科学のユーザとしての孫文とナイチンゲール

(注)この文章は、武上真理子氏(故人)の「科学の人・孫文 思想史的考察」が2014年に第4回山口一郎賞を受賞したことを受けて、2015年1月に孫文研究会が行った書評会のために宮川が書き下ろしたものです。


はじめに

 本書では、孫文が生きた時代の科学のありようを視野に入れながら、彼の科学的知識の吸収と運用、さらには科学に立脚した哲学の構築に至る過程について考察した。職業的科学者ではなかった孫文は、精力的な読書によって自然・社会・人文の各領域を跨ぐ広義の科学的知識を吸収し、それらを示説の具体的裏付けとして動員した。この際、孫文は科学のユーザであることに徹している。科学的言説のこうした形での受容と応用を可能にしたのは、同時代における科学の大衆化と汎用化、すなわちポピュラー・サイエンスの拡大であった。 ---「科学の人・孫文 終章 近代科学思想と孫文」(武上2014)より

 孫文が活動した19世紀末〜20世紀初頭は、まさに近代科学が円熟を迎えた時期であった。1900年12月31日に慶應義塾で開催された「世紀送迎会」では、20世紀を迎えるにあたって林毅陸(後の塾長)が以下のような内容の「世紀送迎の辞」を述べている。

十九世紀文明は自然科学の勝利であったが、科学の進歩が貧富の不平等を生むことになった。また政治上、思想上の奴隷を救うことをもって始まった十九世紀は、経済上、物質上の奴隷を作り出すことをもって終わった。十九世紀の偉人たちによって養われたけんらんたる文明の花を、見事に結実させることこそが二十世紀に生きるわれわれの責務である。

 武上氏の著作「科学の人・孫文」では、まさに科学の大衆化が進みポピュラー・サイエンスが台頭した時代に、孫文(1866-1925)が「近代科学」を彼の革命実践においてどのように活用してきたかを、救急医学書の翻訳、経済開発計画、土木事業計画を通じて、そしてその根底にあった「生元説」という考え方について、論考している。本稿では、孫文の時代と重なる19世紀後半にポピュラー・サイエンスを活用して看護・公衆衛生の向上に取り組んだ、フローレンス・ナイチンゲールを引きながら、武上氏の論考を評してみたい。

1. 孫文の時代の科学

 近代科学が成立したのは、17世紀、活版印刷機、望遠鏡、顕微鏡などの道具が発明され、占星術や錬金術と決別した時代である。デカルト、ニュートン、コペルニクス、ガリレオなどによって、世の中の仕組みが「機械的に」動いているという考え方が提供されていった時代でもある(中山2011)。一方で、この時代の医学はまだ科学とは認識されておらず、体系だった知の周縁部にある、高度に発達した職人の仕事としてとらえられていた。17世紀後半に顕微鏡を用いた微生物学が始まったものの、微生物と病気の関連が明らかになるのはそれから100年以上も後のことである。

 19世紀になると、重商主義の時代が終わりを告げ、産業革命に支えられた工場制機械工業の時代となる。蒸気機関は産業革命における象徴的な技術であるが、効率的な蒸気機関を発明したジェームズ・ワットは、科学者ではなく計測器の調整を行う技術者であった。職人の出自であるワットが産業革命の根幹を支える発明を行ったことで、蒸気機関(エンジン)の学問、すなわちエンジニアリングがここに始まることとなった。医学の世界では、19世紀後半にパスツールが病気の原因となる微生物の同定に成功し、ようやく、微生物が病気の原因であるという微生物病因説が受け入れられることとなった。

2. 統計ユーザとしてのナイチンゲール

 一般には「白衣の天使」として知られ、近代看護の生みの親と呼ばれているフローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)が、統計学のユーザであり、また新しい統計手法の開発に尽力した統計学者であったということはあまり知られていない。当時は召使いもしくは娼婦と同等と考えられていた「病人の世話」という仕事の中に「看護」という方法を発見し、看護師が看護を正しく実践することで、患者を死亡から遠ざけ、回復を早める効果があることを示した。そのときにナイチンゲールが使ったのが「統計学」である。ナイチンゲールは、クリミア戦争への従軍を通じて、敵との戦闘で受けた傷そのものではなく、その後病院で適切なケアを受けることができずに死亡する兵士の数の法が多いことを統計学を用いて明らかにした。そして、きれいな空気、清潔なベッド、栄養のある食事、掃除の行き届いた部屋などが、傷病者の死亡率を下げることを示した。ナイチンゲールが用いたのは、記述統計学と社会統計学であると言われている(多尾1991)。記述統計学は、対象となる集団の特徴を記述し明らかにするための統計学である。社会統計学は、統計学の社会応用であり、社会的な現象を統計によって明らかにするための一連の手法である。ナイチンゲールは、記述統計を用いて死因分析を行うことで病院における看護の役割を確立し、社会統計を用いて統一的な病院統計のためのモデル形式を提案することで、医療レベルの向上に挑戦したのである。

3. 孫文とナイチンゲール

 実は孫文とナイチンゲールには単に医学・看護学という隣接する分野であるという以上の共通点がある。孫文とナイチンゲールを並べて論ずるということが乱暴な試みであることは明白ではあるが、他流試合に免じてこのような試考をお許しいただきたい。

 孫文とナイチンゲールの共通項の第一は、両者ともその実践の目的を社会の改革に置いているということである。ナイチンゲールは、慈善活動を通じて看護への関心をはぐくんでいったと言われているが、ナイチンゲールは看護を単なる自己の実践のみに終わらせていない。看護の意義を明らかにし、その必要性と看護師の地位の向上を政治的に働きかけ、そして全国的な医療レベルの向上を目指して看護師を養成する学校を設立するのである。また、裕福な地主層の生まれであることから得られた人的ネットワークを活用して、病院統計のための統一モデルの提案を行い、また看護学校創立のためのファンドレイジングも積極的に行った。ナイチンゲールのこれらの社会的態度は、世界中を飛び回って人的ネットワークを作り、政治的・経済的支援を働きかけた孫文の動きと重なるものがある。

 第二の点は、政策立案に科学的な手法による根拠を用いたことである。ナイチンゲールの科学の活用の中で特に注目されるのは、看護の向上による死亡率の低下という科学的知見が多くの人に理解されるよう、さまざまな種類のグラフ表現を開発したことである。「科学の人・孫文」では、孫文もまた、『実業計画』において、経済学・工学的考え方を取り入れたこと、そして、そのことによって『実業計画』はエンジニアが取り扱うことのできるものとなって活用されていったことが指摘されている。武上氏の分析によれば、孫文の目標は「形而上学的な思弁にではなく、革命実践に向けられて」おり、その目標のために作られた政策の科学的根拠についても「手近な知識や情報を状況に合わせて臨機応変に取捨選択し運用する」という「ブリコラージュ的な方法」にとどまっている。一方で、孫文があえて科学的根拠を用いた理由を、自らの政策をある一人の英雄による「思想的体系」ではなく「科学的体系」として、すなわちその内容だけではなく因果と法則をセットにして敷衍すべきであるというポリシーを持っていたからだと考えると納得がいく。科学という知的体系の持つ「伝達性」「再現性」「評価・反証可能性」の上に政策をのせることで、政策を「神格化された英雄による下賜」ではなく「民衆によって評価・改善・実践可能な共有知」となることを目指し、そのためのコミュニケーション・ツールとして「科学」を使用したのではないだろうか、という仮説である。この点についての議論は、孫文思想については門外漢である私の出る幕ではなく、諸先生方のご議論とご所見を賜りたい。

 第三の点は、科学者としてではなく科学のユーザとしてとどまり、科学をツールとして実践に活用することを選択したがゆえに、その活用には限界があったということである。ナイチンゲールは、統計学をツールとして用いることで看護の重要性を世に示したのであるが、一方で、ナイチンゲールは自身が体系化し「看護覚え書」としてまとめた看護実践が、なぜ、どのように人々の健康の改善につながるのかという機序については関心が希薄であったように思われる。たとえば、ナイチンゲールは「看護覚え書」の中で、新鮮な空気の重要性を繰り返し訴えているが、なぜ、新鮮な空気が必要であるかについてはほとんど触れられていない(Nightingale 1860)。ナイチンゲールは新鮮な空気を、「病気の原因となる微生物を含まない空気」ではなく、「病気の回復をもたらす環境」として解釈していた節がある。ナイチンゲールが当時の最先端の科学的知見であるパスツールの「微生物病因説」を否定していたかどうかについては諸説あるが、因果関係や機序の議論を「すっ飛ばして」最善の策を考えることができるという点が、ナイチンゲールが用いた統計学の強みとして挙げられている(西内2013)ことからも、ナイチンゲールの関心はあくまでも医療レベル向上のための実践にあり、パスツールやコッホのような機序を解明する科学者とは方向性を異にしていたと考えられる。孫文もまた、社会イノベーションの実践のためにブリコラージュ的に科学を活用しており、「生元説」も知性と独立性を備えた人民によって構成される自律的な国家---国家という人工的なまとまり---が自然の摂理から考えても妥当なものであるという、当時の科学の最先端から見ればやや時代遅れでもあった有機体論的な議論を展開している。しかし、当時は時代遅れであったこの考え方が、現代になって再び、ノーバート・ウィーナーの提唱するサイバネティックス理論からイリヤ・プリコジンの散逸構造を経て複雑系という新しい科学のパラダイムの中で見直されていることを考えると、孫文は国家のあり方を説明するのにその本質に最も適合した説を直観的に選び取ったと言えるのかもしれない。「国家のあるべき姿」の取り扱いにあたって、それを「下賜されるもの」ではなく「知性ある民衆の手の中にあるもの」であることを科学というコミュニケーション・ツールを用いて示す。武上氏の言う、「科学と哲学の架橋」とはまさにこのようなことであろう。

おわりに---エンジニア・意思決定者・編集者としての孫文

 科学を「使う」ということは、大きく分けて、1) 科学の成果を生活や生産などの営みに応用・適用する、2) 計画・実施・評価といった意思決定を伴う行為を行う際に科学的な考え方を用いる、3) ひとつのあるいは一連の出来事や行為を伝達する際の脈絡をつける、に大別できるのではないかと考える。第一の例としては、エンジンの開発を自動車の利用に応用する、青色LEDの発明により白色のLED電球を開発する、遺伝子の解析結果を用いて新たな治療方法を開発する、等が挙げられる。第二の例としては、がんの治療法を選択する際に直感や占いなどに頼らず、ステージごとに分類され、統計的に処理された治療成績を参照すること、移動の時に最も短い時間で到着できる経路を選択すること、などが挙げられる。第三の例は、少々わかりにくいのではあるが、たとえば組織のダイナミズムを説明するのに「求心力」「遠心力」といった物理的な概念を用いたり、企業や組織におけるイノベーションを自然淘汰、適者生存といったダーウィニズムの考え方で説明するといったことが挙げられる。第一の使い方をもっぱらとする人の代表は、エンジニアであろう。上に挙げた改良蒸気機関のワットは、まさにエンジニアのパイオニアである。第二の使い方をする人のことを、意思決定者(ディシジョンメーカー)と呼ぶこととする。第三の使い方をする人を、松岡正剛氏の提唱する「編集工学」に倣って「編集者」と呼ぶこととしたい(松岡 1996)。

 武上氏の著作「科学の人・孫文」に描かれている孫文を上のような文脈から読み直すと、エンジニア、意思決定者、編集者として、それぞれの方法、エンジニアリング、ディシジョンメイキング、エディトリアリティ(松岡氏の造語)を縦横無尽に行き来しながら孫文が社会のイノベーションを進めていった様が浮かび上がってくるように見える。孫文が科学という方法を用いたのかについて、武上氏は、医学というサイエンスに基づく教育を受けたこと、そして特に東京亡命中にポピュラー・サイエンスに関連する多くの書籍に親しんだことをその理由として挙げている。一方で、当時の医学はようやく細菌学が台頭し始めた時代であり、「科学」という体系的な知としては未熟であったことを考えると、医学を修めたということが直接『実業計画』に現れるようなエンジニアリングの考え方を涵養したと考えるのにはやや飛躍があるように思われる。孫文がロンドンで大英博物館に入り浸って過ごした日々、そしてそこでの南方熊楠との邂逅が、あるいはこの二つをリンクするものであるかもしれない。エディトリアリティについては、孫文ほどのネットワーカーであれば畢竟、その場の文脈と関係性に応じた対応をしてきたであろうし(そのことが孫文に対する「場当たり的」「変わり身が早い」という評価とも関係しているであろう)、また、革命の実践を絶対的な思想ではなく、ポピュラライズされた方法として人々に手渡していくためには「科学と哲学の架橋」すなわち科学と哲学を相互編集することによって新しい世界観を提示するということは、孫文にとって必要欠くべからざる事柄であったのかもしれない。

 「科学のユーザ」という考え方は、その行動および思想が中心であった孫文研究に「孫文の知のありよう」という新たな視点を導入している。加えて、「科学」を切り口とした孫文研究は、様々な政治的プロパガンダに左右されない、新たな「孫文を理解するための道」を切り開いている。孫文に近づくための新しい方法がここに提示されたことを心からうれしく思うとともに、この拙文が孫文の科学思想に関する研究へのエールとなることを切に望んでいる。

 

参考文献

(武上2014)武上真理子「科学の人・孫文 思想史的考察」勁草書房(2014年)

(中山2011)中山茂「パラダイムでたどる科学の歴史」ベレ出版(2011年)

(多尾 1991)多尾清子「統計学者としてのナイチンゲール」医学書院(1991年)

(Nightingale 1860)Nightingale, Florence, Notes on Nursing: What It Is, and What It Is Not, New York: D. Appleton and Company, 1860. (= 湯槇ます他訳「看護覚え書 --- 看護であること 看護でないこと ---(改訳第7版)現代社(2011年))

(西内 2013)西内啓「統計学が最強の学問である」ダイヤモンド社(2013年)

(松岡 1996)松岡正剛「知の編集工学」朝日新聞社(1996年)


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