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「私」をいくら叫んでもいい。「日記屋 月日」。

本棚の前に立っていると、一冊一冊が「私は~~」と叫ぶ声が聞こえるような気がした。重なるその声に、少し恐ろしくなった。

東京・下北沢にある日記の専門店「日記屋 月日」。

それほど広いお店ではないけれど、お店中に、日記の本が並んでいる。他の店にはあまり置かれていなさそうな、個人がつくった日記のリトルプレス・ZINEもたくさんある。

どの本も面白い。お店のワークショップに通っていらっしゃった方のような、プロの書き手ではない方のものも。そういう方のものも、文章がちゃんとしている。世の中にはちゃんとしていない文章もたくさんあるのに。WEBではなかなか見えてこない、こんな世界を初めてまともに体感した。

何を食べた、誰と会った、どこへ行った、何を見た、何を読んだ。全然知らない人のことなのに、不思議と面白い。全然知らない人の日々なのに、なぜか面白い。
もしかすると固有名詞の入れ方は、読む人にとって面白くなるポイントなのかもしれない。他にも、私は気付いていないような、日記を面白くするテクニックがあるのかもしれない。
でももしかすると、テクニック以前に、誰のどんな日々でも、記録して蓄積していくと面白くなるのかもしれない。誰にでもドラマがある、私がいつも思っているそのことと共通するものがあるのかもしれない。

どれも面白い、でも、どれを買ったらいいかわからない。飛び抜けてこれだ、というものがなかなか見つからなくて、あまり流通していなさそうな本やZINEの並ぶ棚の前で、次々と手にとってページをめくった。しかしなんとなく違うかな、とか、横書きは私は読みにくいかな、くらいしかわからない。あと、母の立場から子育てが書かれているものは、ちょっと気後れする感じ、とか。自分と比べて、自分はいい母親じゃないと落ち込みそうだからだろうか。そしてどれも、タイトルのセンスがいい。本当にどれもよくて、一つが際立って見えるということもない。
そんなことを続けているうちに、「私は〜〜」と主張するいくつもの声が聞こえてきた気がしたのだった。「私はこう思う〜〜」「私はこれをした〜〜」「私はこういう人間だ〜〜」と。

日記って、そういうものなのかもしれない、と気付いた。私の思うこと、私から見た世界、「私は〜〜」の世界。
日記は、そしてこのお店は、どれだけ「私は〜〜」と叫んでも許される、歓迎される場所なのかもしれない。

少し移動して、商業出版の日記本の棚の前へ。手にとって開いてみると、なんだかさっきより読みやすい。編集者の視点が入っているからだろうか。古賀及子さんの『おくれ毛で風を切れ』とか特に。書き手は子育て中の母だけど、これは読める。エッセイの要素もあるからだろうか。

随分悩んで、ちょっと惹かれた、読みやすそうな、予算内の一冊のZINEを買う。

私も、書いてみたい。それが日記という形かどうかはよくわからないけれど、自分の思うことを、まとまった文章の形にしてみたい。どうしても、日々の仕事やらに追われて後回しにしてしまったりするけれど、もっとやってみたい気持ちは消えない。

日記本をめくり続けながら、昔、父親に「日記をしっかり書いたらどうか」と言われたことを思い出した。カフカとか、すごい文学者は日記もすごいと。私が高校生くらいのころ、文章を書くのが結構好きだったときだ。でも私は「日記には人に見せられないことを書きたいから」と取り合わなかった。当時つけていた日記は、好きな男の子のことが結構な割合を占めていた。
カフカの日記は、大学に入ってから少し読んだけれど、全部読みきれる気はしなかった。日記って、おちがない。当時の私は、日記に限らず、そういう文学作品をわかりきれないところがあった。

でも、これだけ日記本を面白く感じるということは、今の私は、おちのないものも読めるようになったのかもしれない。おちがないのがリアルな日々であり人生、と思ったりもする。


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