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コロナ禍で学んだこと

 ハッピーバースデー、ツーユー!
 
 パソコンの中に13名の笑顔と声が揃った。四月生まれの夫の八十歳、傘寿のオンライン祝会である。東京・神奈川・埼玉に住む子ども達がコロナ禍のため、県を越えての移動不可ということでの提案であった。

 私達はバックに庭の緑が見えるようにと窓側のテーブルに薔薇と赤ワイン、手作りのカップケーキに蝋燭を一本たてて座った。三人の子ども達の画面にはジュースや紅茶やぬいぐるみを持って手をふる孫達の姿も見えて皆元気そうである。

 一番年長の孫はこの春から社会人に、別の孫は大学入学、もう一人は高校入学をしたばかり。でもいずれも式典はなくステイホームを頑張っている。各々の卒業証書や入学証書を画面に見せてくれた。その都度カンパーイ!をし、祝い合い励まし合った。

 夫が好きな詩を読んだり、小学生の孫がリードしてクイズ大会をしたり和やかな会になった。孫たちの成長ぶりは好ましく、育てている親世代の顔も頼もしく思った。コロナ禍が収束し、リアルで集える日を楽しみにねとスイッチを切った。心温まる一日になった。

 戦後の小学校では空襲で校舎が焼け残った教室を使って午前組とか午後組とかの授業があったよ、と夫は言い私は夜中に「ケーカイケーホー」のサイレンがなると飛び起きて枕元の防災頭巾を被ったことを覚えている。様子を見ていた祖母が「かわいそうに、こんなこんまい子が警報で自分で目を覚ましてからにねえ。」と四歳の私を不憫がった声音を懐かしく思い出す。

 敗戦後は食料不足で親世代は苦労したこと、でも平和な国家復興のため日本中が頑張ったこと、子ども達には希望があった等と二人で話しあった。今回の禍も世界中の英知を集めて乗り越えて欲しいと願う。

 五月になってもますます新型コロナウィルス感染者が増加し世界中に拡散していった。自粛で家にいることが多くなり、テレビを見る時間が長くなっていった。そんな時にNHKBSで「コロナ新時代への提言 − 変容する人間・社会・倫理」という番組があった。

 若い哲学者國分功一郎氏がイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの論考を紹介した。感染して死亡した人達を家族でさえ見舞うことも、臨終に立ち合うこともできない。葬儀もなく埋葬される。これは死者が弔われる権利を持てない、「死者の権利の蹂躙」との考えであった。えっ、死者に権利があるの、と驚いたがすぐに納得できた。テレビで見る外国の遺体は棺のまま作業員によって埋葬されている。日本では火葬して葬儀は行うので少し違うかもしれないが…。

 今回の感染者だけでなく死者の弔いの権利をいうなら、三百万人も犠牲になった太平洋の島々に残された戦死者やシベリア抑留者、国内でも各地の空襲や原爆で命を落とした被爆者、最近では大地震や津波、大洪水で不明になった例も多い。墓標や記念碑を建て慰霊祭を行うが、遺体は入っていない。死者の弔いの権利という概念に改めて気付かされた。

 コロナ禍によって学んだことは、今後さらにリモートが進み画面で会うことが多くなるだろうということと、死者の弔いの権利について考えを深める機会を持てたことである。

 しかしワクチンが開発されて安心して生活できる日常を心から望んでいる。

                                        (市民文芸「さやま」第25号   2021/3   掲載)

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