」と——。
全てが終わり、カイトに乗りラピュタを去る時、パズーとシータは遠ざかって行く空中庭園にロボット兵を見つける。ロボット兵は花を持ち、鳥と戯れながら歩いている。ラピュタが崩壊した事には気づいてもいないようだ。
その時、見送る二人にどんな表情にさせるべきか。
演出家はそういう事を考える仕事だと思う。

●「風立ちぬ」については、以前、お笑いコンビ米粒写経のサンキュータツオさんにお誘い頂きライヴでお話しさせて頂きました。今回書いたような事をもっと細かく話しています。その時の動画→https://youtu.be/lOM3fuM7qR4
●児童文学やアニメなどファンタジー作品全般における作り手の深層心理については、河合隼雄さんの本「ファンタジーを読む」などに影響を受けました。


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