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「わからない」という人をただ「無知だ」と罵るのはラクだけど。

タレント占い師、ゲッターズ飯田さんへの衝撃の問い合わせ。

少し遡ること1月15日、タレント占い師であるゲッターズ飯田さんのTwitterで「奇数と偶数がわからないという問い合わせ」があることを明かし、自身の著作(占い本)に「奇数・偶数の調べ方を掲載するかどうか」を議論をしていることを明かしました。
※現在はそのTwitterは削除されておりますが、メディアがそれに沿って記事を出しています。

この記事に対して「そんなこともわからないのか」とかいう反応からの「無知」だの「馬鹿」だのと憤ってるのか、憂いているのか、単に貶したいだけなのかよくわからない状況になっていました。

そもそも…

実は、私は「わからない」と言いたくなる気持ちも理解できなくはないのです。
「奇数・偶数がわからない」と言っている人も、多分「世の数は二で割り切れる数と、割り切れない数で区別される場合がある」ことは知っていると私は思います。
では、何がわからないのかというと、私は「前述した区別によって分けられた群をなぜ「奇数」「偶数」と呼んでいるのかが”わからない”」のではないか?と考えています。
だから、「偶数」が二で割り切れる数で「奇数」が二で割り切れない数であるという所に結びつかない。そして、本文中に「奇数」「偶数」という文字が出たときにどっちがどっちかわからなくなってしまうのではないか?と思うのです。

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なんで偶数って呼ぶの?なんで奇数って呼ぶの?

そもそも、なぜ「偶」なのでしょう?なぜ「奇」なのでしょう?
「偶」の字を調べると以下のように記されています。

「形声。人と、音符禺(グ)→(ゴウ)とから成る。ひとがたの意を表す。耦(グウ)・俱(グ)に通じ、転じて、つれあい、くみの意に用いる。」(角川新字源より引用)

また

①二つ揃って一組になっているもの。→「対偶」「配偶」 
②二で割り切れる。→「偶数」
③人形。→「偶像」「土偶」
④思いがけなく起こること。たまたま。→「偶発」「偶然」「偶感」「偶成」
(新明解国語辞典より引用)

②は何か意図的で苦しさを感じますが、これは①から転じて「二つで割ったらつれあう数」といったところなのでしょう。
ちなみに、英語の「偶数」に当たる言葉は「even」であり、日本語の会話中でも「結果イーブン」とか「引き分け」みたいな対等な使い方をしているイメージです。なるほど故に(英語的に)「偶数」であるのだな?ということがわかります。

それでは、その対になる「奇」とは一体なんなのでしょう?

『会意形声。大(立つさま)と、可(カ)→(キ)(まがる)とから成り、立つのに不自由な足の意を表す。「踦(キ)」の原字。転じて「めずらしい」意に用いる。』(角川新字源より引用)

また

①思いがけない。→「奇襲」「奇禍」
②はんぱ。二で割り切れない。→「奇数」
(新明解国語辞典より引用)

成り立ちの表現の是非ついては今回触れないことにして、私は成り立ちには「奇数」っぽさが出てますが、国語辞典の言葉からは「奇数」感が感じられないような気がします。
成り立ちからは不安定さを現し、用法としては風変わりであること、傑出したさまを示している様な気がします。
…強引にひねれば、ある数を2つの山に分けたとして、同じ高さにならず、1個分はみ出る(これを傑出というのはいささか大層な表現である違和感を感じますが…)という感じでしょうか?

ちなみにWeb上にある「漢字ペディア」で調べて見たところ

①めずらしい。ふつうでない。
 (ア)あやしい。ふしぎな。→「奇術」「奇跡」「奇妙」
 (イ)特にすぐれた。→「奇偉」「奇才」「奇麗」
 (ウ)思いがけない。くしくも。→「奇禍」「奇遇」「奇襲」「奇をてらう」
 ②はんぱ。二で割り切れない。→「奇数」
(Webサービス「漢字ぺディア」より)

こちらも「奇数」感はあまりないように感じます。

英語の「奇数」にあたる言葉は「odd」です。猫の目に見られる左右で異なる虹彩色を持った状態を「odd eye」なんて言うことがありますが、こちらはもう「余り」とか「半端な」という意味での使い方を普通にすることがあります。例えば、手袋を落としてしまって「odd glove」であるとか、割り勘で端数が出た時の「odd money」などですね。
なんとなくですが英語の方がしっくりくる感じはありますね…。

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「なぜそうなるのか?」…必然が示されていないから理解が進まない

漠然と「二で割り切れる数を偶数と言い、割り切れない数を奇数と言います」で済んでしまえば確かに楽です。確か学校教育ではそう学んだと思います。
ただ、必ずしもそれで完全に納得しているとというと、私はそうではないと感じています。
そして日常生活で「二で割り切れるかどうか」を考える機会はあると思いますが、それを「奇数」・「偶数」という言葉で示すか?というと、そんなことはないと思います。
私は「ゲッターズ飯田さんの著作に奇数・偶数について説明するページを追加すべきだ」とは思いませんが、確かに「言われてみればなんで二で割って余らない数が偶数で、余る数が奇数って呼んでいるのか?には余り触れた機会はないな」と感じました。そんなことを言ったら他にも沢山あるわけですが…。
ただ、そういった意味では自分の中のモヤモヤを突き詰める機会があるといいのかな?とは改めて感じました。

そして、必然を理解していくことが最近巷でよく聞くいわゆる「言語化」に繋がっているのかな?と考えました。

どうでもいいのですが…

それよりも気になったのが、この件を知ったキッカケが、読解力テストの結果に関するTweetの投稿でした。

以下の二つの文章の内容は同じか?異なるか?
「幕府は、1693年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
「1693年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」

上記問題に対する中学生の正答率が40%だったという話題でした。(この調査自体は多分数年前の文科省による国語に関する調査だと思います。)
その反応の中で前述の「奇数・偶数の件に通じるものがある」のような趣旨の発言がされていたことです。私はここに少し引っ掛かりを感じました。

「国語力の低下」という括りの中での発言なのかもしれませんが、前者は言葉の意味・定義が理解されていない(恐らくは単語の定義について十分に情報が提示されていない)問題であり、後者は文章の係り受けが正しく理解できていないという問題で、全く別物であると思っています。

私は、どちらかというと後者の問題は深刻であると考えています。
国語テストは文章読ませて「筆者や登場人物の心情を本文中の言葉を使って説明しなさい」という下手したら出題者の主観に引っ張られそうな問題が多い気がします。私はそう言ったものよりもむしろ文章を読み解くロジックに力を入れるべきとさえ思っています。
論理・ロジックというとどうしても理系のイメージが先行してしまいますが、読解こそロジックの世界だと私は考えています。

そして、話題の繋ぎ方もそのロジックに乗っ取って進行していくものではないか?と…そう感じました。

※新明解国語辞典は昨年末に新版が出ているんですよね。
私の所持しているのは七版の小型版なので、内容が少し異なるかもしれません。(よく売れている辞書らしいので、多分突っ込まれるだろうな…ということで、一応…)

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