『そうなのかもしれないけど、そうじゃない。』

「理屈は正しいし、答えとしてはそうなのかもしれないけど、何か釈然としない…」
そんなことを時々感じたりします。
例えば、ようやく収束に向かいつつあるCOVID-19でのPCR検査現状に関する議論について。

「日本ではPCR検査の実施件数が少なすぎる。潜在的な陽性者数はもっといるのでは?」

「PCRの感度は70%程度、無闇に実施すれば良いものでは無い」
「日本ではCTによるスクリーニングが行われている。肺炎患者や濃厚接触者に優先的にPCR検査を実施している。だから問題ない」

「問題がない」という意見はそうなのかもしれません。理屈についても正しいというか筋は通っている気がします。
…でも、何か少し釈然としない…というか、モヤモヤするものがあります。

「日本ではPCR検査の実施件数が少なすぎる」

この疑問をした人にとっては
「諸外国では多数の実施件数があるのにも関わらず、日本で絶対数が少なすぎる気がする」
「先進国と言われている日本では実施出来ていない何故?」
と言う思いや考えの側面があります。反論が上記の疑問に明確に対応する回答ではないような気がするからだと思います。

つまり「問題がない」という主張の前に
・リソース的にできない日本固有の事情がある。
・リソースはあるのだけど、それ以外の要因でできない日本固有の事情がある。
・実はできるだけの状態だが、何らかの要因によってあえてやらない方針で進めている。
こういう説明があるハズで、それが欠落している。これがモヤモヤの要因なのではないかと思うわけです。

色々な記事や意見を読み進めていくと例えば「オペレーションの難度」や「臨床検査技師が少ない」と言うこともあるようです。
あるいは、検査キットの品質や供給が安定していないということもあるようです。故に諸外国では偽陰性や偽陽性の問題が発生しているのかもしれません。
実際に日本でも「感度が悪く誤判定した」といったことや「オペレーションミスにより誤った判定をしていた」というニュースもありましたね。

ただ、それらが本当なのか、そしてそれが日本では実施できていない理由の根幹であるのかは明示されていません。
そう言う説明をせずに「PCR検査が全てではない」と言うことを前面に押し出した回答を提示してしまう…。

理屈としてはそうかのかもしれません。
答えとしてはそうなのかもしれません。
…でも、何か違う。果たしてそうなのだろか?

それが違和感やモヤモヤの要因だと思っています。

議論において、自分の立場というものはある意味「バイアス」という性格を持っています。
それ自体は決して悪いものではないと私は思います。
ただし、議論をする場合、そのバイアスと寄り添い自分の中でコントロールする必要があると私は思います。
そして、相手側にも相手の「立場」があって「バイアス」が存在している。

議論や打ち合わせはその相手との折衝です。
議論で相手を打ちのめす必要はないと思っています。(そんなことを言う私もついつい熱が入って「相手を倒す」ような方向に向けてしまうことがありますが…)
むしろどんな局面でも「私はそうは思わないけど、確かに貴方の主張も一理ある」と思わせるのがよりスマートではないかと私は思います。
その結果として、自分の見解に沿った意見に合意を得ることができる訳です。

確かに明らかにルールを逸脱した意見に対しては「ルールに違反している」と断じることもできます。
ただし、そうだとしても相手にとっては少なからず「なぜ?」が存在しています。

それをいかに説得するか?
…そんなことをオンラインミーティング中に思ったんですよね…。

その説得に関わる思考や技術がが論理的思考であり論理の組み立てだと思っています。
だから私は別に論理的思考がプログラミングだけで学べるものではないと思っていますし、それが別に理系思考だとも思っていません。例えば、三段論法などですね。
生きていれば何かしらの手順や段取りや理屈を考える必要があることを認識してるのに、こと議論になるとそう言った部分が欠落するんですよね。
なんでですかね?


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