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真ん中のさんてん

小学生のころ、どうして地球が人類を生かしているのかわからなかった。環境を破壊し続けていることに悪い悪いと言うだけで、世界の中心は譲らない。社会は矛盾だらけ。こどもの頭に浮かぶなんでは、多数決に埋もれていつもはぐらかされる。嘘ばっかりだし、自分のことばかりで、なんだっていうのだろう、理解できない。人類なんてわたしもろとも滅びればいいのに。

そうおもっていた。それでも腹は空くし、眠くなるから腹が立ったものだ。見逃さなければ生きづらさは増してゆく。だから大抵はどこかに仕舞い込んだまま、忘れてしまう。みながそうとは言えないが、わたしたち20から30代というのは、なんでも”ある”ところからはじまっている。そのため、まず絶望からはじまるのではないのかしらと考える。わたしの場合はそこで躓いて、仕舞いかけたまま、こたえのない迷路に入り込んでしまった。今だからこそ言えるが、もしその頃のわたしに伝えられるとしたらばこう言おう。きっと地球はもっと寛大であるし、わたしたちにも役割があるから、安心して怖い方へ進みなさい。

24歳は、節目なのだそう。十二支が一回りした齢の12と24と、次は36。今回の怪我はばっちりそんな感じだ。この境目でちいさな篩いにかけられた後、まだ生きることをゆるされたのだ。

ところで、誰しも、気づいたら興味を惹かれるところがあるとおもう。教育の影響を受けず、好奇心の赴くままに、みんながそれぞれ根を伸ばしてゆけたら、遊びが上手になって、楽しくまた掘り下げられる。その"今を生きて"できた副産物を共有するだけで、世の中まわすことができると、わたしは今も信じている。そんなの夢だとかさまざま言われてきたけれど、妄想力だけは鼻を鳴らして自負できる。信じるだけだが、現にそんな世界になりつつあることを日々、実感している。創造に夢中になれる時代の兆しがだんだんと芽吹く音をきく。強くて、大胆で有能で愛情深く、知的でユーモアのセンスに富んだ存在であるはずだ、本来わたしたちはみな。自由をおそれないで、わたしも前に進みたいのだ。りんご屋にきて確信できた、遊びは仕事になる。

命、こころ、純粋さ。

真ん中というのはこころのこと。丁度、胸の下に手をあてたあたり。横隔膜に乗った心臓をさすると、振動が跳ね返る。こころが自然と求めているものが、さんてんにあたると解釈している。これはわたしのさんてん。常に意識はしてこなかったことと、今までのアウトプット不足ゆえ、まだあやふやでもある。随時、更新される可能性あり。

命: 神秘あふれるすてきなものである。息をしているというだけで、途方もないパワーだ。さまざまな種の轍を記憶する、この惑星の上で育まれているわたしたちは、命という共通概念で結ばれている。思いを馳せることにより、いつでもそう感じ取ることができる。この生と死のはざまで、内臓を重力に逆らわせ、愛しさを縮ませて感動できることが、なにより素晴らしい。

こころ: わたしは色として捉えることが多い。生き物の氣や発される音、表情や目線から、多彩な美しさを感じられる。雷のうなり声、大河の叫び、くじらの涙、狼の遠吠え、たんぽぽの笑顔、朝焼けに染まる民家の群れ、わくら葉を落とし眠りにつく木々、背くらべするこどもたち、姿を消した老猫。世界は色で溢れている。眺めるだけでなく、ときには寄り添えるよう意識すること。まだまだ頭でっかちで、実際に触れることに首をすくめている自分がいる。相手の存在があってはじめて見つけられるものだから、もっと積極的に拾い上げてゆきたい。

純粋さ: 矛盾がないことは、こころを開くこと、いつでもリラックスできることに繋がるのではないかと考えている。そしてなにより、ありのままである姿というのは、ひとであれ自然であれなんであれ、決まって煌きを湛えているものだ。嘘のない情熱には魅力があって、惹きつけるものがある。宇宙が息を呑むほど真っ暗なのは、ひとの命が純粋さを取り戻して、輝くのを待っているのではないかしら。

ひとの笑顔はやっぱり好きだ。一昨日、担当の看護士さんとお別れをした。彼女は22歳。年子の妹と接しているような感覚で気さくに話すことができた。きけば学生あがりで、未来は明るくないという。不安とこたえのないもやもやを、抱えている。それでも患者さんやまわりに励まされながら、仕事に打ち込む姿からは、たくさん学ぶことがあったようにおもう。ていねいな文字を手紙にしたためてくれた彼女に、感動して触発されたとき、わたしの言葉は使い物にならなかった。そのため、久々に水彩鉛筆を手にし、絵にしてお返しとしたのだ。なぜか個室の方の病室をお借りして、15分ほどでつくった。こういったときに、普段から続けているかで出来上がるものが違ってくる。即席でも納得したものを贈りたいとなれば、量で磨くことの必要性をあらためて感じる。三日坊主を何度も繰り返すスタイルで細々でも習慣にしてやるぞ。すると自然な成り行きで、お題が次々と舞い込んでくるようになった。昨日は、個室を貸してくれた方に献上した。軌道に乗るまでは、こうして協力してもらうのがよいのだろう。

どんなに些細なことだったとしても、喜んでもらえるというのは、本当にこころがあたたまるから好きだ。副産物をたくさん生み出して、百匹目の猿現象の如く、より高く、広く波のように誰かの幸せを手伝うことができたらこの上ない。

外は次第に涼しくなり、新しいりんごもはるばる、また冬を運んでやって来る。お店に届く丸いかれらにつれられて、駆けまわりながら声かけする日が待ち遠しい。

どうもありがとう。



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