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どうでもいい

小さな水玉の大群と濡れた街の間には境目が見当たらなくて、空気は久々に澄んでいる。

"今"というスクリーンの中にいる今、わたしは幸せだ。必要なものはすべて映し出されるのなら、不安になることもない。ここで息をしているからにはall okで、ああほんとうにどうでもいいのだなあ。ここでの"どうでもいい"は、あきらめて投げ出すというより、信じてまかせるようなちょっと頼もしい感じである。いつでもと言えてしまうのだ。こころひとつで、こんなに違うのだからこんなに不思議なことはない。

感情はきょうも、気になるものを拾い集めては誇らしげな顔で帰ってくる。完全に静まることはないかもしれない。ただ、こころの奥まで意識が降りているときは、深い呼吸ができて、あたたかいことが常だ。ところで、ひとは妊娠など関係なく誰でも、こどもを生むことができると思うのだがどうだろう。出産経験はないけれども、わたしの感情は明らかにわたしの子だなと感じることが増えた。痛みを伴うこともあるが、愛しい存在に感謝をしてできるだけ寄り添いたいとおもう。

悲しかったり、寂しかったり、こわくなったりしてもいいんだ。そういう気持ちを理解して、それと一つになることもできる。色々な感情をすべて持っても大丈夫なくらい、あなたは強いのよ。

いつかほしかった言葉。まわりのひとやこれから縁のあるひとが必要なとき、なにかのかたちで伝えられたらとおもう。

なんだかもうどうでもいいなあ、そんな気になると『本当にどうでもよいよな』というものが多い中で『む、これはどうでもよくないかも』というものもあるが、これはわたしの根っこであると考えている。

例えば、化粧については、まったく平等じゃないので気に入らない。女性だけに強制されるので納得ができないのだ。それが身だしなみなら、男性がするのもあたりまえじゃなかろうか。ただ最近は少し楽んでいるので、あくまで概念の話だけども。

根と言えば、

「アートという植物」は、「表現の花」「興味のタネ」「探究の根」の3つからできています。 しかし、タンポポのときと同様、空間的にも時間的にもこの植物の大部分を占めるのは、目に見える「表現の花」ではなく、地表に顔を出さない「探究の根」の部分です。アートにとって本質的なのは、作品が生み出されるまでの過程のほうなのです。

「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考 末永幸歩より

この著者の、思考を植物に例えた解説がとてもわかりやすい。この興味の種の欲求にそって根を伸ばすことが、「自分なりの答え」につながり、それが幸せや結果につながるということだ。逆を言うならば、そうすることでしか得られないということ。化粧についての答えに、わたしにも種や根っこがあるぞと背中を押された気がして、ちょっと誇らしい。誰かに頼まれた花をさかせずに、地下世界を冒険することがわたしのしたいことで、りんご屋にきたのはそのためである。(コロナをきっかけに、もうそういう時代になっているのだね) そうなると、ひとに喜んでもらうことは副産物でしかない…。と言うと淡白に聞こえるが、根をそっちのけにしているといざという時に踏ん張りが効かない。そのことを、しばらく忘れていたかもしれない。

のどに刺さった骨が、とれた気がした。

この7階にもお世話になっている。ここからとりとめもなく、空を眺めるのがお気に入りだ。豊かな表情をみつける度に、お、これはとおもいつつ、静かに喉を潤す。ナースステーションからは今日も笑い声が飛びかう。

どうせ幸せなのだから、どうでもいいことを考えるのだ。

食パンの上で緊張を解いているこのバターがもしかすると、すべてに繋がっているのかもしれない。

どうもありがとう。




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