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ウェザリング、とは。

本来は「風化」という意味を持つ『ウェザリング』という単語。AFVに軸足を置きながら模型を楽しんでいる私にとって、すごく大切なことばのひとつです。

ところでAFVに限らずスケール模型に付き物のもうひとつのあのことば、『考証』。同じようにAFVのみならず模型を楽しんでいる人にとって、こちらは好き嫌いがあるようで。
ちょっと前からいろいろ考えてるのですが…うーん。結論的なものはないのですが、ダラダラと書いてみようと思います。

1.考証派? 自由派?

そもそも考証についての話題って、大事と思っている人とそうでない人との間でギスギスしがちですよね。
実物があるのだからその通りにしないといけない!派と、実物はそうだけど自分の好きなように作りたい!派。…真ん中はあんまりいない印象です。
と言ってる私は、その真ん中くらい。たぶん。

完全に個人の考えですが…私は考証は多少した方が模型は面白いと思うんです。
たとえば、実車ではボルトがあるけど模型では省略されている、みたいなのとかどうですか?私は、お!ディテールが追加できる、情報量増やせるチャンス!みたいに感じます。エンジンのパイピングとか、車体の溶接痕とか、キットで再現されてないような部分を資料と照らし合わせながら工作するのは大好きです。
そういう側面において「実車をきちんと観察して作る」という考証はすごく面白く感じます。

ちょっと脱線しますが、ガンプラでは筋彫りを足してディテールアップする方がいらっしゃいます。または追加のデカールを用いて情報量を増やすなども。
これらの工程って、そうすることでより模型がカッコよくなり、より自分の作品らしさ=オリジナリティが発揮できるポイントになっていると思います。

AFVの場合、ある一定のラインを越えたディテールアップはあまり行ないません。キットで省略されてる部分や実際の素材感の再現はしても、本来ないところにボルトを足したりすることはないです。
そしてある一定のラインを越えると、もはや見ている人には何がキットと違っていて、何が実車みたく正しいかの見分けがつかなくなってきます。
そうなると膨大な時間をかけた力作なのに、鑑賞者にその作者のオリジナリティが伝わりません。何がどうすごいの?なんて、私なら言われたらガッカリしちゃいます。

そこで効果を発揮してくれるのが『ウェザリング』なのだと思います。

2.ウェザリングした模型


私自身のことですが、パーツのこまかいサイズ感が違うとか車体の長さが実車と違うとか…言われないとあまり気付きません(笑)。
このキットは決定版だね、あのキットはここが違うなぁ、とかいろいろ意見が飛び交うなか、私はそれらの違いがわからないモデラーのひとりです。
ですが、仕上げの違い…たとえば色合いとかダメージ感とか、そういうのはわかります。好み、というか好きだなぁと感じる瞬間があります。
特にAFVの作品を見ていると、汚しの雰囲気や色合いに感動することが多いです。私はウェザリングの仕上がりも(その度合いの大小は問わず)その作品のオリジナリティを表現する要素だと感じるわけです。


たとえば有名な記録写真があって、それをまるっと再現した作品があるとします。さて、果たして作品のどこに感銘を受けるのが適切なのでしょうか。
「おお、記録写真そのままの情景が再現されてる」と感動できるのは、その記録写真を知っている人だけでしょう。では作品を見る側はみんなその記録写真を知っていないといけないのか、という問題になります。
記録写真がまるまる再現されている上で、作品そのもののオリジナリティ(ここではウェザリングも含めた仕上げのこと)も素晴らしいものは、記録写真を知らない鑑賞者にも感動してもらえるのではないかと思います。

そもそも記録写真をまるまるコピーする、というのは、なかなか模型的に魅力的な仕上げが望めない場合があります。
(まるまるコピーするだけ、というのも相当難しいと思うのですが…)
であれば、多少の模型的演出も必要となってくるでしょう。決して過度にならないような演出を加えてあげることで、ただ記録写真をコピーしただけの「縮尺模型」ではなく、魅力ある「作品」へと昇華されるのではないか、と考えています。

3.敷居の高い、クラシック音楽の話。

話は再度飛びますが、クラシック音楽の話。
日本ではクラシックコンサートをホールに出向いて鑑賞しに行く、という習慣があまりありません。理由はさまざまあると思いますが、敷居が高いという意見が非常に多いと思います。
実は、この敷居を高くしているのは、他ならぬクラシック音楽愛好家たちだと私は思っています。

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あるオーケストラがコンサートを行ないました。その日はベートーヴェンなど本格クラシックプログラムの、じつに素晴らしい演奏が披露されました。
はじめてコンサートに来たAくんはその演奏に大満足、終演後ニコニコしながらホールをあとに。しかし、会場の外に出ると、年配の方々が話している会話が耳に飛び込んできました。

「今日の演奏はイマイチだったね、〇〇のときの方がよかった」

Aくんは非常にショックを受けてしまいました。自分はすごく満足していたコンサートなのに、それはベテラン愛好家からすると出来の悪いものだったのか…私はなんて聴く耳がないのだ…もし友人たちにこのコンサートの話題を嬉々として話したとしたら、みんなにバカにされていたかもしれない。
あぁ、私にはクラシック音楽の良し悪しの違いがわからない、やっぱりクラシック音楽は敷居が高いんだなぁ…。

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この話にはいくつかポイントがあります。

・コンサートの出来がどうとかは関係なく、Aくんは初めての体験で非常に満足できる時間が過ごせた。
・愛好家たちは、コンサートの出来がどうとかよりも批評しあうことに終始。自分たちは「違いのわかる愛好家である」ことをアピールすることに価値を感じている。

などなど。
上記例の場合、Aくんも愛好家も誰も得をしていない。
Aくんはガッカリしてしまい、友人に今日の体験を語ることもなく、そして2度とクラシックコンサートには行かないでしょう。
愛好家はただ批判ばかりを繰り返し、不満を肴に夜の街へ。あれはダメこれもダメ、昔はよかったのに…と不満ばかりの夜を過ごします。
客足の遠のくクラシックコンサートは次第に収入が減り、そして本当に演奏のクオリティが下がりはじめる。

これが、まさに日本のクラシック音楽の問題点です。
もちろんそれをそのままにしてるわけではありません。長年かけて一部の愛好家により(不本意にも)上げられてしまった敷居を、なんとかみんなが親しみやすいものにしていこうとあらゆるメディアや団体が、演奏家が、日々工夫をし、なんとか一線を越えないよう踏みとどまっています。

うーん。なんだかAFV模型の世界に似ていませんか?
結局のところ、敷居を高くしてしまっているのは私たちAFV愛好家なのかもしれません。
こうしないといけない、こうするべきだ、という意見を発信するというのは諸刃の剣になりがちです。無意識にそういう発言を、私も繰り返しているかもしれません。反省。

4.上手な模型って?

同じプラモを説明書と同じように組み立てれば、当然みんな同じものが出来上がると思います。だって工業製品だもん。
(これは全塗装とかの話ではなく、ストレート組みでの話です。)
模型は、最初はそれでいいと思うのです。むしろ、上手い人の作品とかを見て「あのプラモが作りたい!」から始める人もいるでしょう。もしくは、箱絵を見てこれが作りたい、とか。
そこからだんだん自分のオリジナルの作品を作りたい気持ちが生まれてくる・・・たとえばコンテストに出してみよう、とか、誰かに見てもらって褒めてもらいたい、とか。
動機はいろいろあると思いますが、自分なりのひとつを作り出したい!もっと上手に作りたい!みたいな。

じゃあ上手の定義ってなによ。
たくさん細かい作業をしてるものはぜんぶ上手い?色が鮮やかならどこに何色塗っててもそれは素晴らしい作品?
んー必ずしもそうじゃない気がします。

私の思う上手の定義は、
【共感してもらえる模型】
だと思っています。

これこれ、こういうのカッコいいねー!って思ってもらえる作品って、見てくれた人が共感してくれてるのだと思います。
こういうところが強そうだねーとか、こういうところって汚れるよねーみたいな説得力があったり。
逆に、こんなところ汚れるの?とか、ここの形ってまずくない?みたいに感じるものは、模型的に説得力がないのかもしれません。

そういう説得力のある仕上げをするためには、もしかすると広い意味での考証が必要になってくるのかも、と思うわけです。
ウェザリングで言えば、砂漠で戦ってるなら埃っぽい汚れを、密林なら湿り気のある泥汚れが多いのもいいかもしれない。海辺にあるなら、塩気で退色してるとそれらしいかもですよね。
…こういうことを考えてみることも、考証との上手な付き合い方のひとつなんじゃないかなと思います。

5.ウェザリングを、楽しもう!

…いやいや、もっとストレートな話をしましょう。
ウェザリングって、同じものを使って汚してもAくんとBくんとの仕上がりは絶対違うものになる。なんなら、Aくんが2回同じことしても、きっと結果は2回とも違うものが仕上がる。
私はそれこそがウェザリングの1番面白いポイントだと思います。
上手い人のを真似してみても、寸分違わず同じものが出来上がることはないです。どこかには自分のカラーが必ず出ます。
言い換えると、ウェザリングして仕上げた模型は自分のオリジナリティが溢れていて、しかも世界にそれひとつしか存在しないんです。なんて素晴らしいことなんでしょう!

音楽も、生演奏でまったく同じ演奏を何度も行なうことはできません。必ず少しずつ違うものになります。だからライブは面白いんだよ。音楽とビールは生が1番!(私は飲めない)


SNSや雑誌などでウェザリングは「ウェザリングを楽しむ」って表現されていることが多いです。何を作っているかじゃなく、ウェザリングする行為そのものを楽しむ。
ウェザリング直前の状態まで作ると「これから楽しいウェザリングの時間」と語られているのをSNSでもよく見かけます。まさにこういうことですよね。
どんな風に汚そうかなーと考えている時間はとても楽しく、そして実際にウェザリングし始めるともっと楽しい。やりすぎちゃうこともある。(反省)
そうして出来上がった模型は、世界にひとつしかないものになるわけです。

また脱線しますが(3回目)。
ちいさい頃、雨上がりの道に溜まった水溜まりでバシャバシャしたりしませんでしたか?家に帰ったら母親に怒られる…って、わかっていてもバシャバシャして遊ぶのって楽しかったですよね。他にも泥んこ遊びして服をドロドロにしたりとか…おそらくみんな子どもの頃に経験したことありますよね。
大人になったら、そんなことしたら後が大変なので絶対やらない。そういう理性と、遊びたい!という本能との天秤がいつの間にか逆転し、そして大人になったのだろうなと思います。
けど、あの頃の純真無垢な気持ちで水溜まりパシャパシャや泥んこ遊びをしたら、今でもきっと楽しいはず。
そんな本能を大人になった今、自分が泥んこになるんじゃなくて模型を泥んこにして遊べるなら。きっと楽しいはずですよね。そう、私はそれがとっても楽しい!!

そんな本能剥き出しにした模型をみんなで持ち寄ってワイワイしたいなぁ、と思ったのが、ウェザー・リポート・オーサカを開催しようと思ったきっかけなのです。

こんな風に汚してみたよ!
その汚れ方カッコいいね!
それってどうやるの?

こういう会話を、ただみんなで楽しみたい。ウェザリングした模型を持ち寄って、みんなで汚した模型見ながらワイワイ話して。きっと時間が足りないからさらに飲みながらの二次会へ。うーん。幸せすぎる。(私は飲めない!)

模型をはじめたきっかけ、なんてみんなバラバラだと思います。どんなジャンルの模型であっても、私は楽しんで作りたいし、楽しんで作っている人たちとそれを共有したい。
上手くできないことがあれば相談するなかまがいて、時にはライバルよりカッコいいものを作りたくなったり、あるいはコンテストの結果に一喜一憂したり。
そういうのも全部含めて、模型趣味ってすごく楽しいなぁと思います。

私は模型の中でも特に「ウェザリング」というものに魅了されたひとりです。
これからも自分なりのウェザリングした模型を作り、たくさんの友人たちとワイワイ楽しみたいと思っています。
そして、これからも同じように模型を楽しむなかま、ウェザリングを楽しむ友人たちと出会えることを期待して、今日も模型机に向かおうと思います。

何かを批判したいわけではなかったのですが、もしそう感じてしまった方がおられたらすみません。
私の思うウェザリングについてまとめてみたかった、というだけであります。
乱筆乱文の長文をお読み頂きありがとうございました!

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