【おかえりモネ】と私の思い
私は宮城で生まれ育ち、一度も宮城から離れたことがない。
宮城で就職し、転職してもなお県内で地域に密着した仕事をしている。
朝ドラの舞台は、宮城県登米市・気仙沼市。
残念ながら、どちらも一度しか行ったことがない。
でも、馴染みのある方言を毎朝耳にするたびに、あぁ、宮城だなと感じる。
開始当初から、【東日本大震災】が描かれるのだということが分かった。
どのように描かれるのか、興味はありつつも見るのが怖かった。
私は、家の被害や仕事に支障をきたしたものの、被災者ではなかった。
あの日、破片だらけの家では寝られず、母と2人で車中泊をした。情報を得ようと車のテレビをつけると、真っ暗な映像と残酷な数字だけが流れていて、3月だというのに雪が舞って、絶望を感じた夜だった。
翌日から明らかになる現実が信じられず、心がどんどんえぐれていった。10年経った今も、三陸の方には行けていない。復興した街並みも、被害のあった地域も、宮城県民として目にするべきなのだろうけど、絶対涙は溢れてしまうし、また立ち直れないと思うから行く勇気がない。
大川小のことも、防災庁舎のことも、地元銀行女川支店のことも、調べれば調べるほど苦しくてたまらない。数字で書かれていても、一人ひとりの人生や家族を思うと、言葉が出てこない。
「何もできなかった」という気持ちが、ずっと私の中にある。
被災者にならなかった、何も失っていない、それはとても幸運なことなのに、同じ県民で被災された方のことを思うと申し訳なくなってしまった。
だから、モネの気持ちもお父さんの言葉も心に刺さっていて、正直、苦しい思いが顔を出していて、どんどん塞いだ傷をはがしていく。
(そんな時の菅波先生の癒しよ・・・)
NHK放送局のnoteを読んで、「自分は何もできなかったんじゃないか」という思いをアナウンサーの方も抱いていることに驚いた。
言葉にできないけど、きっと、みんなモネと同じなんだなって。
私だけじゃない、アナウンサーだけじゃない、全国各地に同じように思う方がいるんだろうな。同じように心を痛めた人がいるんだろうな。
私は、1ヶ月もすれば、電気も水道も復旧し、日常を取り戻していた。当時は銀行員として、被災された方の心に寄り添ったつもりだ。直接的に、誰かの命を救ったとかはできなかったけど、この10年間、自分のできる範囲でやってきたつもりだ。
あれから、何が起きても、自分だけは大丈夫だなんて思わない。対岸の火事だなんて思わないようにしている。目の前じゃなくても、日本中のどこかの誰かの痛みを少しでも同じように感じて、自分のできることをやっていく。
何もできなくても、何かできる。
そう信じている。
自然災害は無くならない。人災ということもある。
毎日目を背けたくなるニュースばかり。
でも、背けないで、どこかの誰かの涙を感じて、私も一緒に泣いていく。
「絶対立ち直らねぇ」
今日放送された、その言葉が私を救ってくれた。
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